2011年12月05日 第411号 全君のパパの葬儀

4年半ほど前に全君のママが亡くなって
全君のパパも先日亡くなってしまいました、私より4歳若い61歳でした。

ヒロコと保育園で6年間一緒だった小林全君家族とのお付き合いは、まもなく30年になるのですが…
弟の永君と二人きりになってしまいました。

全君の家には毎年大晦日の夜に我が家の3人が揃ってお邪魔をするという習わしがありました。
我が家では決して作って貰えないお美味しい手作りのお節料理を大晦日にご馳走になるという習わしです。(^_^;)
このお節料理を作るのは全君のパパだったため全君のママが亡くなってからも
私たち3人家族は毎年揃って、全君のパパが作るお節料理を食べに小林家にお邪魔しました。

全君のママはとても社交的で太陽のように明るい人で保育園の頃から親しくしていましたが、
全君のパパと親しくなったのは全君のママが亡くなってからです。

東京都の教員をしていた全君のパパは昔から透析治療をしていて
「ボクは身障者だからクルマはどこでも駐車出来る!」というのを自慢していました(^_^;)
今年の7月彼から来た最後のハガキになった暑中見舞いです。
私が震災いらいブログに書いている事で、真っ向から意見を異にする内容です(^_^;)
全君のパパは学生時代から左翼活動を続け、後年右翼的思想になった人で
専門は数学ですが日本古代史がライフワークで論文も書いていて時間があれば全国を飛び回っていたのです。

「ボクと議論をして負けた事が無い!」という全君のパパでしたが
私とは考え方が対立してもお互い楽しくお話が出来るので
今年の大晦日も夏に届けられた“暑中見舞い”のハガキをネタにどのような議論が出来るか
楽しみにしていたところだったのです。
でも、これまで暑中見舞なんて書かなかった彼がなんでこんな事を書いて…

なんで蓮の花のさし絵を選んだのか…などなど
ハガキを見詰めながらそんな事をボーと考えていたら寂しさが込み上げてきました。

11月27日の朝、全君からとても明るい声で電話があり、その声につられてこちらも余計な事をしゃべろうとしたら
「父が亡くなりました!」の一声に、私は絶句してしまいました。
その日の夜に小林家に行くと、奥様の写真の横に安置されていました。
散らかっていた部屋は保育園時代からの友だちのマコちゃん夫婦や大ちゃんたちが急遽片づけたようです。

私は全君に開口一番「お父さんも日出子さん(亡き奥様)のところに行けて良かったじゃない!」
と励まし意味も込めて言ったのですが、全君はすかさず「母は迷惑がっているでしょうけどね」と答えたので
「そりゃーそうだ!」と私が言って、みなで大笑いをしてしまいました。

1歳年上のしっかり者で明るい姉さん女房を亡くした全君のパパとお話をすると
必ず一回は「日出子は…」という言葉が出てきます。
病気と闘いながらの息子2人の男所帯で何かと大変だったのかも知れません。

11月30日にお通夜が自宅で行われました。
玄関を入ると靴を脱がずにそのままリビングに行くと、すべての家具が取り払われ
祭壇と献花と焼香のスペースが作られていました。
普段着のままの彼の写真は彼の心意気を感じるいい写真です。   

お通夜の後、保育園の仲間だったハルカちゃんの家でお姉さんのマコ夫婦、そのお母さん、
それに全君やマコちゃんたちと小学校が同じだった三村君親子が集まって、
お通夜で持ち帰り用に頂いたお寿司とお酒を頂きながら楽しい時間を過しました。   

翌12月1日、午前10時より葬儀
昨晩とうって変って朝から雨が降っていて、とても寒い日でした(^_^;)
これまで明るく陽気にふるまっていた全君ですが…
喪主としてのお礼の挨拶をする時、言葉を詰まらせてしまいました。  
それには、私も目がしらが熱くなってきました。
そして「これから父を見習い誇らしく生きていきたいと思います」という言葉に
隣にいる弟の栄君も頷いているようでした。
「兄弟仲良くやれよ!」…私は通夜の日に全君の肩を叩いてそういうと
「それはムリかもしれません、頑固なのは血ですから…」なんて事を言っていました。
性格がまったく違う全君・永君兄弟ですが
天国から両親に見守られて、お互い誇りを持ちながらきっと上手くやっていく事でしょう。

     

2011年11月28日 第410号 津久井在来大豆

相模原での大豆作りも今年で3年目で、その収穫祭が26日(土)に行われました。
後は来年の2月に3日間かけて味噌作りをやって本年度の大豆作りの行事は終わるわけですが、
もちろん来年度も参加するつもりです。

飯山でのコメ作りと相模原での大豆・味噌作りは、
私のライフ・スタイルの中にすっかり溶け込んできたようです。

都会育ちで農業など、まったく縁もゆかりもなかった私が、
この数年でこのような事になるとは私自身も予想もしなかった事です。
なぜ?こんな事になってしまったのか?
「ソレはアンタが歳をとってきたと言うことだヨ!」…と言われたらソレまでのようですが(^_^;)
最近は若い人たちもこのような活動をする人は少なくありません。
若い人たちも興味を持っているという事は…
これまでの社会や経済や食生活の在り方に、理屈ではなく本能的に対応しているのではないでしょうか。
そう!私もそのような心地よさを感じて活動しているのです(^_^;)

飯山で獲れたお米も、相模原でとれた大豆も、理屈抜きで美味しく感じるのです。
毎年恒例の26日の収穫祭では、いつものように今年収穫した大豆を煮たのを試食してもらい
地元の【津久井在来大豆】の美味しさを知ってもらい
大豆や、それから作った納豆や豆腐を販売するというイベントです。 

