2011年10月31日 第406号 上下・善昌寺

母が亡くなって2ヶ月が経過しました。 母の葬式とヒロコのアメリカでの結婚披露宴が紙一重なりその場は何とか乗り切る事が出来ましたが… 我が角倉家には゛お墓の問題゛が長男の私に大きくのし掛かっているのです。 15年前に亡くなった父の遺骨が津田山(川崎市)の霊園に預けたままになっていたからです。(^_^;)

父が亡くなった1996年は私が新聞配達をやっていた最も厳しい状況の時で、 父の戒名もとても短いもので済ましてしまいました。 私はそんな事をまったく気にする性格では無いのですが 母は親戚や世間体を、または私の立場を気にしたのか内緒で高額を払い長い戒名に変えていました(^_^;) その数年後から母の介護状況が長く続く中で゛お墓の問題゛は母が亡くなってから考えようと先延ばししてきたのです。 その母が亡くなって シッカリモノの妹の由美子から「お墓をどうするかはお兄ちゃんが決めてよ!」と決断を迫られていたのです。

そして先日の26日・27日 妹の由美子と淳子、そして私とユキとの4人は父と母の遺骨を持って、 広島県府中市上下町上下の善昌寺に行ってきました。 上下や善昌寺については7年前の週間KENでこんな事を書いています。

1月にクルマで宮崎を往復した時に、 善昌寺によって長岡住職に、はじめて我が家の事情をザックバランにお話させて頂いたのですが

母が亡くなった時には連絡もせずに簡単な家族葬で済ませてしまったので いま頃になって具体的なご相談のための電話をするのが少々気が重かったのです。 ところが、何も知らないはずの住職が電話に出られるなり「この度は、お母様がお亡くなりになられて…」 と言われるのでビックリ!しました。 よく聞いてみると住職の奥様が、この週間KENをご愛読頂いていたのです(^_^;)

もう、そうなると我が家の事情もよ~くお判り頂いているものと楽天的な私は更に楽天的な気持になってしまい、 心の迷いはイッキに晴れて善昌寺にお願いしようという気持になってしまいました。

もう一つの選択肢として迷いがあったのは… 「上下はあまりにも遠いので都心にある新しい永代供養の共同墓地がいいのではないか」という考えです。

私はクルマで宮崎も含め日本全国気軽に出かけるので上下が遠いという感覚は無いのですが、 それはあくまで私の感覚ですし、私がいつまでも今のようにクルマを乗り回せるかも判りません。

かと言って、近ければ頻繁に墓参りをするかと言えば、お恥ずかしい話ですが父の遺骨を15年間安置していた 近所の長津田霊園には気が着けば一度も参拝には行っていませんでした(^_^;) だからと言って父を蔑ろにしているわけではなく歳を重ねる事に父が身近に感じるようになっていて どうせなら、父の故郷であり角倉家ゆかりの土地であり私が誕生した上下が良いと私は思っていたのです。

だだ、まったく判らない大きな問題として残っていたのが゛お金゛がどのくらい掛かるかです(^_^;) 父の長兄が角倉家の墓地や遺産などは引き継いでいたのですが、その長兄の伯父に子どもがおらず 父の二番目の兄の長男である洋介君が墓地や遺産を引き継ぎ、善昌寺の墓地の管理や法事をやるようになりました。 洋介君がどのくらいの相続をして法事にどのくらいのお金を使っているかはまったく知りません。 ただ、角倉家の墓地の使用に関しては角倉家の問題で善昌寺には関係ないようです(^_^;) もうすっかり世代は変わって私が従兄弟の中では最も長老で洋介君は赤ん坊の時から知っていて しかも唯一の上下生まれですのですので、これくらいは言いやすい立場にいるのです(^_^;)

そんなわけでまだ父と母の゛お墓゛は建っていないのですが まずは母の戒名を善昌寺から頂いて、父と母の遺骨と位牌を善昌寺に持っていって供養をして頂き お墓が出来るまでは善昌寺に預かって頂くという事まで決めて、今回の上下行きとなったのです。

