2010年10月11日351号 ラテ研総会

この週間KENでもすっかりお馴染みになってしまった拓大ラテンアメリカ研究会OB会の 2年に1度のO総会が10日(土)にありました。

2年前も、さらにその2年前も、この模様は書いていて、 ちょっと読み直してみたら、毎年同じような事をやっていて笑ってしまいましたが、 ”総会”なんていうものは、よっぽどの緊急議題でも無い限りそんなものでしょう。

そうは言っても役員をやっている方々は、それなりに大変でアタマが下がります。 2年に1度の総会ではこの”役員改選”があるのが、どうにも気が重いのですが… 司会役の瀬戸口会長の「会長へ立候補される方は挙手して下さい」との言場に、長い沈黙が続き 結局2年前と同じく現役員全員更新という事で、ココは大きな拍手で無事!終了しました。 ① ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦ ⑧

今回の総会では、これまでに無いプログラムがありました。 「楽しきかな第二の人生」というテーマで木村先輩と同期の永森の30分づつの講演がありました。 木村先輩は2年前の総会のブログでも触れましたが、茨城県笠間市で農地を借りて野菜作りをやっていて その模様をユーモアを交え、とても興味深く聞くことが出来ました。 特に奥様とのエピソードは3年前にラテ研の香港旅行で、ご一緒しているだけに、笑ってしまいました。 そしてSr.ナガモリこと永森はもちろんラテンアメリカへの熱き思い! 彼の思いや考えは人一倍知っていると思っている私ですが、 永森らしい静かで坦々とした語り口の中から、その強い思いが滲みでていて 「第二の人生というより今こそ第一の人生だと思っている」という言場に心を打たれてしまいました(^_^;) ①

そうそう出席予定には入っていなかった上内先輩が途中から静かに入ってきて 私と永森はビックリして思わず顔をあわせました。 ほんとうは3年先輩なのですが卒業したのは一緒で我々同期とは麻雀をしたり、 スキーに行って麻雀したり(^_^;)とても親しくした先輩なのです。 ① ② ③ 3年留年したのはスペインに出稼ぎに行っていたからで、本当はとても優秀な人なのです(^_^;) もう少しお話が出来たらと思ったのですが永森の講演を聞いたら帰られてしまいました。

そして立食パーティですが、その前に恒例の記念写真。 こして、いつものように楽しい団欒 ① ② ③ ④ ⑤ ⑥

絞めはやっぱり拓大の応援歌や一連のパフォーマンスがあって、 ① ②  そして動画も 〆はこれまたいつもの阿達の押忍三唱(^_^) ① ②

この日は現役の学生、ラテ研の女性会長!茨城さんら4名も参加。 111期生との名札ですが、チナミに私は67期ですから44年後輩(^_^;) 今は部員は9名で頑張っているようですが、 このような拓大パフォーマンスはやるどころか見たこともないようで カルチャーショックを受けたようです。(^_^;) ① ② ③

そうそう、一時廃部になっていたラテ研を復活するためにアルゼンチン在住の中務先輩から派遣され 見事そのミッションを達成したご子息の中務義則君(101期)が、同じラテ研後輩の105期智子さんと この春に結婚し総会に夫婦で参加!  ① ② 若い世代の頼もしいカップル誕生でラテ研の未来は確固なものとなってきました。

ここでの立食が終ると、またまたお決まりの二次回というか三次会というか(^_^;) ① ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦ 私の【iPad】に2年前の総会の写真を入れていったのですが、 私の前に座っていた阿達と塚本(68期)が2年前と同じ服を着ているという事で大笑い! まー季節も同じですし、おおいにありえる事ですがね(^_^;) ① ② ③

同じパターンの繰り返しの2年に1度の総会ですが こうして書いて見るとまだまだハナシは尽きないようで、何はともあれ楽しい一日でありました(^_^;)

