2008年04月07日220号 ライフコンサルタント?

先月の3月15日・22日・29日(土曜日3回連続)東大和市公民館で行なわれて集会に
私はパネラーの一人として【ライフ・コンサルタント】という肩書きで参加してきました(^_^;)

ココでも何度か登場している茶屋エポックのエノちゃんの要請によるボランティアです。
私はエノちゃんのブレーンですので(^_^;)
私は彼の店に行くたびに、ひとりで黙々と菓子作りをしているエノちゃんの横で
小さな椅子に座って、ケーキの試食?とコーヒーを飲みながら談義をするのが楽しみです。
ECOにこだわり、町おこしにとても熱心なエノちゃんですが
いつも出るのは「この町は、とても閉鎖的で横のつながりもない!」という愚痴です。
それでも熱心なエノちゃんは近くの公民館での市民講座の枠を取ったというのです。
何をやるか具体的には決めていないが、基本的テーマは「町おこし・横のつながり」というのです。

私のアイデアは週1回2時間で3回連続、好評だったらシリーズ化というのなら…
東大和の例えば魚屋さん・酒屋さん・コンビニ店長と3人ムリヤリでも呼んで(^_^;)…
3人を並んで座ってもらい、最の1時間はこちらから同じ質問をする、例えば
①この仕事をココで始めて何年になるか?
②やりがいやこだわりは?
③仕事に将来性を感じるか?
④東大和をどう思う?
残りの1時間は、参加者からの質問コーナーにするのです。
これで9人の地元で働く人が紹介され、もちろん終ったら居酒屋で親睦会です。(^_^;)
これがシリーズ化されていけば
市民にとって地元の街がもっと身近になっていくはずです。

この企画は我ながら面白いと思い、司会者がいなければ引き受けても良い…
とまで言っていたのですが、どういうわけかボツになってしまいました。
だったらもう勝手にすれば、と思っていたら…
エノちゃんから、自分も含めて3人の講師が決まったから
私も講師の一人として参加してほしいというのです。

東大和と関係ない私がどうして講師として出なければならないのか?
とエノちゃんに尋ねると、「そりゃー心強いからだよ」と言われてしまいました。
そう言われてしまうと、その気になってしまう私です(^_^;)

「肩書きはライフ・コンサタントでいいかな?」と言うのです。
私は”単なる保険屋”である事にプライドを持っているのですが、
保険代理店とか、まして保険屋などと云うと怪しまれるというのです。
私としたら【ライフ・コンサルタント】の方がよっぽど怪しいように思うのですが(^_^;)

第一回が3月5日(土)午前10時から12時まで行なわれました。
こんな講座に何人来るかと危惧していたのでが、
さすがエノちゃん、彼のファンが集まってくれました(^_^;)
この日は4人の講師が30分づつ専門分野について話せというのです。
スタートしたのが定刻10時を10分過ぎの開始となりました。
最初は地元で有機農法をしている内野さんの話ですが予定の30分をオバーしてしまいました。
次がエノちゃんで持参した手作りのチョコレートとお茶を飲みながら熱い思いを語りはじめました。
参加者はエノちゃんのファンがほとんどですから思わず時間もオーバーします。
気が付けば残り時間は40分足らずで、年金コンサルタントの大野さんと私の二人が残っています。
司会役を買って出てくれた裁判所の書記官をやっている芽門さんが
「大野さん、時間が無いので20分以内でまとめて下さい」と言ったのですが
きっちり準備をして資料を揃えて来た大野さんには気の毒なハナシです。
結局、最後の私の持ち時間は5分たらずです。

でも、これも予想の範囲で、だからこそ私の順番を最後にしてもらったのです。
5分ではほとんどしゃべる事などありません(^_^;)

私は【ライフ・コンサルタント】なんて職業でなく川崎に住んでいる単なる保険屋で
なんで東大和に来てこんなところにいるかといえば…
エノちゃんの古くからの親友で、彼の熱い熱い思いを良く知っていて
エノちゃんのサポーターとして参加させて頂だいているということ。
したがって決してエラソーでも怪しいものでも無いと締めさせてもらったのです。(^_^;)

第2回の22日は
Mさんという年配の方が参加されていました。
そのMさんは、この講座のチラシを怪訝そうに眺めて質問をしました。
「この会はどこが主催し、なんの目的で開催されているのか?」と…
そこで公民館の館長が
「これは市民による市民講座で営利を目的とするものでなく…」と説明するのですが
Mさんのチラシを見る視線が私の肩書きの【ライフ・コンサルタント】に
言っているような気がするのです。
そこで私が先週同様の自己紹介したところ納得して頂きました。
(このようなあやしげな肩書きで老人を騙すビジネスもあるようですから)
そんな用心深いMさんは、さらにこの日のティータイムに出されてエノちゃん手作りの
洋菓子にまで添加物が入っていないか?と迫ってきました(^_^;)