墓地そのものにお金が掛からない事が判りましたが “お墓” を建てるには多少なりともお金がかかる事は判りますが、どのくらい掛かるかは想像がつきません(^_^;) インターネットで調べると格安墓石だとか色々ありますが調べれば調べるほど判らなくなります(^_^;) こうなったら善昌寺さんから上下の石屋さんを教えて頂き、そこに直接行って直談判するのが早いと思い行ってきました。 最初に「予算は○十万しかないのだけど…」という事から切り出して正直に事情を話したところ色々と親身になってもらい 善昌寺ならすぐ側だから墓地を見させてもらいたいという事になって、 私が角倉という名前を知ってビックリさせてしまいました(^_^;) この予算だと二人の伯父の墓より小ぶりに なるという事ですが、それで充分(^_^;) 1年後の法事の時までに出来れば充分でヒマな時に作っておいて下さいという事で 上下の石屋さんとも親しくなれそうで、とても良い買い物が出来たようです。 ① ② ③ ④

さて、もうひとつ難題があります。 善昌寺へのお布施です(^_^;)まったく想像がつきませんし、いくら私でもいくら包めば良いのか直接聞く勇気もありません。 […]

2011年09月05日 第398号 ザ・ロンゲスト・ウィーク

“母の葬儀” とひとり娘の “ヒロコの結婚披露宴” が同じ週に行われるという私にとってはとても とても長い一週間になってしまいました。

ヒロコは今年の4月にランスと婚姻届を出し、その時に二人っきりで式らしい事もやっており 披露宴ですが、ま~私の気分としたら結婚式のようなものです(^_^;)

前編 【母の葬儀】 8月29日(月)~9月1日(木)

●29日(月) この日は私とユキと宮崎の義母と3人で、成田発午前10時45分の飛行機で ヒロコの結婚披露宴に参加するめアメリカに行く予定になっていたのですが、 母の突然の死で、私は当然残る事になって成田空国には見送りに。

突然の出来事と徹夜明けで、見送られる方も見送る方も最小限の口数です。 ① ②

私は成田空港から私の妹の中尾由美子宅に向って葬儀屋との打ち合わせ。

(由美子が実質的に母の面倒を任せていて私は中尾家には頭が上がりません^_^;) 葬儀は、まずは戒名も坊さんもいらない家族葬で母らしい明るい葬式で行く事に。

母の二人の妹、美智子叔母・京子叔母が駆けつけてご焼香。 ① 中尾家の次女・マキと安田コウジ君の医師夫婦がカケルとワタルの息子をつれて。 母はコウジ君にはとてもとてもお世話になっているのです。

初めは母の遺体を怖がっていたカケルとワタルも両親の普段とまったく変らない母との接して方を

見たのをきっかけに、この葬儀を明るく盛り上げてくれました。 ① ② ③ ④ ⑤

●8月30日(火)

私のもう一人の妹・淳子がひたちなか市から息子のナオヤ君とやってきました。 ① ②

母が毛糸で作っていた人形のハッピーちゃんで母を囲みました。 ① ちなみにハッピーちゃんの命名はヒロコが着けたようです。 中尾家の長女ユリが弾く沖縄の三線には、いつも大きく反応し手拍子をしていた母、

これにあわせて踊ったり、みんなで母を囲んで記念撮影をして大盛り上がり。 そんな時に、母の遺体を葬儀への移動するために葬儀屋さんが。 なんだかヘンな宗教だと思われるのもナンダからと慌ててハピーちゃんを片付けて

皆で神妙な顔をして母を送り出す事に(^_^;) ①

●8月31日(水)

映画【おくりびと】で納棺師という職業も風習も始めて知った私ですが、 葬儀屋さんがとても薦めるのでやってみる事に(^_^;) 映画でモックンがやったほどの本格的なものではありませんでしたが、 みんなで母を綺麗な身支度(みじたく)をさせて、 なかなか感動的でアット・ホームで良かったと思いました。

写真はロイターのカメランマン、ユリ撮影によるものです…① ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦ ⑧ 家族葬で戒名もお坊さんもいらないという今回の私たちのような葬儀が増えていく中で

葬儀屋としての起死回生を図ったのでしょうが(^_^;)

ロスにいて今回の葬儀には出席できずヒロコの結婚披露宴には参加してくれる

中尾家の長男シュン君のフィアンセ(婚姻済)で東京海上のライバル会社に勤務する

ナオコちゃんも最初から最後まで参加してくれました。 明日の葬儀会場に母を安置させて、みんなで登戸のイタリアレストランで食事をしました。 ① ② ③ なぜかこの期間いつもより多くケータイに仕事の電話が入ったような気がします(^_^;)