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2008年02月25日214号 追悼・町田孝雄

町田孝雄が亡くなりました。 61歳でした。 私と同年齢、彼もまた拓殖大学ラテン・アメリカ研究会の仲間でした。

週間KENを書き出して丸4年、拓殖大学ラテン・アメリカ研究会はココ数週に限らず 何度か題材にしてきましたが、町田が登場するのは初めてです。

私はありがたい事に保険代理店という仕事をしていますので 昔の仕事仲間や同級生から親戚まで多くの知人と会うチャンスがあります。 同業者の中には絶対に知人や親戚はお客様にしない! なんてポリシーを持っている人も少なくないのですが私には良く判りません。

扱っている保険商品が悪い物だったり、押し売りをするならともかく 向こうから入ってくれるというものを断る理由は無いと思うのです。 懇意な保険屋が居る事はマイナスでは無いはずです(^_^;)

てな事もあってナンやカヤと私はロコハウスの契約者に限らず、 いろいろな昔の仲間の消息に関しては必然的に情報通になってしまうのです。

町田の健康状態が悪い事は 11月に香港ツアーに参加した時も、 2週間前の「セニョール・ナガモリを囲む会」でも私から報告していました。 私以外の仲間はもう10年は町田と会っていませんでした。 でも、町田はこの【週間KEN】や私との直接な会話を通して 仲間の消息はあるていど掴んでいたのです。

町田は拓大卒業後、中堅の商社の辣腕営業マンとして活躍していたのですが 45歳の時に心筋梗塞で倒れ、しばらく生死の境をさ迷い命は取り留めたものの ニトログリセリンをひと時も離せない身障者になってしまったのです。 会社もこれまでの貢献もあってしばらくは面倒を見たようですが数年で解雇され、 マンションも売り払い都営住宅で妻と2人の子供を抱え苦しい生活を強いられました。

10年ほど前に仲間が会ったというOB会は、マサにその頃の町田で 私も十数年ぶりの対面だったのですが、 サンタクロースのようにマッ白く大きく伸びた髪とヒゲが皆にインパクトを与え それにしては元気100倍で明るい町田が誰の目にも残っていたのです。

多くの仲間がそれから町田に会うことは無かったのですが… 私はそれから町田との交友は続き、 特に最後の1年ほどは頻繁に会う事になるのです。

身障者となって生活苦の中にある町田でしたが… 元気100倍で明るい町田は亡くなる数ヶ月前まで変りませんでした。

実が昨年の春頃に町田からこんな電話がありました。 「いやーまいちゃったよ、いつもの病院で検査したらガンがみつかちゃってサ、 肺がんがステージ4でリンパが3で、骨が○で、ていうんだよ、 ボクは糖尿病もやってるから、三大疾病の三冠王だよ、ワハハハ…」と 豪快に笑いながら私に言うのです。

町田と頻繁に会うようになったのは彼の病気とはまったく関係なく 長男が運転する車の事故を廻って相手の保険会社とトラブルになっていて その相談に乗っていたからです。

9月の初めや10月の終りの一時退院をした時に 打ち合わせする町田の家の近くのガストでの写真ですが、 「オイお前、ホントにがんなのかよ?」と、 こちらから疑いの質問をしたくなるほど、いつもと変らぬ元気よさなのです。

その時に彼が言った言葉が今でも印象に残っています。 「オレは15年前、心筋梗塞で倒れて蘇生してからは、おまけの人生だと思って いつ死んでも悔いのないように生きているのさ、だからガンと宣言されても 何とも思ってないんだ、食欲もあるし普通なんだよね」…と、

そして「南米のイグアスの瀧だけは1度見ておきたいと思っているんだけどネ」 と言ったいたのが、それからず~と気になっていて今でも頭から離れないのです。

今月になってから容態が急変し、町田からの最後の電話となったのも 大した用件でも無いのに自分のケータイから苦しそうにしゃべろうとするので こちらから電話を切るようにしたぐらいです。