最終日の29日
前回、猜疑心の塊(かたまり)のいうなMさんでしたが、今回はとても友好的な表情です。
前回もらった洋菓子はどれも大変美味しく添加物が入っていない事が良く判ったと…
そしてお店の場所を教えてくれと言うのです(^_^;)
何はともあれ、けっこう盛り上がって3回の講習は無事終りました。

好評につき、このような講座をシリーズ化してほしいとの声もあったようです。
2回目、3回目も私は調整役に徹して、全体のバランスの中での意見に留めておきました。
司会進行役の芽門さんから「角倉さんの謙虚さには、とても関心させれました」と言われました。
その事をYUKIに伝えると
「まったくKENを判っていない!」と笑われました。

もちろん、それは私も判っています、私が謙虚でいたのは…
一旦しゃべりだしたら、どうにも止まらなくなる事を私自身が一番知っているからです(^_^;)

エノちゃんの茶屋エポックのブログ
最終回のお菓子は銘菓芋窪街道

2008年03月31日219号 桜とフランス料理

久々に都心で花見が出来ると楽しみにしていた日曜日(30日)でしたが…
結局、雨に降られてYUKIとさきほど電車で帰宅したところです。

この日は午後3時からボランティアでやっている年末恒例のハート・コンサートの
打ち合わせがありました。
これまでの打ち合わせはコンサート会場でもあるホテル・ニューオータニと決まっていたのですが
役員の一人でもあるナカガワさんがホテル・ニューオータニからもほど近い麹町にオフィスを持っていて
前回からそこでする事になったのです。
そこで次回の日時を3月30日と決めた時に、ちょうど桜が咲く頃だから
終ったら近くでお花見をして、そのあとに食事でもしよう!と決まったのです。.

お花見にはお酒がつきものですから、今回はクルマをおいて電車で出かけたのですが
とても肌寒く、今にも雨が降りそうな天気でした。(^_^;)
ヒロコとうるめさんは最初から、それぞれ予定があって花見や食事は不参加という事でしたが
打ち合わせが終了して気が付けば雨は本降りで、花見をするような状況ではないのです。

ヒロコと入れ替えにYUKIが後から来る事になっているのですが…
花見の後の食事を予約している東條会館のアルゴに直接来るように電話しました。
ナカガワさんのオフィスで傘を借りて立ち話をしたり、時間をつぶしてもまだまだ時間があり
結局いくとこもなく早めに東條会館に向かい、9回のフレンチ・レストラン・アルゴから
桜を見たり、雑談をして予約時間の6時30分にYUKIもやってきました。

なんせ、このボランティアの中心メンバーはライオンズ・クラブと
女性経営者の世界的ボランティア団体のソロプチミストの方々という
私のような貧乏人とちょっと違うリッチな方達なのです(^_^;)
したがって花見の後の食事といっても、ちょっと違うのです(^_^;)

ヒロコやうるめクンは何かと口実をつけて難を逃れたようですが…
ヒロコが参加しないのならYUKIが参加するという
我が家の涙ぐましく美しい文化を守もられているのです(^_^;)

12000円のコース料理
イカ墨のせんべい?から始まり、3色のたこ焼き風豆腐?グレープ・フルーツのうなぎ巻?
不思議なカップに入って冷たいコーン・スープ?白身魚(あいなめ)の○風?
伊予柑のシャーベット鴨のフォアグラ・ソテイ桜風味のデザート
そうそうパンはとっても美味しかった(^_^;)
会話もそれなりに弾み
レストランからの皇居を見下ろす桜夜景も素晴らしく
それなりに一応はリッチな気分になって雨の中、YUKIと電車で帰宅しました。

2008年03月24日218号 浦和先生の慰労会

またまた拓殖大学ラテン・アメリカ研究会の登場です。

今回はラテ研の6期先輩で、その後拓大のスペイン語の教員になられ
また後に拓大が外国学部が創設された時には学部長として
もりろんスペイン語の教授としても活躍された浦和先生が退官されるというので
八王子(先生の地元)でラテ研主催の慰労会を開いたのです。

6期先輩という事は浦和先生の学生時代は知りませんが
私達がスペイン語を主に習っていた瓜谷教授の助手をされていて、
浦和先生というより浦和先輩という親しみを持って授業を受けたものです。

私プロデュース(^_^;)のブログ【セニョール・ナガモリの中米ホンジュラス便り】の
永森ももちろん浦和先生の教え子です。
彼は3月18日のブログで、慰労会に参加出来ない事と
浦和先生への感謝の気持ちを熱く語っています。
ま~そこまでは良いのですが、その下のコメント欄は私が書いたものですが
その18日に永森が書いたブログが、新しくブログを書くと、そのブログの下にいくので
修正してくれというのです。
だいたいブログは日記にようなものですから
「そんな小細工はしない方が良い!私が当日、浦和先生に永森の思いは伝える」
という約束をコメント欄に書きました。