●9月1日(木) いよいい葬儀当日! 前の晩は母の思い出の写真を公開しようと明け方5時過ぎまで編集をしていたのに ちょっと仮眠して寝過ごしそうになって家を慌てて飛び出してしまい、 持参したパソコンに最終セットし忘れて愕然。 母が亡くなって泣いているのではありません(^_^;) ① 私の妹・淳子の夫で日立の原発で今や超多忙な技術者・松平ミノル君も前夜遅く来てくれて 由美子の葬儀から葬儀の内容を聞いて驚いた様子(^_^;) 家族葬という事でしたが、どこかで母の死を知った人たちが駆けつけて頂き ① ② ③ ④ 早速、由美子が『東京音頭』や『瀬戸の花嫁』(これは母がヒロコのためにという事で由美子が選曲)

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2011年08月29日 第397号 次週は『ザ・ロンゲスト・ウィーク』

●26日(金) ヒロコのアメリカでの結婚披露宴に参加するため宮崎から義母(ユキの母)がやってきました。 飛行機が到着する午後4時過ぎ、羽田空港は大変な豪雨でしたが無事到着。 その足で、神田のアカラックスの坂本さんのオフィスに寄りました。 月曜日の朝には成田空港を出発して9月8日までの11日間の久々のアメリカ旅行。 その間にも週間KENやブログのアップ、もちろん仕事上でもパソコンは必携なのですが、

いよいよ愛用の軽くて便利なレッツノートでは耐えられず、 1年前に購入した大きくて重くて使い難いダイナブックを持っていかねばなりません。 そのパソコンを何でも詳しい坂本さんにカストマイズして頂かなくてはなりません。

羽田から神田のアカラックスまでなら一般道を通っても20キロ足らずですが豪雨にための大渋滞で 2時間ほどかかってアカラックスに到着したのですが、翌日の新聞を見てビックリ! アカッラクスに寄らずそのまま我が家に向っていたらこんな状態になっていたかも知れませんでした(^_^;)

アカラックスでは坂本さんが早々にパソコンを手当てして頂き、 その後、我われの出発を祝って楽しいひと時を過ごさせて頂きました。 ② ③

●27日(土) 出発2日前の慌しい時なのですが、 この日は以前からエノちゃんと約束していた東大和でのボランティアの日(^_^;) アートプラントというイベントで゛焼うどん゛を作ってアーティストやスタッフに提供するのだそうです。 でも、私は例によって仕事はあまりせずに写真ばかり撮っていましたが 市長になったヤスオ(尾崎)さんもやってきて、なかなか感動的で楽しいイベントでした。 ① ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦

東大和から夜帰宅して遅い夕食を終わった頃、 「ヒロコからこんなメールが来てたんだ!」とユキが大きな声を出しました。 一週間ほど前ヒロコがユキとのチャットで、 「ウエディング・ケーキの上に乗せる私とランスのお菓子の人形を榎本さん(エノちゃん)に 作ってもらえないかな~」なんて事を言っていたようで、ユキが私にその事を伝えました。 私はその時に、「具体的な写真や要望がなければ、もう時間も無いしムリだよ」と言っていたのですが、 そのスグあとのヒロコは写真や具体的なイメージも送っていたのです。 それは私のメールにも来ていたのですが、ヒロコからのメール通知は全て英語でくるため ジャンクメールと思って私はいつも削除してしまうのです(^_^;) ユキもそれを見落としていて私にヒッシで「エノちゃんに作って頂けないかしら?」と迫ります。 でも、それを受け取りのは明日しかありません。 私と違ってボランティアの準備や後片付け、 それに本職を休んだ分の仕込みや菓子作りもやらなければならいエノちゃんを知っているだけに 私としてもかなりキツイお願いです電話だけは入れてみることにしました。 そして、やっぱり…「明日の夜までで、まかせてくれるならやってみるよ」 と快諾してくれました。

●28日(日) 宮崎の義母がアメリカにお土産に持っていく゛扇子゛を浅草まで買いにいきたいという事で出かけました。① ② ついでにスカイツリーの近くまでも行ってみました。

旅行カバンなども出発前日になって、なんやかやと買い物をしました。

そしてエノちゃんから「出来たからいつでも取りにきて」との電話があったので、

昨日に続いて東大和のエノちゃんのところの行こうと思ったらユキも一緒に行くというのです。

「今晩は徹夜で準備するから大丈夫!エノちゃんにお礼もあるし」 ということで…。 エノちゃんの作品は私の想像を超えるものでした! ① ② ここで紹介したいのですが、それは後日に回したいと思います。(^_^;) そして…午後10時すぎ、 「おばあちゃんが…」 姪っ子のユリから電話が入りました!