今回は地元の小学生が試食を配っての応援もありましたが    
試食をした人たちの多くが、水で煮ただけの茹でた大豆に「美味しい!」と目を輝かし    
これまではいつも大量に売れ残っていた大豆が完売されてしまったのです。    
その中でも3・4歳の男の子が試食の大豆に感動してくれて
「帰りに買ってかいろう!」という両親に「今買って欲しい!」と大豆の前に居座って頑張って
完売前に買ってもらえた事には、こっちが感動してしまいました。

美味しいものは子供にだって、いやピュアな子供だからこそ判るのかも知れません。

そして多くの人たちがこの素朴で美味しい自然の味に反応して、
大豆はもとより、決して安くはない200円の納豆や、150円の豆腐を買って頂きました。
そしてキュウリに付けて試食に出していた味噌も欲しいというお客様も多くいたのですが…
これは食品衛生法上の規制で販売できないようなのです(^_^;)
だったら、この“大豆の会”に次年度から参加したいという人まで現れました。 

豆の会の販売スタッフもてんやわんやの忙しさ!
今年から参加しているAさんが突然笑っているので、どうしたのか?と思ったら
大豆を購入して頂いたお客様に「ありがとうございました!」というつもりが
「お大事に!」と言ってしまったというのです。
聞いてみるとAさんは医療機関で働いていると言う事でみんなで大笑い!   
お客様もびっくりした事でしょう(^_^;)

今年は時代が価値観が少しづつ変わっていく予感がする1年でした。
そして来年2月の味噌作りが楽しみです。

2011年11月21日 第409号 パソコン・クライシス

パソコンがあれば!インターネットがあれば!
これからの時代はお金がなくても優雅に自分らしく生きていく事が出来る…
というのが私の持論ですが、
この一週間、私のパソコンが壊れた為に色々な人たちを巻き込んでドタバタの日々を過してきました。(^_^;)

この状況はブログにも2回ほど詳しく書いていますが  
私の愛用のパナソニックのレッツ・ノートを私がコードを引っかけて落してしまい
液晶パネルをダメにしてしまったのです。

我が家にはパソコンが普段は使っていないのを入れると5台あります。
それに私のiPadとユキのiPhoneがあります、ヒロコがいたら10台以上になるかも知れません。
これは新しいのを買っても古いのも処分しきれずあれば便利だろうと置いてあるからです(^_^;)

今回、壊れたのはイヤ私が壊したのは、
あれば便利が良いだろうと思って残しておいた5年以上前に購入したパソコンなので
新しいパソコンは1年以上前に購入したのですが、あまり使用せず置いてあるのです。

したがって壊れたところで大した損害はないはずなのですが、
ここ半年ばかりは軽くてコンパクトで使いなれた古いパソコンを使ってしまっていて
そこに最新のデータが入っていて、バックアップも取っていなかったのです(^_^;)

時は11月も、もう半ば、今年は母が亡くなったので年賀状はださず、
その代わり写真入の喪中のハガキを作ってパソコンに入れておいたばかりです。
それに最新の住所録も壊れたパソコンの中にあります。
12月・1月の満期を迎える自動車保険のご契約者に、
保険料が安くなる契約条件が揃っている場合にご案内する、自作のご案内もそのパソコンに入ったままです。
それにお客様とのメールのやり取りが壊れたパソコンに入っていて…
新しいメールのチェックもスムーズにいかず心は焦るばかりなのです(^_^;)

こんな時に頼りになるのがアカラックスの坂本さん! http://d.hatena.ne.jp/rocohouse/20111116
幸か不幸か、お仕事の方がとてもヒマそうで(^_^;)
部長の新越さんともども、とても親身になって私のパソコン・クライシスの克服に取り掛かって頂いているのです(^_^;)
そうそう、先週の週刊KENが水曜日のアップになってしまいましたが、
これは月曜日    
火曜日①  ③ とアカラックスに通って、どうにかアップが出来たのです。

一日休んで木曜日にはアカラックスに生命保険や金融のシステム開発をする会社
『トータルソフト』社長の下郡さんと小泉さんが、やってきて?
私の壊れたパソコンから取り出したデータを復旧出来るよう坂本さんと懸命に夜遅くまでやって頂きました。
私としてはタダ眺めているだけで、何も出来ずに、何も分からずダダ眺めているしかありません。
この方々の人件費を考えたら修理に出した方が格安かもしれませんが、もちろんボランティア
けっこう楽しそうにやっていただけたのがセメテモノ慰めでした(^_^;)

         

『トータルソフト』がで生命保険の代理店向けの Facebookのファンページを作ったというので、
ロコハウスにモニターになってもらえないか?という事で、
私のセンスとはチョット違うのですが、そのへんのアドバイスも頂いて…という事で出来あいの物を載せてもらいました。
それをこの週刊KENでお見せしようと思ったらリンクが外されていました(^_^;)
私が早速にいろいろ文句を言ったからかも知れませんが、
私にも興味がある事なので、いろいろアドバイスが出来ればと思っています。

今回のパソコン・クライシスでお世話になっている坂本さん、新越さん、下郡さん、小泉さんに感謝するとともに
ご迷惑をおかけしているお客様にお詫び申しあげます。

そして端末が壊れても大丈夫な“クラウド”の一日でも早い普及で、
インターネットで優雅に自分らしく生きていく事を夢みる人騒がせでドジな私です。(^_^;)

2011年11月14日 第408号 なべくら古民家映画祭

12・13日と2日連続で行われる映画祭にユキと参加してきました。

…というとチョットおおげさですが、そういうイベントが飯山のなべくら高原・森の家が行いうメールでのお知らせが届いて
そこに描かれているイラストもこれまで見かけた事のない斬新でほのぼのとするもので   
ユキと「いいね!」という気分になって出かける事にしたのです。

11日秋晴れの飯山!何度も訪れている飯山ですが、田植えが終わったこの時期ははじめて!
同じ時期でも来るたびに新しい感動のある飯山ですが、秋の深まった晴天の飯山はまた格別です。  

映画祭は11日に第一部と第二部、12日の第三部となっていて
飯山のなべくら高原にある、それぞれの古民家に会場を移して映画鑑賞をして

その後は飯山の食材使ったおいしいものを食べようという企画で、
定員は一部と三部が15名、二部が25名という、ゆる~い映画祭で、もちろん私とユキは全て参加しました。

12:30森の家を出発、いつもの田んぼに向かう道ですが落ち葉を踏みしめて歩くのは初めて、 
第一部の会場は森の家のスタッフの女子寮?なかなかの風情で映画鑑賞にはピッタリの雰囲気。  
途中でプロジェクターの電球が切れて上映が中断するというアクシデントがありましたが、 
昔は映画の途中でよくフィルムが切れたりしたもので、これもなかなかの演出効果?でした(^_^;)

上映された映画は『かもめ食堂』
映画が終わってのヨモギだんごと野沢菜とお茶はまた格別!     
夕暮れの景色も最高です!  