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2008年02月11日212号 セニョール・ナガモリ

10日の日曜日『セニョール・ナガモリを囲む会』に YUKIとヒロコの3人で出かけました。

『セニョール・ナガモリ』と言ってもラテン系の人ではありません(^_^;) ラテン系の人ではありませんが… またまた今回も登場させて頂きました、拓殖大学ラテン・アメリカ研究会で私と同期の人です。 昨年11月の香港も拓殖大学ラテン・アメリカ研究会OB会での旅行でした。

拓殖大学ラテンアメリカ研究会がどんな研究会だったかは いつか詳しく書きます…なんて以前に言ったまま今だ詳しく書かないままですが この週間KENには良く登場させて頂だいています。

なぜ?よく登場するのかといえば 大学を卒業して40年近くなるのですが、みんな仲が良く家族ぐるみの付き合いが続いているからです。

拓殖大学は1900年創設以来、海外雄飛が伝統の大学で 校歌の「人種の色と地の境我が立つ前に差別なし」は私も大好きな歌詞です。 一流大学出身の多くは海外で活躍するといっても、 数年間の限られた期間滞在しいわば空中戦のような海外活動をするのに対して 拓大は現地で生活し自ら生計をたて、そこで家族をつくったりする者も少なくないのです。

そういった伝統の中で色々な国々や地域のクラブがあって その中のひとつとして『ラテン・アメリカ研究会』があったというわけです。 今は拓大に外国学部が出来てスペイン語学科がありますが、 当時は第二外国語としてのスペイン語しかなかったのですが、 スペイン語の習得もクラブの目的のひとつでした。 私が大学三年生の時にはスペイン語の語劇祭で『オジャンタイ』という芝居の 主役をやり『角倉がやったらオジャンタイ』なんて冷やかされたものです。

まー私のスペイン語の実力は昨年の我が家でのスペイン旅行で、すっかり化けの皮が剥げてしまい ますます肩身の狭い家庭生活を送っている私ですが(^_^;) ナガモリは私とは正反対のスペイン語の虫のような奴で 『ラテン・アメリカ研究会』の生温いスペイン語では物足りず、 自分で『スペイン語愛好会』を作ったほどの勉強家だったのです。

卒業後、旅行代理店の仕事の付くのですが、スペイン語を専門的に使うこともなく 一昨年11月に定年を迎えたのですが、 どうしてもスペイン語を生かした活動をしたいとの思いから 昨年3月からJICAのシニア海外ボランティアとして中米ホンジュラスの観光庁に2年間の 勤務についたのですが、1年経過の健康診断のため約一ヶ月の一時帰国中なのです。

この事は前回の週間KENで、ナガモリのブログを作るという話で少々触れましたが… せっかくナガモリが帰国中というのなら、同期の仲間が集まろうという事で ナビオス横浜で昼食を食べることにしたというわけです。

どうしてセニョール・ナガモリを囲む会になったのかは幹事に聞きそびれましたが 同期の仲間というのは、普段はいつもヨビステで呼んでいますから メールを書く時などでも名前に”様”をつけるのはなんだか抵抗があり… だからと言って”ヨビステ”で書くのも、どうかな…と、けっこう悩むのです。 したっがて、セニョール・ナガモリはピッタリのように思えたのですが ロビーでお客様が「セニョール・ナガモリって何かしら?」って注目を浴びていました(^_^;)

今回集まったのはナガモリを含めて7人の同期生とその妻で14名とプラスヒロコの15名! 食事は本格的なコース料理で堪能 食後はベイ・ブリッジが一望出きるラウンジへ          スナップ1  スナップ2 ヒロコは途中で所要のために中座しましたが みんな大いに話が弾んで アッというまに時間が経過してしまいました。 ナガモリのブログ用の写真も密かに撮ったのですが気に言ってくれるか、 今週中にまたナガモリに会ってブログの伝授をしなければなりません。

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2007年11月26日201号 香港より帰国

先ほど香港から無事、我が家に帰宅しました!