介護施設にいる母をユミコ(私の妹)が昼間に見舞った時は食欲もあって普通だったのに 心臓が停止したというのです。

★★ という事で、ここからは次週号になるわけですが、現状だけお知らせしておきます。 ユキと義母(母と同じ89歳)も大変なショックでしたが予定通りアメリカに行ってもらいました。 母の葬儀はごく身内だけで9月1日に行い火葬します。 私は翌日の2日にアメリカに向かいます、そうすれば3日の披露宴には間に合います。 来週は【母の葬儀】【娘の結婚式?】という私にとっての『ザ・ロンゲスト・ウィーク』です(^_^;)

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2011年03月07日372号 母の近況…その5

【母の近況…その4】を書いたのは1年半ほど前の291号で しばらく書いていませんでしたが、今もどうにか生きています(^_^;)

実はこれまで年に2・3回定期的にお世話になっていたを決めた介護施設が、 ある時を境に何かと理由をつけて断られるようになってしまったのです。

この週間KENで介護施設での母の写真入を偶然見つけた看護士から 「お母様だけ写っている写真は許すけどそれ以外の老人が写ってにいる写真は すべて削除して欲しい!」と注意してきたのです。 私はそれに対して… 「ご老人のご家族からの要請ならすぐに削除するが、どうしてそこまで閉鎖的になるのか? もっともっと介護をオープンにする事の方が重要で、あなたも誇りを持ってやれないさい!」

…若い介護士に逆に説教をしてしまったのです。(^_^;)

それからしばらくして、こんどは理事と名乗る初対面の男性との面談を要請され、 また同じような話になりました(^_^;) この週間KENの、しかもこの介護施設で母を撮った写真の一部にお年寄りが写っていて、 それによって、ご家族に損害や迷惑をかける確立がどのくらいあるというのでしょうか。

家族を施設に預けている事を極力知られたくないという家族が多いと聞いています。 したがって、それなりの神経を使いながら、 基本はオープンという私のポリシーを曲げる気持はなく 理事に対しても、介護士の時と同様 「介護にプライドを持って明るくオープンにやりましょうよ!」… と励ましたつもりだったのですが…それがダメだったようです(^_^;)

さてさて前置きが長くなってしまいましたが…母の近況です(^_^;) これまでは私の妹の由美子宅をベースにして これまでの介護施設にいる時は私たちが洗濯物や諸々の面倒を見るという事でしたが、 今は由美子宅から歩いて数分のところにある介護施設に入っています。

由美子の次女、すなわち私の姪は医学生で2児の母で夫も勤務医(^_^;) その面倒も時々は見なければならないので、このような形になったのです。

2日(水)、茨城のひたちなか市にいる私の2番目の妹・淳子が、ひさびさに来るというので、 妹二人と私とYUKIの4人で母のいる介護施設に行きました。 淳子は1年数ヶ月ぶり、私は12月のクリスマス会いらいですが… クルマでいけば20分ほどなのに特別な用事が無ければ、 どうしても遠ざかってしまい反省です(^_^;)。

施設に入る時には玄関で手を消毒して大きなマスクをつける事が義務付けられます。 ① ② 私は介護施設に行った時は顔を合わせたお年寄りには必ず「こんにちは!」と明るく挨拶すると だれもが、それを受け止めて向うから色々と話しかけて頂くことも多々あります。 しかし大きなマスクで顔を覆い4人の見知らぬ者には誰も視線さえ合わせようともしません。(^_^;) この日も大きなホールでは車椅子に座った大勢の老人が無表情で黙ってテレビを見つめています。 そしてテレビの横にあるソファーで目の見えない母はいつものように座ったまま寝ています。 少ないスタッフで多くの老人を見るには、これが楽なのかも知れませんが… とてもヘンな雰囲気です。

介護施設の空気を変えるのは、一筋縄ではいかないのです(^_^;)

車椅子を借りて母のベッドルームで、ひさしぶりに兄妹+YUKIの4人そろっての団欒ですが、 ① ② 母は起きているのか寝ているのか今一しっかりしません(^_^;) ① それでも陽気な歌を合唱すると笑顔がこぼれます。 ① もう話すこともほとんどしなくなりましたが、 笑顔は絶やさず楽天的なところは一生変らず終えていくのでしょう… でも、まだまだ内臓は元気なようで長生きするかも知れません(^_^;) ① ② ③ ④ ⑤

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2010年09月06日346号 ヒロコはボストンへ!