第二部は17:00に森の家からマイクロバスで15分ほど行ったボランティアの手で再生した古寺【大応寺】。

      

ここは以前に、うどん作りで来た事がありますが、
闇の中ロウソクが灯された石段を登っての演出はなかなかのもの
上映された映画は『南極料理人』
映画が終わってランプの灯りで食べるキノコ汁と新米のおにぎりに信玄ずし(笹ずし)は大好評でした。  

この日の宿は、いつもの森の家が満室で戸狩温泉の民宿『岸田屋』。
合宿に多く利用されているようですが情緒があって、しかも無線ランが繋がっているのにはビックリしました。

       

12日、第三部は思った通り会場は、われわれのコメ作りの田んぼのすぐそばにある森の家のスタッフの男子寮?(^_^;)
ここには3度目の訪問ですが、これまではホタル観賞の暗い時で、
あらためて見ると、明るいところで見てもると素晴らしい古民家である事が分かりました(^_^;)
上映された映画は『秋刀魚の味』
映画が終わってのおでんのこんにゃくがなんと美味しかったこと、古民家住人が作った燻製各種もグーでした。

         
最終日は地元のケーブル・テレビの取材もあって私にもインタビューがありました(^_^;)   

 

三本とも見た事の無い映画で、
最初の二本はそんな映画がある事も知らずにいたのですが、とても楽しく見る事が出来ました。
三本目は小津安二郎の名作でもちろん題名ぐらいは知っていますが、小津作品をじっくりと鑑賞したのはコレが最初でした。
この映画は1962年の作品で私が16歳の時、東宝の株主券が伯父から貰えたので
東宝系の映画は洋画も含めタダで見る事が出来て映画を見まくっていた時代で、この映画が封切られたのもよく覚えています。
秋刀魚という字を初めて知ったからです、
でも松竹の映画には縁が無く、第一こどもが興味持つような映画ではなく
それからず~と65歳になる今日まできてしまったというしだいです。
小津作品は年寄りが作った年寄りの作品いう印象があったわけですが、主演の笠智衆はこの時58歳
小津安二郎はこの作品の翌年60歳で亡くなっているのです。
そしてテーマも嫁ぐ娘の父親を描いたのもの(^_^;)
時代背景も懐かしく、またセリフのひとつひとつも身に沁みこんで時間を忘れ見いってしまい
名画である事がよ~くわかりました。
実は小津作品、テレビやビデオで何本かは見ているのです最後までしっかり見る事がなかったのです。
暗いところで多くの人たちとスクリーンに向かって集中して見る…
小津作品に限らず映画は映画館やこのような環境で見るように作られている事を実感したのです。

『かもめ食堂』はフィンランドの都市ヘルシンキを舞台にした若い女性監督の日本映画ですが、
とても軽妙でタッチも斬新で感動した作品でしたが、
『秋刀魚の味』…すなわち小津作品に大きな影響を受けている事がとてもよく判りました。
『なべくら古民家映画祭』
まだまだ3作品について書きたい事は山ほどあるのですが止めておきます。
森の家のスタッフには、これはシリーズ化するよう強く要望しました。
まだまだ古民家は飯山には限りなくあり、題材となる映画も限りなくあり、飯山の食材もとても深かくあるでしょう。
『なべくら古民家映画祭』というネーミング、
そこに添えられイラストに魅かれて来た私ですが、
そのイラストを描いた鎌倉在住の梶谷さんにもお会いする事が出来て早速Facebookの友達になって頂きました。

『かもめ食堂』でこんなシーンが印象的でした。
「フィンランドには森があるからさ!」…
日本からやってきて“かもめ食堂”を手伝う事になったマサコ(もたいまさこ)は
この言葉を聞いて森に行き、人間性を取り戻して帰ってきます。
もちろん飯山にも…

ゆったり、のんびり、ゆる~い『なべくら古民家映画祭』の次回を楽しみにしています。

2011年11月07日 第407号 春菜ちゃんの結婚式

春菜ちゃんは、週間KENでもおなじみの東大和市(東京都)のパティシエ・エノちゃんの長女です。
エノちゃんとは30年以上の付き合いで彼の結婚式にも行きましたので春菜ちゃんは子どもの頃から知っていますが

その春菜ちゃんの結婚式・結婚披露宴が11月5日(土)に青山フェアリーハウスという結婚式場で行われました。

渋谷・青山界隈は昔から馴染みの街で、また今はネットで知らべれば、どんなところでも簡単に行けるので
当日まで会場の場所を詳しく確認していなかったのですが、場所を確認してビックリ!