私は永森の文章をブログ全体のイメージを崩さないように印刷
浦和先生に渡そうと用意して出かけました。

会が始まる少し前に、主賓の浦和先生が来られてザワザワしている中、
私も浦和先生とお会いするのは二十年ぶりぐらいで、
出来の悪い生徒だった私の事など忘れていても永森は覚えているだろうと
私が浦和先生に近づこうとしたら、
浦和先生の方から先に私に微笑みながら「永森君のブログいつも見てるよ!」と
言われてしまいました(^_^)

会は本当に和やかで感動的で楽しいものでした。
浦和先生はここ数年、肺気腫を患われ歩くのも話すのも大変そうですが
約20分ほどの先生のスピーチはとても胸を打つものでした。
今は拓大に外国学部が出来てスペイン語科がありますが
浦和先生も私達も第二外国語としてスペイン語を学び、上智や外語大や立教といった
スペイン語学科のある大学と交流を持ちながらやってきました。
第二外国語としてしかスペイン語を学ばなかった浦和先生がスペイン語の学者として
大きな実績を残されたことには大変な苦労があったと思われます。
そして浦和先生はその第二外国語としてスペイン語を学んだ拓大の仲間や教え子が
中南米で数多く今も活躍していることを誇りに思うと熱く語られ…
昨日の拓大の卒業式では、
スペイン語の熱い思いを持って定年になってホンジュラスでJICAのボランティアを
やっている先輩がいる!と卒業生に語られたというのです。(^_^;)

永森より1年先にJICAシニア海外ボランテァでドミニカ共和国より帰国したオカヒロ先輩(1期先輩)
は帰国後の健康診断で前立腺がんが見つかって4月9日に切除手術とか…
これもボランティアに行ったので健康診断が出来たおかげとすこぶる元気!(^_^;)

学生時代を思い出しラテン・アメリカの熱い思いが甦っえることの多くなった
今日このごろです(^_^;)

全員での記念写真

2008年03月17日217号 母の誕生日

3月11日は母の誕生日で86歳になりました。
母は1月26日から介護施設にご厄介になっている事は触れました。

我が家からクルマで15分ぐらいとところで週に2・3回はYUKIと一緒に顔をだして
洗濯物の入れ替えやご機嫌伺いをしています。
母はまったく目が見えなくなってしまったのですが痴呆のおかげ?で
目が見えていないことを認識しておらず、自分のアタマの中の画像を見ているのです。
そして目がみえない分、逆に耳がとてもよく聞こえるようになって、
いろいろな音や言葉に反応して、おしゃべりをするのです。
もともと明るい性格なので、そのおしゃべりもユーモアがあってけっこう楽しいのです。

目が見えないので私が誰かも、初めは判らないのですが昔話や私の声を聞いているうちに
私が”KENちゃん”であることは認識するのですが、YUKIが何者か?が判らないようで
「あなたはどなたなの?」ときくのでYUKIは「私はKENちゃんのお嫁さん」と答えました。
そしたら母は「え~KENちゃんのお嫁さんだって!」と信じられらないような顔をして
そのあと「気持ち悪~い」というしかめっ面に
YUKIと私は涙が出るくらいの大笑いをしてしまいました。
母との屈託のないバカバカしい会話をYUKIもそれを楽しみにしてくれて
とても助かっています(^_^;)

さて母の誕生日です。
7年間、母の面倒を自宅でみてくれていた妹のユミコと
その次女すなわち私の姪のマキが先月生まれたばかりの次男と2歳の長男をつれて
母の誕生日をお祝いに介護施設に押し掛けることになりました。

このような複雑?な状況を母はどのくらい認識し、どのような反応をするか
少々心配していましたが、目が見えてアタマもしっかりしているのでは?と思うほどの
母の幸せそうな対応と表情に目頭が熱くなってしまいました。

このような介護施設に2歳の幼児や産まれ立ての乳児が来るなんてことは珍しいようで
普段は寂しそうで冷たい視線を向ける老人達も
とても優しい目でこちらを見ているのが伝わって温かい空気が流れているようです。

母を囲んだ我われの集合写真のシャッターを押してくれたヘルパーさんが
とても良い写真だから施設のカメラでも撮らしてほしいと、もう一枚撮ってもらい
みんなに送られて介護施設を後にしました。

2008年03月10日216号 そもそも…

最近 「そもそも○○って何だろう?」という考えをするようになって
YUKIと議論にいたることがよくあります。

そもそも人生って何だろう?
という哲学的なものから
そもそも結婚って何だろう?
という夫婦で語り合うにはキケンなものまで(^_^;)
いろいろハナシはつきません。

ま~私はどちらかと云うと若い時からノーテンキに
あまり物ごとを突き詰めたり悩むこともなくハッピー・ハッピーに生きてきたので、
あおの反動かな?と思ったのですがそうでは無いそうでえす。

人間の性格というものは変るものではなく
私のノーテンキでハッピーでズボラな性格は一生涯変らないと
YUKIから言われてしまいました(^_^;)

じゃー何が変ったかといえば
世間の方が、とても窮屈で閉鎖的でハッピーで無くなっているように
思えるのです。。

テレビでは昭和の時代を懐かしむ番組が増え
「あの時代はよかった!」などと夜の新橋でサラリーマンが叫びます。
終戦直後の平和が戻り露店の賑わいの映像は
明るい「りんごの歌」をバックに希望に満ちた生き生きとした印象で伝えられます。

しかし今は”あの時代”よりずっと豊かになっているはずです。
今でも発展途上の国々では戦後の露店のような所が残っていますが
そこで走り回る子供たちや人々は明るく生き生きとしているようです。
そんな国から日本を見たら、とても裕福で夢の国のように思われるのではないでしょうか?