30日(月)の朝、ヒロコは成田空港よりボストンに旅立ちました。

その前夜はおばあちゃん(私の母)と中尾家(私の妹一家)に出発の挨拶をして ① ② それからバタバタと荷作りをして、 ほとんど寝ないで早朝6時に私の運転で我が家を出て成田に向かいました。

まったくの渋滞もなく7時には成田空港に到着、① ② 11時5分発のワシントン行きのUAの搭乗手続き開始の9時15分までにもかなりの時間があります。

でも、我が家からちょうど100キロ先の成田空港まで何度も行っている私は 何度か大渋滞に巻き込まれて苦い経験をしているので、これでいいのです(^_^;) ゆっくりと朝食をとって、① ② ③ ④ ゆっくりと買い物をして、① ② ③ 搭乗カウンターへ、 となりのカウンターで女性客が荷物が重量オーバーで4万円ほどの請求を受けています。 ヒロコの荷物は旅行用のバックが2個ですが、 黄色の大きなバックは私がこれまで持ったことのないほどの重量で驚いていたのです。 最初の予定ではヒロコの荷物運びも兼ねて私とYUKIも一緒に行く予定でいたのですが 先立つもの足りなくて(^_^;) これは、かなりの重量オーバーが課せられると思っていたら、 エコノミークラスからプレミアム・エコノミーにアップグレードしてもらい 重量オーバーもなし!何とラッキーなことでしょうか(^_^;) ヒロコが心配していたワシントン空港からボストンへの国内線のタイトな乗り継ぎも エコノミークラスより一足早く機内から出ることが出来てスムーズにいったようです。 YUKIが料金を調べたら3倍ほども違って大ラッキーな旅立ちだったというわけです(^_^;) ① ②

さて、ヒロコはボストンに何をしに行ったのか?…よく質問されます(^_^;) ボストン大学の大学院生として【映像マネージメント】について 12名の院生仲間と最初の半年はボストン大学で、後半はロスでの実施と 1年をかけての中身の濃いプログラムのようです。

具体的な内容は私にはまったく判りませんが(^_^;) これまでヒロコ自身が大学で学び、 社会に出てビデオ映像に携わる会社に就職し、 母校で【映像編集】の非常勤講師として週3日教える立場を体験し 身銭を切っての今回のチャレンジですから、きっと身につく事でしょう(^_^:)

そして何より国籍を超えた12名の専門的目的を持った人たちと 1年間一緒に学び苦楽を共にするわけですから、 これからの人生にとっても大きな財産になる仲間がますます増えていくことでしょう。 ますます…と書いたのは、 これまでもヒロコはほんとうに多くの人たちに支えられ、 それが彼女の最も大きな財産だと、 財産もなく借金しか残せそうもない親の私が思っているからです(^_^;)

ここ数年のインターネットの進化は目覚しいもので、ますます拍車がかかっていくでしょう。 ヒロコのブログは毎日アップされ、その様子は手を取るようにわかります。 住所が判れば住んでる家がグーグルのタウンビューでリアルに見えますし、 通学の風景や行き付けのレストランやスーパーだって写真で見えてしまいます。 スカイプがあればタダのテレビ電話で我が家に3人がいるのと同じような会話が出来てしまいます。 ヒロコ主催の恒例バーベキューなどを通して、私もYUKIもヒロコの多くの友人・知人を認識しているので 【Facebook】や【twitter】でのやりとりを見るのも面白いものです。

一緒に生活していると、かえって知らなかったりもするものが、 離れていた方が色々とリアルに伝わってくるというヘンな時代かもしれませんが… この”距離感”もナカナカのもので、 これはこれで楽しんでいこうと思っています。

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2009年08月17日291号 母の近況 その4

昨年1月と3月、今年2月に続いて…母の近況、第四弾!です。 第四弾と言っても、母は要介護5の認知症と全盲のままで相変らずです。 このような状況の87歳の母が回復する事はまずないので”相変らず”という事は良いことです。(^_^;)