私が小学校入学から十数年住んでいた所から100メートルも離れていないところだったのです。(^_^;) 
私が住んでいたところの住所は現在は渋谷区渋谷1丁目ですが、式場は渋谷区神宮前5丁目だったので

ここまで近いとは思ってもみなかったのです。
私が住んでいたところは式場から通りを挟んでハスムカエ!今は【ヒコ・みづのジュエリーカレッジ第四校舎】になっていました(^_^;)

先週は私が誕生した広島・上下、その旅の途中に幼稚園時代を過ごした京都・永観堂にもちょっと寄って、
今週は最も思い出深い渋谷と…私のルーツを辿る旅を楽しませて頂いています(^_^;)

またまた前置きが長くなりましたが、春菜ちゃんの結婚式です。
新婦の父の友人という事で参加していますが、私を招待してくれたのはエノちゃんでなく春菜ちゃんです。

春菜ちゃんからこんなメールを頂いたのです。

>11月5日(土)の私の結婚式で、カメラマンをしていただけませんか?
>カメラマンといっても、別にプロの方もいるので、
>角倉さんなりの写真をぜひ是非お願いしたいです!!!(うまいので★)

頼まれなくても、人が集まれば昔からパチパチと写真を撮るのが趣味ですし、
まして親友エノちゃんのお嬢さんの結婚式ですから二つ返事で喜んで出席させて頂くことにしました。

新郎の達也君とは職場結婚!
ふたりが勤務していたのは渋谷のセルリアンタワーにあるIT企業で新郎新婦の友人は共通でしかも若いひとばかり。
よく見れば両家の親族を除けば私だけが゛年配者゛のようなのです(^_^;)
もちろん私は形式ばった、誰の結婚披露宴なのか判らないようなものより、このような式のほうが大好きなので
とてもリラックスして、とても楽しく過ごさせて頂きましたが、
私のミッションである写真撮影は、私の実力を充分に発揮しないまま終わってしまいました(^_^;)

その “言い訳” は二つあります。

まず式場の正式カメラマン?がビデオをも含めて3人!
黒い衣装で大きなカメラを持って60人ほどの会場を移動しながら、しかも被写体に接近して撮影するのですから、
私のようなものが小さなデジカメをもってウロチョロしていたら

ヘンなオジサンが酔っ払って近づいてきたとしか思って頂けてないような気がしてしまうのです(^_^;)

そして、もうひとつ!
出席者のほとんどがパチパチと写真を撮りまくるという状況です。(^_^;)
この傾向はケータイの普及で以前から感じてはいましたが、今回は若者ばかりでしかもIT関連の企業での社内結婚で、
ほとんどがスマートファンや私が持っているような小さく高性能のデジカメを使いこなしているのです(^_^;)   

てなわけで、ケータイも持った事が無いという超アナログ人間のエノちゃんの左隣で    
私は新婦の父の姿や、右隣に座っている春菜ちゃんの妹の明菜ちゃんとカレシの敦史君のツーショットの写真を中心に?    

 

結局は1000枚近く撮影し450枚ぐらいに絞ってグーグルのPicasaにアップしておきました。
こうしておけば誰もが好きな写真を選んでダウンロードをすれば私が撮影したのと同じ画素数でコピー出来るのです。
二台のデジカメでビデオ撮影も1時間ほどしています。
写真を撮りながらの撮影ですからキッチリとは撮れていませんが臨場感には溢れています(^_^;)   

妹の明菜ちゃんとカレシの敦史君から「私たちの時も撮影をお願いします」と嬉しいお願いがありました。
それまでに、いろいろとリベンジ対策を考えておきたいと思っています。(^_^;)

新郎・新婦とはゆっくりお話する時間もありませんでしたけど、
とても素敵なカップルで、とても素敵な披露宴で、エノちゃんも感無量のようでビデオにはしっかり納めています(^_^;)
春菜ちゃん、そしてエノちゃん、こころよりオメデトウ!   そして、お疲れさま

2011年10月31日 第406号 上下・善昌寺

母が亡くなって2ヶ月が経過しました。
母の葬式とヒロコのアメリカでの結婚披露宴が紙一重なりその場は何とか乗り切る事が出来ましたが…
我が角倉家には゛お墓の問題゛が長男の私に大きくのし掛かっているのです。
15年前に亡くなった父の遺骨が津田山(川崎市)の霊園に預けたままになっていたからです。(^_^;)

父が亡くなった1996年は私が新聞配達をやっていた最も厳しい状況の時で、
父の戒名もとても短いもので済ましてしまいました。
私はそんな事をまったく気にする性格では無いのですが
母は親戚や世間体を、または私の立場を気にしたのか内緒で高額を払い長い戒名に変えていました(^_^;)
その数年後から母の介護状況が長く続く中で゛お墓の問題゛は母が亡くなってから考えようと先延ばししてきたのです。
その母が亡くなって
シッカリモノの妹の由美子から「お墓をどうするかはお兄ちゃんが決めてよ!」と決断を迫られていたのです。

そして先日の26日・27日
妹の由美子と淳子、そして私とユキとの4人は父と母の遺骨を持って、
広島県府中市上下町上下の善昌寺に行ってきました。
上下や善昌寺については7年前の週間KENでこんな事を書いています。

1月にクルマで宮崎を往復した時に、
善昌寺によって長岡住職に、はじめて我が家の事情をザックバランにお話させて頂いたのですが

母が亡くなった時には連絡もせずに簡単な家族葬で済ませてしまったので
いま頃になって具体的なご相談のための電話をするのが少々気が重かったのです。
ところが、何も知らないはずの住職が電話に出られるなり「この度は、お母様がお亡くなりになられて…」
と言われるのでビックリ!しました。
よく聞いてみると住職の奥様が、この週間KENをご愛読頂いていたのです(^_^;)

もう、そうなると我が家の事情もよ~くお判り頂いているものと楽天的な私は更に楽天的な気持になってしまい、
心の迷いはイッキに晴れて善昌寺にお願いしようという気持になってしまいました。

もう一つの選択肢として迷いがあったのは…
「上下はあまりにも遠いので都心にある新しい永代供養の共同墓地がいいのではないか」という考えです。

私はクルマで宮崎も含め日本全国気軽に出かけるので上下が遠いという感覚は無いのですが、
それはあくまで私の感覚ですし、私がいつまでも今のようにクルマを乗り回せるかも判りません。