そのような国から家族を置いて日本で不法就労までして出稼ぎに来る人達も少なくありません。
この国は…格差やワーキングプア、年金問題…などなどでが先行きの見えない不安で
暗雲が立ち込めているそうです。
だからといって日本を脱出して海外に出稼ぎに行こうといういう人はほとんどいません。
どうしてなのでしょうか?
やっぱり日本は世界の国から見たら豊な国なのではないでしょうか?

ただ問題があるとしたら
世界に先駆けて少子高齢化社会に突入するという事です。
でも、それは遅かれ早かれ何時かは世界中の国々が直面しなければならない事なのだから
そのモデル・ケースになるような国にすれば良いとノーテンキな私は思うのです。
しかし、どうやら国も企業もそんな悠長な事は言ってられないようなのです。
国は毎年GDPすなわち消費を拡大していかなければならいそうです
企業は資本主義経済の中では常の右肩上がりの利潤追求が求められます。

ようするに留まってはいけないようです。
でも少子高齢化していく社会に成長拡大が本当に可能なのでしょうか?
だったら国を解放して外国人の移民を受け入れたら良いと思うのですがこれも出来ないようです。
国は閉鎖されたまま高齢化していく中で、はてしない経済成長が求めるための
カンフル剤を打たれを続けていたら「先行きが見えない!」と暗くなる気持ちもわかります(^_^;)

したがって、国も企業も年金も当てにせずに自由に生きたって、
発展途上の貧しい国々から見たら”天国”のような国なのだから…と思うのですが(^_^;)
エラソウな事を書いている私でも、発展途上国の人々と同じ生活をするには
よほどの覚悟が必要で、
結局は便利な近代社会にどっぷりと使って地球環境を破壊しているようです。

そもそも人間ってなんだろう?…とノーテンキに考える今日この頃の私です(^_^;)

※ブログでも保険を取り巻く「そもそも…」を考察しています(^_^;)

2008年03月03日215号 複雑すぎる商品!

2年前に購入したDVDレコーダーが故障しました。
購入した近くのヤマダ電機に持っていくと、
「修理は1ヶ月ほどのお預かりになるかもしれません。
お預かりの場合は修理する、しないに関わらず2500円を頂きます。
修理代は判りしだい電話でお知らせしますが15000円~30000円ほど係るかもしれませんが、
よろしいでしょうか?」…

2年前に購入したのが39,800円です。
修理代に30,000円もかかったのでは買った方が安いような気がしましたが
宮崎の義母に使い慣れたDVDをあげればいいからとのYUKIの提案でそれは修理に出して
新しいのを売り場で見てみようと言う事になりました。

パソコンやデジカメ、ビデオカメラ、そしてDVDレコーダーなんてものは
生鮮食品のように時が経過すれば値崩れをしていくもので
今なら2年前と同じぐらいの予算があれば、かなり優れたDVDレコーダーが買えると思ったのです。

しかしDVDレコーダーの売り場に行くと
私のイメージしたDVDレコーダーは一台も無いのです。
あるのは二十万円近くもするブルーレイ・デスク・レコーダーとかハイビジョン対応で
どんなに安くても7万円以下の商品は置いてないのです。
店員に聞いてみると、私が持っているのは2011年7月からは使えなくなる
アナログ・タイプのDVDレコーダーで、今はもう売られていないというのです。

したがってデジタルとアナログではどう違うのかは、説明を聞いてもよく判りませんが
何しろ最低でも7万円はするというのです。

その唯一7万円という安値?をつけているメイカーは”東芝”なのです。
たしか”東芝”はこれまで推し進めてきた新しいDVDの開発を止めて”なんやら”という
報道を見た気かするのです、その”なんやら”は判らないのですが(^_^;)
どうやら、この機種はそれに違いないのです。

店員にその事を聞くと、ちょっとイヤな顔をして、そうだと認めました。
「だったらもっと安くできないか?」と私は詰め寄ったのですが
「だから、これだけ安くなっているのだ!」とゆずりません。

ま~、私としたら、その新しい”なんやら”はどうでもよいことで
今までのように番組が録画出来て、今よりちょっと便利になって、
録画容量のハード・ディスクが増えていれば文句はないわけなのですが、
そのわりには高すぎるという事です。