母は昔から「悪いのは顔と頭だけ!」と冗談をいうぐらい健康自慢の人でしたので 今でも医者がビックリするほどアタマ以外は悪いところが無いようです。(^_^;) 6年前の8月に突然電気のスイッチが切られたように全盲になり、 自分から自由に動くことも出来ませんので、すべてに介護が必要な状況です。

私が『母の近況』を書くのは”介護施設・青葉の丘”にいる時です。 基本的には父が亡くなって痴呆が顕在化してきた8年半ほど前から妹の家で見て貰っているのですが、 ”介護施設”に母がいる時ぐらいは(^_^;)長男である私が母を任されていているのです。 したがってこの期間はおのずと母との接点も増え週刊KENのテーマになりやすいというしだいです。

普段は妹家族のところに預けておいて… 「介護施設にいる期間は長男である私が任されている」なんて偉そうな事を言ったところで 私は母を介護施設に任せているだけです。(^_^;) 唯一と言って良い仕事は母の洗濯物を週に2・3回回収し、家で洗濯をし持って行くことですが、 これはYUKIが全て手洗いをしているのです(^_^;) では私は何をしているのか?…というと 洗濯物の交換がてらYUKIと定期的に母の御機嫌伺いに出かけているだけなのです(^_^;) ① ② ③ ④ ⑤

今回は6月から3ヶ月ほどのステイですが 私もこの介護施設に慣れてきてYUKIから 「KENもいつからでもココに入れるわね」と言われるようになりました(^_^;) 初めは異様に感じていた周囲の認知症老人達の個性も見えてきて 簡単な会話や挨拶もするようになってきたのです。

認知症になるほど個性がムキ出しになるようです(^_^;)

土曜日(15日)の夕刻に私とYUKIで施設に行った時です。 母の姿が見えないのでよく探すと、めずらしくテレビの前のソファーに座っていました。 ソファの後ろ側にいる老人が母の頭を手で叩いて 「ここは私の座っている場所だからどけ!」と言っているようです。 もちろん母の意志でソコに座ることはありませんし、どけ!と言われても自分では動けません。 叩かれても、怒鳴られても、自分からは声を荒げる事はせず穏やかにしているのです。 ヘルパーさんに車椅子に移動してもらい空いてるテーブルを探しての母とのひと時ですが… どうもココでのご老人たちは縄張り意識が強くて、3人で楽しく話しているとまた 「ここは私のテーブルだ!」と言った表情でどからともなくやってくるのですが… そんな事を繰り返していくなかで私たちもコミニケーションを上手く取っていくのです。

妹に私に「母は判っているところは凄く判っていてドキッとする事がよくある」と言いますが 私もソレを感じる事はよくあります。 今回もテーブルを移して3人だけになると、さきほどのトラブルでの冗談を言ったりで… 大物ぶりを見せ付けてもらいました(^_^;) ① ② ③

先日、母の妹(すなわち私の叔母)が見舞いに来た時も もりあがりました(^_^;) ① ② ③ ④ ⑤

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2009年02月02日263号 母の近況

昨年の暮れから、 私の母はまた横浜市青葉区にある介護施設『青葉の丘』にいます。 ちょうど1年前にも4ヶ月ほどお世話になっていたところです。

母の面倒を見てくれている妹の由美子宅が家の改築するのと 二児を抱えて福島で医大生をやっている次女マキの期末テスト中の 家事・子育ての応援要請などもあったようで、 またしばらく母を『青葉の丘』に預けることになったのです。

したがって、しばらくは私とYUKIで『青葉の丘』に週2回~3回は 洗濯物の交換や母の様子をみにいくことになっています。

29日(金)『青葉の丘』での母の介護状況を医師・介護士・管理栄養士や リハビリ担当などから家族に報告を受ける日でした。 由美子も行けたらと電話すると、翌日からは福島に10日間ほど行く予定で ちょうどその日に母の様子を見にいこうと思っていたようで ヒロコも含め4人で行くことになりました。