かと言って、近ければ頻繁に墓参りをするかと言えば、お恥ずかしい話ですが父の遺骨を15年間安置していた
近所の長津田霊園には気が着けば一度も参拝には行っていませんでした(^_^;)
だからと言って父を蔑ろにしているわけではなく歳を重ねる事に父が身近に感じるようになっていて
どうせなら、父の故郷であり角倉家ゆかりの土地であり私が誕生した上下が良いと私は思っていたのです。

だだ、まったく判らない大きな問題として残っていたのが゛お金゛がどのくらい掛かるかです(^_^;)
父の長兄が角倉家の墓地や遺産などは引き継いでいたのですが、その長兄の伯父に子どもがおらず
父の二番目の兄の長男である洋介君が墓地や遺産を引き継ぎ、善昌寺の墓地の管理や法事をやるようになりました。
洋介君がどのくらいの相続をして法事にどのくらいのお金を使っているかはまったく知りません。
ただ、角倉家の墓地の使用に関しては角倉家の問題で善昌寺には関係ないようです(^_^;)
もうすっかり世代は変わって私が従兄弟の中では最も長老で洋介君は赤ん坊の時から知っていて
しかも唯一の上下生まれですのですので、これくらいは言いやすい立場にいるのです(^_^;)

そんなわけでまだ父と母の゛お墓゛は建っていないのですが
まずは母の戒名を善昌寺から頂いて、父と母の遺骨と位牌を善昌寺に持っていって供養をして頂き
お墓が出来るまでは善昌寺に預かって頂くという事まで決めて、今回の上下行きとなったのです。

墓地そのものにお金が掛からない事が判りましたが
“お墓” を建てるには多少なりともお金がかかる事は判りますが、どのくらい掛かるかは想像がつきません(^_^;)
インターネットで調べると格安墓石だとか色々ありますが調べれば調べるほど判らなくなります(^_^;)
こうなったら善昌寺さんから上下の石屋さんを教えて頂き、そこに直接行って直談判するのが早いと思い行ってきました。
最初に「予算は○十万しかないのだけど…」という事から切り出して正直に事情を話したところ色々と親身になってもらい
善昌寺ならすぐ側だから墓地を見させてもらいたいという事になって、
私が角倉という名前を知ってビックリさせてしまいました(^_^;)
この予算だと二人の伯父の墓より小ぶりに なるという事ですが、それで充分(^_^;)
1年後の法事の時までに出来れば充分でヒマな時に作っておいて下さいという事で
上下の石屋さんとも親しくなれそうで、とても良い買い物が出来たようです。    

さて、もうひとつ難題があります。
善昌寺へのお布施です(^_^;)まったく想像がつきませんし、いくら私でもいくら包めば良いのか直接聞く勇気もありません。
従兄弟の洋介君に聞いても参考にはならないでしょう。
でも母の戒名は父の戒名に合わせて善昌寺に付けて頂きとても清楚で母を偲ばせるもので私は感動しました。
これだけでも大変な価値があるところに、今回の法要は母の葬儀から四十九日や色々なものをやって頂だいて
その上、墓石が出来るまで善昌寺に預かって頂くわけですが、お恥ずかしい金額しか払えなかったのです。
     

ただ、私としては、お墓を建てるなら゛上下の善昌寺゛に…という思いが年々強くなっていて、
このような無理をも通させて頂だいともいえます。

私自身は貧乏をしていますが、母も僅かですが生命保険や若干のお金も残っていて、
妹の由美子もこれまで母の事では色々と大きなチカラになって出来そこないの私をカバーしてきてくれました。
したがってお墓もお布施も払おうと思えば、もっと多くは払えたかも知れません。

しかし、そんな見栄をはって後が続かなくなったら、それでお終いです。
上下は首都圏からは遠く不便なところですが、だからこそ、
それを口実に定期的に旅をする事が楽しみになれば良いと思うのです。
今回も上下行きの前後に京都・宝塚・尾道・鞆の浦など観光を楽しみました。

               

そのための資金をプールさせて頂き上下にお墓参りに行く時は一人一律○万円支給するというルールを決めれば
けっこう盛り上がり、世代が変わっていっても角倉家の親類が仲良く繋がっていく事が出来たら
上下や善昌寺にとってもプラスになっていくような気がするのです。

いずれは資金は底をつくでしょうが上下との繋がりが深まっていけば
自腹を切ってでも行くようになるはずです(^_^;)

法事の前日26日、
善昌寺の長岡住職のファミリーと会食をする事が出来ました。
住職と奥様の嘉子さん、長男の宏宗さんと5日後の31日に結婚する京(みやこ)さんの4名です。
由美子は嘉子さんと渋谷で同じ小学校時代を過ごしている事が判って意気投合して
これまで家族ぐるみのお付き合いをして長男の宏宗さんが中学時代に合っているようです。
その宏宗さんが仏教の大学でもある駒沢大学を卒業し、
総持寺での1日数十分の睡眠が20日間も続いたという想像を絶する厳しい1年間の修行を終えて
善昌寺を継ぐ事になって、それと同時にお嫁さまで来るという、とても喜ばしいことです。
宏宗さんの第一印象は歌舞伎役者の海老蔵を連想するようなスキッとしたカッコよさ!
京さんも清楚でいて逞しさと包容力が滲みでて、二人とも只者ではない堂々とした雰囲気があるのです。
話を聞いて見ると二人は6年前原宿のブックオフでアルバイトをしている時に知り合って京さんは4歳年上。
その時は宏宗さんは専修大学の学生で僧侶になる気はなかったのですが、
バイトで多くの人と接する中で人間に興味がわいて駒沢大学に入り直し仏教の道を選んだようです。
京さんもそれを応援し、宏宗さんは婚約指輪の変わりに京さんの駒沢大学の入学金を払って
大学を卒業し社会人だった京さんも、大学に入りなおして仏教の勉強を共にしたようです。