今使っているのDVDレコーダーのハード・ディスクが160ギガです。
初めはこれだけあれば充分と思っていたのですが、
録画番組をハード・ディスクにある程度ためておいて6時間分まで貯まったら
1枚のDVDにまとめるという作業をYUKIにバカにされながらやっています。(^_^;)
すなわち長期間、たくさんの番組を保存するのでハード・ディスクが
もう少し欲しいと思っていたのですが…
その7万円の商品は300ギガあるのです。

ところが、その横を見ると、あと1万円ちょっと払うと600ギガになって
なんやら他の機能もついているようなのです(^_^;)
YUKIの顔色を恐る恐る見ながらも結局、
8万円近い東芝のDVDレコーダーを買ってしまったのです。

これで、今晩の録画を諦めていた番組もギリギリ録画出来ると
喜んで持ち帰ったDVDですが、これがもうほんとうに何が何だかさっぱり判らないのです。

私は年齢のわりにはパソコンやデジカメといった電子機器を使いこなしています。
DVDレコーダーだって、この2年間毎日のように使って
YUKIから「壊れて当然」と言われるほど使いコナシテきたのです。
したがって、今晩の番組をとりあえず録画しておくぐらいは簡単に出来ると思っていたのです。

ところが録画どころのハナシで無いのです、
分厚いマニュアルは4冊もあって、やたら詳しく書かれているのですが
単純に録画したいという私のニーズを満たしてくれないのです。

数日後にはやっと録画だけは出来るようになったのですが
私の次の目的は一般的DVDディスクに6時間モードで録画をしたいのに
セット出来るのは2時間モードか4時間モードしかないのです。

このDVDレコーダーのセールス・ポイントは600GBで最大級1071時間の録画が出来ることです。
2時間モードや4時間モードでは、そんな時間などとうてい録画出来ないのです。

そこで我が家の固定電話で東芝のヘルプ・デスクに私のニーズを伝えて、
どの説明書のどこに書いてあるのかを聞いたのですが、明解な答えが返ってきません。
そこで一旦固定電話を切って、ケータイ電話でヘルプ・デスクからの声を聞きながら
DVDレコーダーを操作することにしました。
色々な手順を言われる通りに行なっていくと
ヘルプ・デスクが取り扱い説明書の【操作編】の170ページを開けろといいました。
そこにはビッチリと乱数表のような物が載っています。
それが何を示すのかもよく判らない192Kbpsとか色々な単位や数字が並んでいて
私にはよく判らないままヘルプ・デスクは
「そこに示されているよにうに6時間モードの録画をする時は上から2段目の『1.4』で
この係数を…とまた説明が続くのです。

このモードでアナログ放送を録画すると809時間が録画されるというのです。
パンフレットの1071時間を録画したい場合はまた別の係数を入れなければならいようです。
ビデオ・テープなら6時間モードは一般的で、前のDVDレコーダーでは簡単にセット出来たのです。
一般的な家庭用のDVDレコーダーで
なんで、こんなに複雑にしなければならないのか私にはまったく理解出来ません。

そこまで操作方法を私に教えてくれたヘルプ・デスクの担当者に私は笑いながら聞きました
「あなたもヘンだと思わない?」
「私もヘンだと思います、だから東芝は負けたのだと思います」
私が最後のイヤミで言おうと思っていた事を先に言われてしまいました。

でも、これはヒトゴトではないのです。
保険の世界でも、この傾向があるのです(^_^;)

2008年02月25日214号 追悼・町田孝雄

町田孝雄が亡くなりました。
61歳でした。
私と同年齢、彼もまた拓殖大学ラテン・アメリカ研究会の仲間でした。

週間KENを書き出して丸4年、拓殖大学ラテン・アメリカ研究会はココ数週に限らず
何度か題材にしてきましたが、町田が登場するのは初めてです。

私はありがたい事に保険代理店という仕事をしていますので
昔の仕事仲間や同級生から親戚まで多くの知人と会うチャンスがあります。
同業者の中には絶対に知人や親戚はお客様にしない!
なんてポリシーを持っている人も少なくないのですが私には良く判りません。

扱っている保険商品が悪い物だったり、押し売りをするならともかく
向こうから入ってくれるというものを断る理由は無いと思うのです。
懇意な保険屋が居る事はマイナスでは無いはずです(^_^;)

てな事もあってナンやカヤと私はロコハウスの契約者に限らず、
いろいろな昔の仲間の消息に関しては必然的に情報通になってしまうのです。

町田の健康状態が悪い事は
11月に香港ツアーに参加した時も、
2週間前の「セニョール・ナガモリを囲む会」でも私から報告していました。
私以外の仲間はもう10年は町田と会っていませんでした。
でも、町田はこの【週間KEN】や私との直接な会話を通して
仲間の消息はあるていど掴んでいたのです。