午後2時までに必ず来て欲しいということでしたので その前に4人でファミレスで昼食をとることにしました。 ちゅどランチタイムで混んでいて喫煙席しかないとのことでしたが、 まだ時間もあるので待つことにしましたが空くのは喫煙席ばかりで 禁煙席の客は食事が終わった後もゆっくりとしていて30分以上まってもビクとも動きません。 こうなったら喫煙席でも…と言おうとしたらやっと席が空きました。 2時まではまだ50分あり、クルマで10分で行けるので40分あれば食事はできる と思っていたのですが、今度はオーダーした食事がやってきません。 待つこと30分! 10分間で食事を済ませ、飛び出そうとしたら レジの先客が会計に手間取って5分ほどかかってしまい… 結局5分の遅刻! 医師を初め6名のスタッフがジッと座ってまっている部屋に 4人で頭を下げて飛び込みました(^_^;) ①

それぞれの担当から母の現況報告を聞き こちらの要望なども聞いて頂き30分ほどで終了し母のところに。

由美子宅にいるときは入れ歯をはずす事はなかったのが 施設では危険防止や管理のため就寝中など入れ歯の出し入れをするため 母は入れ歯に違和感を持つようになったのか、自分からはずすようになってしまい 入れ歯なしの状態になってしまいました。 そのため、なんだか人相も情けなくなって おしゃべりのカツ舌もかなり衰え、かなり老け込んだようです(もともと老け込んでいますが(^_^;)

でも、持ち前の明るさは、まったく衰えず ① ② ③ ④ ⑤ 癒すつもりの私たちを大いに癒してもらいました。 ① ② ③ ④ ⑤ ⑥

帰り際、介護施設『青葉の丘』の職員から 「お願いがあるのですが…」と呼び止められました。 私の母をモデル・ケースに平成21年度の研究テーマとさせて頂けないかというものでした。 演題は『生活リズムを取り戻せ』 認知症と失明で要介護5の母は昼夜の区別がつかなくなり 施設でも苦労をしており、だったらプロジェクトを立ち上げようというのかもしれません(^_^;) どちらにしても母にとって悪いことではありません。 また母は要介護5といっても性格は穏やかで、声を荒げたりもせず、 いつも冗談をいったりで研究対象としては扱いやすい生態です。(^_^;) 職員は「個人名は極力伏せプライバシーは守らせて頂きますから」 と遠慮がちに言うのですが、私は… 「いやどんどん写真や名前を出して頂だいてけっこうですよ、 母もそんな事を気にする人じゃありませんし、そのほうが喜ぶかもしれません」と 言っておきました。 なんでもオープンでノってしまうのが角倉家の伝統ですから(^_^;)

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2008年12月15日256号 陽一郎にいちゃん

いつも陽一郎にいちゃんと呼んで、私が小学生の頃から親しくしてきた叔父がいます。 何で叔父なのに”兄ちゃん”かというと 私の母より10歳年下の長男で、甥っ子の私とは14歳しか違わず 叔父さんというには忍びなかったので(^_^;) いつも陽一郎にいちゃんと呼んでいたのです。

とは言っても小学生の私から見たら14歳年上は立派な大人である事はたしかです。 でも一応長男で(^_^;)7歳下と10歳下の妹がいる私にとっては 独身である時期には我が家に同居して寝食を共にした叔父とは 一緒に映画を見にいったり、男同士の楽しい思い出がたくさんあるのです。

英語が得意でカナダ航空に就職し、そこで職場結婚し子ども4人をもうけて 定年後は栃木県の黒磯に引越して、今は持病の療養生活を送っおられるます。

11月の終わりごろ、私の妹のユミコから 「12月11日に陽一郎叔父ちゃん(妹は叔父ちゃんと正確び呼びます)のお見舞いに 行こうと思っているのだけど空いてる?」と電話があったのです。 カレンダーを見ると12月はギッシリとスケジュールが詰まっているのですが 11日だけはポッカリ空いていたので、YUKIと一緒に参加する事にしました。

私の妹のユミコと2人の叔母(叔父の妹のミチコ叔母とキョウコ叔母)の3名は新幹線で、 私とYUKIはいつものようにクルマで東北自動車道で那須塩原駅前にある レストランに向かいました。

叔父は思ったより元気そうで、すぐに話しが盛りあがります。 ココに母がいたら4人の姉弟が揃うことになるのですが、 母は痴呆と失明で介護5の最高ランク(^_^;)ユミコの家と施設で交互に看てもらっている状況です。 でも母はとても元気で陽気な人で昔からの口癖だった「ワルイのはアタマとカオだけ!」を 地でいって身体そのものはまったく健康なようなのです(^_^;)