京さんは6年間の交際で上下には何度もクルマで往復していて
もう筋金入りのしっかりしたお嫁さんで、善昌寺のいや過疎化の進む上下の輝けるカップルの誕生に
私は嬉しくなって興奮し、「二人は絶対にFacebookをやるべきだ!」
「まずは京さんはブログをやるべきだ!」 …と熱弁を振るってしまいました。(^_^;)

     

因みに京さんは長岡家に嫁いで『長岡京』になります(^_^;)、まったくの余談ですが

まだまだ書足りない事が沢山ありますが、それでなくてもとても長い週間KENになってしまったようです。
このように私のような八方破れな人間が暖かく迎えて頂けるのも、これまでの角倉家の人たちや由美子との交友が積み重なって
そしてインターネットでも繋がって、生かされているのだとシミジミと思ってしまいます。
親父やおふくろは、こんな息子をどう思って見てくれているのでしょうかね(^_^;)

2011年10月25日 第405号 4台目のIXY(デジカメ)購入

デジカメのキャノンのIXYがこれで4台目になりました。
初代IXYは6年前、2005年6月、東京海上のホノルルでのコンベンションに行く直前に購入したもの。
このカメラでW杯のドイツ旅行やスペイン旅行などを撮影したのですが、
二代目IXYは2007年、大学時代の仲間と香港旅行に行く前にワイドのカメラが欲しく購入したもの。
三代目IXYは2010年の正月に購入。
二代目IXYのレンズのモーターがよく故障し保障期間が過ぎても1回1万円の修理を2回やっていて
次に故障した時は新しいのを購入しようと思っていたからです。
そして四代目はつい先日17,700円で購入したばかりです。
気がつくと四台目が四代目になっていましたが、このほうが私としたらシックリするようです(^_^;)

5年半で4台のデジカメというのは、日本の首相ほどでは無いですが…
「ちっとも変えすぎじゃない!」と叱られそうですが
常にデジカメを ポケットに入れて一日最低でも6枚(全食事の写真と食べ終わった写真)、
なにかイベントや旅でもすれば200枚~1000枚以上も撮影する私としたら充分に原価償却はしているのです。
それとデジタル機器の世界の目まぐるしい進化と低価格化です。

私が始めてデジカメを手にしたのは13年ほど前の1998年暮、
富士フイルムのファインピクス700で当時は、世界最小で150万画素というのが売りもので
たしか7万円(定価は99,800円)ほどで購入したと思います。
最近では“画素”という数字は見かけなくなりましたが、私が今普通に撮影に使ってうるのが1200万画素ぐらいです。
それでも15万画素もあれば今でも充分に通用する写真ですが、一度も150万画素で撮影する事はありませんでした。
当時のパソコンでは画像が重すぎて処理出来なかったからです。
したがって撮影したのは今のケータイでの写真程度ですが、タダでいくらでも写真が撮れる楽しさを実感しました。
そうそう、その時にはじめてメモリーカードを見たのですけど、それが今でも残っていて2Mバイトです。
今、普通に撮影している写真1枚が2Mバイト以上ありますから使い物になりません。
今使っているメモリーカードは16Gバイトで2Mバイトの8000倍の容量(ハイビジョンのビデオ撮影も可能)
しかもメモリーカードの値段は調べてみると16Gバイトの方が、当時の2Mバイトより半分以下の値段になっています。

私はユキから時々「KENはモノを大切に扱わない!」と言われる事がありますが
それは誤解で(^_^;)徹底的にトコトン使ってしまう習性があるのです。
今乗っているクルマも2台目のカーナビもボロボロで壊れてしまいましたが、それは【iPad】でカバーして
本体のクルマは34万キロ、走って今は大阪にいて広島に向かいます、詳しくは次回の週間KENで(^_^;)

話をデジカメに戻します。
今回、4代目IXYですが、なぜ新しいのを購入したかというと色々な理由があります。
まず、これまで使っていた三代目IXYがオーバーホールが必要になった事、
カメラの中にゴミが入った事と、 
農作業などので泥だらけの中でも撮影したりしたので
パネルのガラス部分が細かくキズがついて日中の明るいところでは見づらくなってしまったのです。
そんなわけで新品だったの三代目も1年10ヶ月の酷使でこんな風になってしまいました。

ま~これは修理すればまだまだ使えるわけですが、
これはこれでビデオ撮影などに特化させるとして、
新しいのが2万円もしないで購入できるからです(^_^;)

その大義名分としてはパティシエのエノちゃんのお嬢さんの結婚披露宴に招待され写真を撮る事になっているからです。
それも嬉しいのは、頼んで来たのがエノちゃんではなく、お嬢さんの春菜ちゃんが直々に私を指定してくれた事です。
式は11月5日ですが、それまでにカメラに慣れておかねばなりません(^_^;)

結婚披露宴の正式カメラマン?なら大きな一眼レフが似合うのかも知れませんが、
私は小さなデジカメの方が気にいっています。
被写体になる人たちにプレッシャーを与えず接近して何枚でも撮れるからです。

なぜキャノンのIXYを代々購入するようになったのかという
新しい機能の追加やバージョンアップの様子が手に取るように判る事と、
選べる機種が豊富にあるからです。

初代から四代目までの変遷で最も私が意識しているのは“広角レンズ”の機能です。
私は人を撮るのが好きですから、接近してしかも少しでも多くの人を撮るには広角レンズが最適です。
二代目は広角レンズを始めて?取り入れたもの。
三代目は画像をワイドにする事で更に広がり観が出せたもの。
四代目は普通サイズで三代目以上のワイド撮影が出せるようになりました。

人を撮るのが好きですが、自分も入れて大勢を撮る、景色を背景に自分を撮る…という事も多く
いわゆるジドリ(自撮り)というやつですがコレが楽にこなせるように進化しているのです。

★ジドリ(自撮り)テストの写真です      
…というわけで、それほどお金もかからず、人にも喜ばれる良い趣味だと自分では思っているしだいなのですが(^_^;)