町田は拓大卒業後、中堅の商社の辣腕営業マンとして活躍していたのですが
45歳の時に心筋梗塞で倒れ、しばらく生死の境をさ迷い命は取り留めたものの
ニトログリセリンをひと時も離せない身障者になってしまったのです。
会社もこれまでの貢献もあってしばらくは面倒を見たようですが数年で解雇され、
マンションも売り払い都営住宅で妻と2人の子供を抱え苦しい生活を強いられました。

10年ほど前に仲間が会ったというOB会は、マサにその頃の町田で
私も十数年ぶりの対面だったのですが、
サンタクロースのようにマッ白く大きく伸びた髪とヒゲが皆にインパクトを与え
それにしては元気100倍で明るい町田が誰の目にも残っていたのです。

多くの仲間がそれから町田に会うことは無かったのですが…
私はそれから町田との交友は続き、
特に最後の1年ほどは頻繁に会う事になるのです。

身障者となって生活苦の中にある町田でしたが…
元気100倍で明るい町田は亡くなる数ヶ月前まで変りませんでした。

実が昨年の春頃に町田からこんな電話がありました。
「いやーまいちゃったよ、いつもの病院で検査したらガンがみつかちゃってサ、
肺がんがステージ4でリンパが3で、骨が○で、ていうんだよ、
ボクは糖尿病もやってるから、三大疾病の三冠王だよ、ワハハハ…」と
豪快に笑いながら私に言うのです。

町田と頻繁に会うようになったのは彼の病気とはまったく関係なく
長男が運転する車の事故を廻って相手の保険会社とトラブルになっていて
その相談に乗っていたからです。

9月の初め10月の終りの一時退院をした時に
打ち合わせする町田の家の近くのガストでの写真ですが、
「オイお前、ホントにがんなのかよ?」と、
こちらから疑いの質問をしたくなるほど、いつもと変らぬ元気よさなのです。

その時に彼が言った言葉が今でも印象に残っています。
「オレは15年前、心筋梗塞で倒れて蘇生してからは、おまけの人生だと思って
いつ死んでも悔いのないように生きているのさ、だからガンと宣言されても
何とも思ってないんだ、食欲もあるし普通なんだよね」…と、

そして「南米のイグアスの瀧だけは1度見ておきたいと思っているんだけどネ」
と言ったいたのが、それからず~と気になっていて今でも頭から離れないのです。

今月になってから容態が急変し、町田からの最後の電話となったのも
大した用件でも無いのに自分のケータイから苦しそうにしゃべろうとするので
こちらから電話を切るようにしたぐらいです。

そして2月14日にYUKIと病院に見舞いに行った時は、呼吸器をつけて苦しそうに
して意識があるのか?無いのかも判りませんでしたが、町田の手が微妙に動き
私に話かけているようでした。
その翌日、町田は息を引き取りました。

通夜は18日の月曜日で
セニョール・ナガモリはホンジュラス帰国?の日で行けませんでしたが
町田が亡くなった日が、ナガモリがブログをスタートした日だったわけで、
何か因縁でもあったのでしょうか(^_^;)

町田孝雄君のご冥福を心からお祈りいたします。

●遺影
●出棺
●遺影の写真を見つめる孫のさきちゃん

2008年02月18日213号 親友のブログを完成!

親友の永森のブログが完成しました!
題して【セニョール・ナガモリの中米ホンジュラス便り】です。
プロデュースしたのは私で、もちろんヒロコの力を借りました。

最初は【永森克己のホンジュラス便り】というブログのタイトルにしていたのですが
永森がホンジュラスがどこにあるか知らない人が多いので
中米という文字を入れてくれとの要求がありました。

タイトルの前に永森克己の名前と本人の写真もしっかり出す…
というのは私の初めからのポリシーで、
本人は初めは少々抵抗があったようですが納得させました。
私はインターネットやブログは出来る限り”顔”を見せて発言し、
コメント欄もオープンにして”双方向性”を保つことが必要だと思っています。
それによって信頼も得られ
有意義で面白いブログが出来上がっていくというものです。

まして若い女の子ならともかく還暦を過ぎたオヤジが”顔”を出したからと言って
何を心配するのでしょう(^_^;)
永森の写真は先週の『セニュール・ナガモリを囲む会』での2次回で
さり気なく私のデジカメで10枚ほど連続撮影し、その中から1枚を選びました。
永森克己のフルネームと写真が入った試作中のブログを眺めていたのですが…
何だかちょっと硬い感じがします。
写真もソフトな感じの微笑んでいるものを選らんだのですが、
まー本人が、どちらかと言えば私と違って”堅物”なところはあるで、
(私が柔らか過ぎるのかもしれませんが^_^;)
もう少し遊びの部分が欲しいような気がしたのです。

その時に閃いたのが
”セニョール・ナガモリ”です!(^_^;)
自分から絶対タイトルの前に永森克己の本名を入れるから…と言っておいて何ですが、
これは中々ナイスです。
ちょっと怪しげな感じもしないではないですが、
永森の写真とプロフィール(私が書きました)もしかり掲載されているし
ちょうど良いノリで、コレで行こうと勝手に決めてしまいました。