叔父はそんな10歳上の姉(私の母)を、とても大切に思いやって母のいるユミコ宅に電話をして ボケていても昔の話になると鮮明に覚えている母と、 昔話やその頃の唄を二人で合唱したりで… 横で聞いているユミコも感激するぐらい母も生き生きとしてくるのです。

叔父はそんな母と一番あいたかったようですが、母をココまで連れてくることも出来ず、 また叔父が母のところまで来れる健康状態でもないようです。 そんな叔父のためにユミコの長女でロイター通信のカメラマンをやっている ユリコが撮影製作した写真集をプレゼントをしました。 自分の身体も大変なのに、母のことを心から心配し、 母のことを話すと目頭を熱くして涙ぐむ叔父をみていると、  ① ② ③ 叔父の優しさにこちらまで涙が溢れます。

レストランでの歓談のあと ① ② ③ 叔父は点滴を受けるために国際医療福祉大学病院に行かねばならないので 皆でそこのティー・ルームでお茶を飲むことにしました。 ① ② そこでも大いにハナシが盛り上がり 叔父夫人のヨシコさんとも本当に久しぶりで、 楽しいひと時を過ごすことが出来、ここまっでやってきた甲斐があったと心からおもいました。

翌日の12日はアカラックスの今年最後のセミナーで 今回はライフネット生命の副社長をやっている野上さんが「5分に1回笑わせる!」と豪語する 二次会・三次会も含めて楽しみにしていたものです。 そろそろYUKIと出かけようと思った矢先、アカラックスの下川さんから電話がありました。 「昨日はお越しになると思っていたのですが、どうなされたのですか?」 「??」私は何のことだか判らなかったのですが、1日間違えてようです(^_^;) 「そんなことだと思って電話を差し上げてよかったですね、お出かけする前で…」

我が家のカレンダーにはアカラックス・セミナーの日にちが判ると真っ先に 書き込むようにしているのですが、その時点で間違えたようです。 でも間違っていたからこそ叔父とも久々に会えたわけだし… アカラックスや野上さんには大変失礼致しましたがm(_ _)m 楽天的な私はハッピーにそれで良かったと捉えています(^_^)

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2008年03月17日217号 母の誕生日

3月11日は母の誕生日で86歳になりました。 母は1月26日から介護施設にご厄介になっている事は触れました。

我が家からクルマで15分ぐらいとところで週に2・3回はYUKIと一緒に顔をだして 洗濯物の入れ替えやご機嫌伺いをしています。 母はまったく目が見えなくなってしまったのですが痴呆のおかげ?で 目が見えていないことを認識しておらず、自分のアタマの中の画像を見ているのです。 そして目がみえない分、逆に耳がとてもよく聞こえるようになって、 いろいろな音や言葉に反応して、おしゃべりをするのです。 もともと明るい性格なので、そのおしゃべりもユーモアがあってけっこう楽しいのです。

目が見えないので私が誰かも、初めは判らないのですが昔話や私の声を聞いているうちに 私が”KENちゃん”であることは認識するのですが、YUKIが何者か?が判らないようで 「あなたはどなたなの?」ときくのでYUKIは「私はKENちゃんのお嫁さん」と答えました。 そしたら母は「え~KENちゃんのお嫁さんだって!」と信じられらないような顔をして そのあと「気持ち悪~い」というしかめっ面に YUKIと私は涙が出るくらいの大笑いをしてしまいました。 母との屈託のないバカバカしい会話をYUKIもそれを楽しみにしてくれて とても助かっています(^_^;)

さて母の誕生日です。 7年間、母の面倒を自宅でみてくれていた妹のユミコと その次女すなわち私の姪のマキが先月生まれたばかりの次男と2歳の長男をつれて 母の誕生日をお祝いに介護施設に押し掛けることになりました。

このような複雑?な状況を母はどのくらい認識し、どのような反応をするか 少々心配していましたが、目が見えてアタマもしっかりしているのでは?と思うほどの 母の幸せそうな対応と表情に目頭が熱くなってしまいました。

このような介護施設に2歳の幼児や産まれ立ての乳児が来るなんてことは珍しいようで 普段は寂しそうで冷たい視線を向ける老人達も とても優しい目でこちらを見ているのが伝わって温かい空気が流れているようです。

母を囲んだ我われの集合写真のシャッターを押してくれたヘルパーさんが とても良い写真だから施設のカメラでも撮らしてほしいと、もう一枚撮ってもらい みんなに送られて介護施設を後にしました。