2011年10月17日 第404号 宮崎にて

13日(木)の朝の便で宮崎に来ています。
今回はクルマでなく飛行機で往復なので充分に中身の濃い宮崎滞在をしています。
13日・14日・15日・今日16日と…宮崎にいるわけですがほとんどどこもいかずに
宿として取っているビジネスホテルと義母(ユキの母)の家をただ往復しているだけです(^_^;)

「ただ往復していつだけ…」というとユキから「ソレはKENだけでしょ!」と叱られるかも知れません。
ユキは来年の宮崎での日舞の会にも出場する決意!をして、その゛特訓゛が今回の宮崎行きの目的だったのです。
だったら私がなにもついて行く事も無いのですが、
私も晴れて65歳になって当日シルバー割引が使えて格安で行ける事になって同伴する事になったのです(^_^;)
今やパソコンやケータイが通じる事で、どこにいても仕事が出来るという事ですが
…゛二人ペアで一人前゛というスタイルになりつつあるかも知れません(^_^;)

てなわけで、ユキの義母による厳しい?レッスンを何時間も受けているのですが    
私ときたらただユキと義母の稽古を見ながらパソコンの前で時間を過ごしているわけです。
でもそのパソコンもここにきてかなりガタがエスカレートして
メールの受信は出来るのに返事の送信で出来ず、
お客様にもご迷惑をかけていて理想通りにいかないのがこれもまた現実なのです。(^_^;)

そんなわけで、お客様に返事も出来ないことをイイことに、
のんびりとボーとしながら数日を過ごさせて頂だいているのです。

我われの宿舎としているのは『宮崎ロイヤルホテル』
…宮崎を代表するような立派な名前ですが一人一泊3000円ほどで宿泊出来るビジネスホテルで
義母の家から2キロ半ほどのところにあり、健康の為の散歩コースとしても最適なのです。
という事で今回はクルマもなくレンタカーも借りずにホテルと義母の家を原則゛歩き゛という事にしたのです。    ④ 

でも、これは私にとって大きなメリットがあります。
クルマが無いので義母の家での夕食で゛ビール゛が飲めるという事です。(^_^;)
今回はヒロコの結婚披露宴のアメリカ旅行の゛反省会゛?という大義名分で、その時のビデオ鑑賞 
豪華な会席料理のお弁当をとったり、ランスが日本に来た時にお土産に持ってきたバーベキュー・ソースでの焼肉パーティー
差し入れのお刺身とおでんでの…とか連日、゛反省の日々゛を遅らせて頂きました。(^_^;)    

宮崎に来ると、どうしてもカローリー・オーバーの日々が続くため朝食は抜き。
我が家にいる時は夕食が21時過ぎで就寝するのが午前2時頃という生活なのに、
宮崎では午後6時から夕食して、ホテルに徒歩で戻っても午後9時頃、アルコールも回っているので
遅くても午前0時には寝てしまうので、起床は午前6時前(^_^;)
朝食は食べさせて頂けないので昼食までの時間が長いこと長いこと…

…とま~このような生活をしているうちに日曜日も終わり、それでも体重が増えたようです。
明日、宮崎での最後の日にレンタカーを借りて、゛綾゛の方にみんなでドライブして、
宮崎空港から帰宅の途につく予定です。

2011年10月10日 第403号 稲刈り2011

飯山(長野県)での4年目になる米作りも、この稲刈りで今年も終了という事ですが、

もうすっかり飯山に行くのが生活の一部になってきたような気分です。
春の田植え・夏の草取りと田んぼでの蛍鑑賞・秋の稲刈り…の3つが

【蛍の宿を守る会】のメイン・イベントですが今のところ私とYUKIは皆勤賞です(^_^;)

実は9日にはハートコンサートの理事会があって前回はアメリカ旅行中で参加できなかったので

今回はほんとうならソッチに参加しなければならないのですが、やっぱり飯山での稲刈りを優先させて頂きました。(^_^;)
その大義名分としてですが…

今回は3連休と重なるという事もあってなのか稲刈りの参加者が例年よりかなり少ないという事。

それと私の一言?から飯山に住み着いて農業を始める事になった笠木さんの゛稲刈り゛もある事。

そして、モモさんの【本所ひとノま】の仲間の飯山ツアーも重なってどうしようかと悩んでいたのですが
こちらは幸か不幸か都合で中止になってしまいました(^_^;)
8日(土)は我が家を6時30分に出たのですが3連休の初日という事もあってか渋滞にあってしまい、
休憩もナシでクルマを走らしたのですが、飯山の゛森の家゛に到着したのが集合時間を過ぎた正午をオーバー。
何時もの集合場所になる゛森の家゛の正面入口前の広場には誰もおらず、早く着替えて田んぼに行かなければと

農作業用の着替えと長靴を持って゛森の家゛のフロントに入ったらロビーに会長の小山さんがのんびりそうに

ソファーに座っていて変だなと思いながら、着替えも兼ねてトイレに向うと常連の人達とすれ違い…

聞いてみると、今回はメンバーが少ない上、遅刻が多いので集合時間を少し遅らしたとの事(^_^;)

 

いつものように大ケヤキの下でお弁当をたべて   

稲刈り!今年はまだ青い稲穂がまだ残っていたのと、稲穂の密集度が少なく、

メンバーは少なかったのですが、農作業も早く終わってしまいましたが、天気も良く快適な稲刈りを楽しむ事が出来ました。
       ⑧ 

 

もちろん農作業が終わればマイクロバスに乗って湯滝温泉で一風呂浴びて、
藤沢集落の公民館で地元の人達との交流会。

ここの人達ともだんだん顔なじみになってきました。

        

今回は飯山市長の足立さんも見えてお話を少ししたのですが

2年後に飯山に新幹線が来る事を自慢されたので
私は「飯山には新幹線など来ない方が価値があるに…」と反論したらシラケテおられました(^_^;)

もちろん宿(森の家)でのニ次回もいつものように(^_^;)     

 

●     翌9日は笠木さんの田んぼでの稲刈りの日!