一応、永森に確認の電話をいれると…
ホンジュラスの観光庁では年配者として敬意を込めて
”ドン・ナガモリ”と呼ばれているようですが、”ドン・ガバチョ”か
○○のドンとか、金丸みたいだし…と
少々本人はテレていましたがOKを取ることが出来ました。

ブログのデザインはヒロコに任せたのですが
ホンジュラスの国旗を取り入れて、キレイなものを作ってくれました。

そして13日(水)
永森の横浜の自宅にパソコンを持っての2度目の訪問です。
永森にブログの書き方や写真の取り込み方、
など具体的にレクチャーしなければならないからです。

そして15日(金)
記念すべきブログ第一号が永森から配信されました!
と言っても見たのは多分、私ひとりでしょう。
まだ誰にもブログのアドレスすら知らせていないのですから(^_^;)
テストを兼ねたスタートで、私も自宅でパソコンをあけて訂正を加えたり、コメントを書いたり、
我ながらイヤ永森ながらの好スタートです。

16日(土)17日(日)と…
少しづつ書き出したようで、YUKIもけっこう楽しみに読んでいるようです。
まだ、ラテン・アメリカ研究会の仲間にはブログ開設の案内を出していないようですが
私がココで紹介したら何人かは見てくれるでしょうし、
徐々に反応も出てくることでしょう。

18日(月)
永森は約1ヶ月の健康診断の為の一時帰国を終え来年3月までの
ホンジュラスでのボランテァ活動に戻ります。
これからは私も
【セニョール・ナガモリの中米ホンジュラス便り】のイチ読者として
たまにはコメントなぞも入れながら楽しみたいと思います。

2008年02月11日212号 セニョール・ナガモリ

10日の日曜日『セニョール・ナガモリを囲む会』
YUKIとヒロコの3人で出かけました。

『セニョール・ナガモリ』と言ってもラテン系の人ではありません(^_^;)
ラテン系の人ではありませんが…
またまた今回も登場させて頂きました、拓殖大学ラテン・アメリカ研究会で私と同期の人です。
昨年11月の香港も拓殖大学ラテン・アメリカ研究会OB会での旅行でした。

拓殖大学ラテンアメリカ研究会がどんな研究会だったかは
いつか詳しく書きます…なんて以前に言ったまま今だ詳しく書かないままですが
この週間KENには良く登場させて頂だいています。

なぜ?よく登場するのかといえば
大学を卒業して40年近くなるのですが、みんな仲が良く家族ぐるみの付き合いが続いているからです。

拓殖大学は1900年創設以来、海外雄飛が伝統の大学で
校歌の「人種の色と地の境我が立つ前に差別なし」は私も大好きな歌詞です。
一流大学出身の多くは海外で活躍するといっても、
数年間の限られた期間滞在しいわば空中戦のような海外活動をするのに対して
拓大は現地で生活し自ら生計をたて、そこで家族をつくったりする者も少なくないのです。

そういった伝統の中で色々な国々や地域のクラブがあって
その中のひとつとして『ラテン・アメリカ研究会』があったというわけです。
今は拓大に外国学部が出来てスペイン語学科がありますが、
当時は第二外国語としてのスペイン語しかなかったのですが、
スペイン語の習得もクラブの目的のひとつでした。
私が大学三年生の時にはスペイン語の語劇祭で『オジャンタイ』という芝居の
主役をやり『角倉がやったらオジャンタイ』なんて冷やかされたものです。

まー私のスペイン語の実力は昨年の我が家でのスペイン旅行で、すっかり化けの皮が剥げてしまい
ますます肩身の狭い家庭生活を送っている私ですが(^_^;)
ナガモリは私とは正反対のスペイン語の虫のような奴で
『ラテン・アメリカ研究会』の生温いスペイン語では物足りず、
自分で『スペイン語愛好会』を作ったほどの勉強家だったのです。

卒業後、旅行代理店の仕事の付くのですが、スペイン語を専門的に使うこともなく
一昨年11月に定年を迎えたのですが、
どうしてもスペイン語を生かした活動をしたいとの思いから
昨年3月からJICAのシニア海外ボランティアとして中米ホンジュラスの観光庁に2年間の
勤務についたのですが、1年経過の健康診断のため約一ヶ月の一時帰国中なのです。

この事は前回の週間KENで、ナガモリのブログを作るという話で少々触れましたが…
せっかくナガモリが帰国中というのなら、同期の仲間が集まろうという事で
ナビオス横浜で昼食を食べることにしたというわけです。

どうしてセニョール・ナガモリを囲む会になったのかは幹事に聞きそびれましたが
同期の仲間というのは、普段はいつもヨビステで呼んでいますから
メールを書く時などでも名前に”様”をつけるのはなんだか抵抗があり…
だからと言って”ヨビステ”で書くのも、どうかな…と、けっこう悩むのです。
したっがて、セニョール・ナガモリはピッタリのように思えたのですが
ロビーでお客様が「セニョール・ナガモリって何かしら?」って注目を浴びていました(^_^;)

