2011年12月05日 第411号 全君のパパの葬儀

4年半ほど前に全君のママが亡くなって、 全君のパパも先日亡くなってしまいました、私より4歳若い61歳でした。

ヒロコと保育園で6年間一緒だった小林全君家族とのお付き合いは、まもなく30年になるのですが… 弟の永君と二人きりになってしまいました。

全君の家には毎年大晦日の夜に我が家の3人が揃ってお邪魔をするという習わしがありました。 我が家では決して作って貰えないお美味しい手作りのお節料理を大晦日にご馳走になるという習わしです。(^_^;) このお節料理を作るのは全君のパパだったため全君のママが亡くなってからも 私たち3人家族は毎年揃って、全君のパパが作るお節料理を食べに小林家にお邪魔しました。

全君のママはとても社交的で太陽のように明るい人で保育園の頃から親しくしていましたが、 全君のパパと親しくなったのは全君のママが亡くなってからです。

東京都の教員をしていた全君のパパは昔から透析治療をしていて 「ボクは身障者だからクルマはどこでも駐車出来る!」というのを自慢していました(^_^;) 今年の7月彼から来た最後のハガキになった暑中見舞いです。 私が震災いらいブログに書いている事で、真っ向から意見を異にする内容です(^_^;) 全君のパパは学生時代から左翼活動を続け、後年右翼的思想になった人で 専門は数学ですが日本古代史がライフワークで論文も書いていて時間があれば全国を飛び回っていたのです。

「ボクと議論をして負けた事が無い!」という全君のパパでしたが 私とは考え方が対立してもお互い楽しくお話が出来るので 今年の大晦日も夏に届けられた“暑中見舞い”のハガキをネタにどのような議論が出来るか 楽しみにしていたところだったのです。 でも、これまで暑中見舞なんて書かなかった彼がなんでこんな事を書いて…

なんで蓮の花のさし絵を選んだのか…などなど ハガキを見詰めながらそんな事をボーと考えていたら寂しさが込み上げてきました。

11月27日の朝、全君からとても明るい声で電話があり、その声につられてこちらも余計な事をしゃべろうとしたら 「父が亡くなりました!」の一声に、私は絶句してしまいました。 その日の夜に小林家に行くと、奥様の写真の横に安置されていました。 散らかっていた部屋は保育園時代からの友だちのマコちゃん夫婦や大ちゃんたちが急遽片づけたようです。①

私は全君に開口一番「お父さんも日出子さん(亡き奥様)のところに行けて良かったじゃない!」 と励まし意味も込めて言ったのですが、全君はすかさず「母は迷惑がっているでしょうけどね」と答えたので 「そりゃーそうだ!」と私が言って、みなで大笑いをしてしまいました。

1歳年上のしっかり者で明るい姉さん女房を亡くした全君のパパとお話をすると 必ず一回は「日出子は…」という言葉が出てきます。 病気と闘いながらの息子2人の男所帯で何かと大変だったのかも知れません。

11月30日にお通夜が自宅で行われました。 玄関を入ると靴を脱がずにそのままリビングに行くと、すべての家具が取り払われ 祭壇と献花と焼香のスペースが作られていました。 普段着のままの彼の写真は彼の心意気を感じるいい写真です。① ② ③ ④

お通夜の後、保育園の仲間だったハルカちゃんの家でお姉さんのマコ夫婦、そのお母さん、 それに全君やマコちゃんたちと小学校が同じだった三村君親子が集まって、 お通夜で持ち帰り用に頂いたお寿司とお酒を頂きながら楽しい時間を過しました。① ② ③ ④

翌12月1日、午前10時より葬儀 昨晩とうって変って朝から雨が降っていて、とても寒い日でした(^_^;) これまで明るく陽気にふるまっていた全君ですが… 喪主としてのお礼の挨拶をする時、言葉を詰まらせてしまいました。① ② ③ それには、私も目がしらが熱くなってきました。 そして「これから父を見習い誇らしく生きていきたいと思います」という言葉に 隣にいる弟の栄君も頷いているようでした。 「兄弟仲良くやれよ!」…私は通夜の日に全君の肩を叩いてそういうと 「それはムリかもしれません、頑固なのは血ですから…」なんて事を言っていました。 性格がまったく違う全君・永君兄弟ですが 天国から両親に見守られて、お互い誇りを持ちながらきっと上手くやっていく事でしょう。

① ② ③ ④ ⑤ ⑥

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