昨晩は日本酒とワインを飲みすぎて二日酔い気味でしたが爽やかな朝食で元気を回復!    

今年田植えを手伝った田んぼの稲刈りとってきり思っていたのですが、そっちの方は前日に名古屋からこられている
笠木さんのお母さんと親戚の方達総勢6名の助っ人で稲刈りを終えていました。

この日は私も知らなかった田んぼで、その3倍はあるという広さにビックリ!

 

これまで笠木さんのブルベリーの畑から始まって多くの畑を見させてもらい
今年から田んぼでの稲作も初めたと聞いてその田んぼの田植えも手伝ったわけですが、
その3倍もある田んぼにいっぱいの稲穂がたれているのを見て、更にビックリというより度肝を抜かれてしまいました。

まったく農薬を使わず、

まったくの素人から

それもたった2年で、それもたった一人で…ここまでやりとげているのです(^_^;)

私たちが行った時には、もうすでに稲刈りは始まっていました。

        

お昼はスキー場がある戸狩りのレストランで美味しい【焼カレー】をご馳走になりました。   

午後からは気合を入れて!…と気持は逸るのですが、なかなかはかどらず、けっきょくタイムオーバー(^_^‘)
            

ほんとうにお疲れさまでした。

ここまでしか出来なくて、助っ人としてはなんとも申し訳ない気分ですが

だんだん田んぼを離れていくと…

こんなに残っているのに愕然としてしまいました(^_^;)

夜は笠木さんのお母さんと叔父さんご夫婦が宿泊されている宿で楽しく歓談させて頂き、
そのクルマでの送り迎いや、何やかやと余分なエネルギーを使わせてしまいましたが

これからも、笠木さんを応援し続けていきたいと思っています。

ご迷惑かも知れませんが(^_^;)      

 

 

●10日(月)の飯山での写真も添付します。
            

2011年10月03日 第402号 永田紙工所

「○月○日に○○があるのだけどKENも行かれます?」
ユキはこんな質問を私によくします。
私はその内容を一応聞くのですが多くはユキ自身もヨク分っていない場合が多いのです。(^_^;)

ようするにユキは直感で「行ってみたいな」と思っているだけなのですが、
私によっぽどの用事でも無い限りは逆らわずに一緒に行くことにしています。

ようするに二人とも良く判らない状況のまま出かけるわけですが、
不思議な事に、これまで大きな゛ハズレ゛はありません。

1日(土)に出かけた相模原の大豆作りは3年目になりますが、これも、そんなきっかけから…   
来週の8・9・10の飯山(長野県)での稲刈りも、何も分らず参加して丸4年が経過しました(^_^;)

そして29日(木)、ユキが「レコードのオークションがあって…行ってみます」 とまたわけの判らない誘いがあったので
もちろん今回もよく判らないまま行ってみる事にしました。
場所は墨田区石原という事で、なにしろモモさんの【本所ひとノま】のスグそばだというのです。

モモさんとの付き合いもなんだか良く判らないけど、とても楽しいので付き合いが深まっています。
今回のレコード・オークションの呼びかけも、モモさんのとこで知り合った大学生のソウイチロウ君の呼びかけのようでが
我が家にはとっくにレコードプレーヤーはありませんし、どんなジャンルのレコードがあるにかも何も判らないのです(^_^;)

たしかにモモさん【本所ひとノま】のスグ近くに目的地である永田紙工所がありました。
入り口は古びた昔ながらの木の引き戸で鍵が掛かっていて中に入れません、
インターフォンで呼び出すとソウイチロウ君が出てきたので一安心、
階段を下りてこっちにやってくる音が微かに聞こえ引き戸を開けてもらうと
そこは、フーテンの寅さんに出てくるタコ社長の町工場といった風情です。(^_^;)  

靴を脱いで2階に上がる階段は、これも昔懐かしい学生の下宿屋という風情ですが、
そこにはソウイチロウ君と同居人の芸大の大学院生ナガツ君、現役芸大生・モリ君
それに今回レコードを持ってきたこの日の主役で年配の深川さんの3名が紹介されました。

年配と言っても私より15歳も若い深川さんですが、3人の学生と比べればグッと年配というだけで
最初から世代を超えた、フランクな付き合いが出来る空気があって、私もユキもスグに馴染んでしまいました。    

この紙工所の2階にある昔風に言うと【下宿家】ですが今風に少し改造された【シェア・ハウス】。
会場となっているのはリビング・キッチンの共有部分という事のようです。

そしてココに集まる人たちが何か面白い事が出来ないかといろいろ模索しているようなのです。
そして今回の企画も深川さんが彼らにパイオニアの大きなスピーカーを譲り、レコードもいらなくなったという事で
彼らが企画した、とても゛ゆるい゛レコード・オークションだったという事のようで
ユキの直感が今回も当たって、楽しい若い人たちとの交友がこれからも深まっていきそうです。

レコードも深川さんの年齢より私の年齢に近いものが多く、とても懐かしいものばかり…
なかでもプレスリーの監獄ロックやブルースエードシューズなど初期のロックンロールの入ったLPは
とても欲しくなってしまいましたが、とりあえず取っておいてもらう事にしました。
それにしても、久々に聞くレコードと大きなスピーカーから聞こえる柔らかく膨らみのある音響と
微かなノイズもとても懐かしくなってきました。

ビールが足りないので近くのコンビニまで買いにいくと、なんとモモさんと鉢合わせしました。
モモさんも今年恵比寿からココに移り住み、若い学生やアーチストも、この墨田区一帯に住みはじめているようです。
庶民的な人との繋がりや、古いレコードを初め多くの古いものの中から新しい価値観を見いだしていく
人たちが増えていくようで、とても楽しみです。
これからもユキの直感に身を任せ、世代を超えて交友を深めていくことになりそうです(^_^;)