今回集まったのはナガモリを含めて7人の同期生とその妻で14名とプラスヒロコの15名!
食事は本格的なコース料理で堪能
食後はベイ・ブリッジが一望出きるラウンジへ          スナップ1  スナップ2
ヒロコは途中で所要のために中座しましたが
みんな大いに話が弾んで
アッというまに時間が経過してしまいました。
ナガモリのブログ用の写真も密かに撮ったのですが気に言ってくれるか、
今週中にまたナガモリに会ってブログの伝授をしなければなりません。

2008年02月04日211号 ブログのススメ

私は会う人、会う人に「ブログを書こう!」…と言っています(^_^;)

私のブログ『ゆったりECOな保険ライフ』の中でも今書いているテーマは
保険募集人として長くやっていこうと思うなら、ちゃんと自分の名前や顔が判るようにして
自分の考えや”こだわり”をネット上で公開していこう…
すなわち「ブログを書こう!」…と言っているのです。

なぜ?そんなことを云うか、と言えば…
お金もかけずに誰でも簡単に出来て、とても有意義だからです。

どのように有意義かといえば…これはもうたくさんあります。(^_^;)
①多くの方とブログを通して友人やお客さまになって頂ける。
②ブログを定期的に書く事によって、自分の専門性を高めることが出来る。
③自分自身のアーカイブスとして資料や記録が蓄積されていく。
まだまだありますが、あまりムズカシクなるとナンですので
①の例としてごく最近にあったお話をしたいと思います。

発端は今から1年半ほど前、Oさんという方から私にメールが入りました。
保険の相談かな?と思って読んで見ると、保険ではなく”意外な相談”でした。
それはヒロコが高校時代を過ごしたフィリピンのバギオにあるブレント高校についての相談でした。
ネットの検索で【バギオ ブレント高校】と検索したら、
この週間KEN第13号『ブレント高校』が出てきたようで、
私から親としてのナマの情報を知りたかったようです。

ヒロコがフィリピンのバギオに留学したのが1997年から3年間。
私が週間KENにバギオの事を書いたのは2004年4月。
Oさんからメールを頂だいたのは2006年10月頃だったと思います。
その時は私の意見も述べた上で、ヒロコのホーム・ページをリンクして
ヒロコ自身にも詳しい情報を提供するようにバトン・タッチをしておきました。
それから1年半ほど経った先日、0さんから私とヒロコ宛にメールが入りました。
ブログやホームページの良いところは、こちらが忘れた古い記録でも
必要と思う人は、じっくりとマイ・ペースで利用することが出来ることです。

あれから2回バギオに行って下調べをしてきたのだが、子供本人も気に入っており
是非、留学させたいとの気持ちが強くなったので、ヒロコに力になって頂けないか…
出来れば費用を出すからヒロコに一緒に行ってもらえないかというものです。

その前に一度、直接お会いしなければ、ということで0さんがお住まいの
春日部市(埼玉県)まで、家族3人で出かけることにしました。
春日部市は毎月YUKIと一緒に出かけている法人のお得意様の幸手市の手前で
軽い気持ちで出かけたのですが、Oさんはヒロコだけが訪問するかと思っていたようで
家族3人が遠方から押し掛けてきてビックリされるやら恐縮されるやらで、
こちらが恐縮してしまいました。(^_^;)
ネットが取り持つ縁は”保険”以外でも、いろいろあって実に楽しい限りです。

そんな中で私の大学時代の親友のナガモリが中米のホンジュラスから一時帰国。
彼は昨年3月から2年間のJICAのシニア・ボランティアで、
彼の夢だったラテン・アメリカでホンジュラスの観光局に勤務しながら一人暮らしをして
いるわけですが、私は「絶対にブログを書け!」と言っていたのです。
しかしバタバタとホンジュラスに行ってしまい、
ブログなんて縁のない定年男が海外の馴れない生活に追われ、
「何を書いたら?」…というのですが
そのような事を、そのまま書くだけでもブログに書は面白いのです(^_^;)
でも、もったいない事に1年が経過し健康診断の為の一時帰国で残り1年になったのです。

旅行代理店として定年まで働き、自分の夢を叶えるため中米でホンジュラスの観光局で
日本人にもっとホンジュラスを知ってもらおうというボランティアをやっていて
ブログを書かない手はないと、ナガモリの家に押し掛け、私が力説してやっと
彼もやっとその気になったようです。(^_^;)

バギオについて一回だけ書いたのに、このような縁が生まれるのです。
ホンジュラスで検索してナガモリのブログに辿りつく人は、
これから書いたとしても、そこそこはあるはずです。
また帰国してからも書き続けることです。
そこから彼のこれからの人生において有意義な出会いが必ずあるはずです。

一時帰国のナガモリの為にも、あと2週間!
ブログを作って、彼にレクチャーをしなければなりません(^_^;)