ただし今回は… 恒例ともなりました毎日現地からのレポートと写真をアップするという週間KEN臨時増刊号が、 現時点において3日目以降が未完成のままになっています(^_^;) ”とてもお恥ずかしいことになっておりますが数日中には完成させておきたいと思っています。

なぜ、こんな事になってしまったのか? それは今回は団体旅行であったのに甘くみていたということです。 これでも毎晩午前3時頃まではホテルの部屋の片隅でパソコンと向いあっていたのです。 でも毎朝といっていいぐらい6時頃にはモーニング・コールがあるのです(^_^;)

出発の日は完全徹夜でした。 次の日、すなわち香港初日の夜は午前3時で睡魔にまけてダウン。 でもこの日の午後2時までは我が家の単独行動でしので、 香港2日目の午前中はホテルに閉じこもって仕上げることが出来たのです。 しかし団体旅行となると、そうはいきません。

文章を書くだけなら、どうにかなったのですが…。 問題は写真です。 今回は団体旅行のため、私が一日の撮影する写真の数がベラボーに多いのです。 何もベラボーに撮らなければならない義務はひとつもないのですが。(^_^;)

実は今から40年ほど前、今回の旅行を共にするメンバーとの合宿や活動などを 私は撮影をし、自分で現像までしていたのです。 すなわち、その習性が40年経った今でも残っていたというわけです(^_^;)

その頃と違ってデジカメはバッテリーとメモリー・カードがあれば無尽蔵に撮れます。 今回は新しいワイド・レンズがついたデジカメにバッテリーの予備を2個、 それに2ギガのメモリー・カード(今や3,770円)を買ったので 1日分の撮影には充分ということで バチバチと撮りまくり、それを整理するだけでも大変な時間を要してしまったというしだいです。

言い訳はそこまでにして(^_^;) また旅行の報告と写真は、近日中に全日アップしご紹介するとして 私の旅の総括です。

何より安心したのは、YUKIやヒロコが気心を知っているオグラ夫妻はもちろんのこと、 メンバーの誰もが紳士的で優しく、拓大ラテン・アメリカ研究会の印象をよくしたことです。 もし機会があったら、また参加したいと言っています。

気ままで、自己主張とバトルを繰り広げてながら、きままな旅を続ける我が家の旅も 捨てたものではありませんが、 皆とのコミュニーケーションを大切にしながらの旅もまた、 捨てたものでないことを知っただけでも、とても有意義な旅だと思っています。

オグラ夫妻。 自費で参加し添乗員役まで果たしたナミカタ君。 毎晩午前3時過ぎにベッドにもぐりこむ私を気遣ってくれた同室で同期のアダチ。 身勝手な行動をする、素っ頓狂な我が家のメンバーを温かく受け入れてくれた諸先輩。 参加者全員に心から感謝しています。

特別増刊号 香港・マカオ・珠海の旅6日間 11月24日(土)第05日目  憧れのランタオ島大仏?他

11月24日第5日目  憧れのランタオ島大仏?       

この日は本来なら一日自由行動というわけですが、 メンバーの皆様お歳に似合わず皆様お元気で(^_^;) 全員が早朝から朝食のビュッフェに揃っていました。 我われが少し遅れて行くと… 「アレッ大仏さんを見に行ったんじゃないの?」と言われてしまいました。 もうYUKIの”大仏見たい!宣言”はすっかりメンバーの印象に残ったようです。

本当は私は今までの睡眠不足と旅行コラムの遅れを取り返すために ホテルにのんびり滞在していたかったのですが、 YUKIが一度思いたった事を私の勝手で阻止しようものなら この先、何年たっても、いや一生「あの時はKENが反対して…」なんて 言われ続けるかもしれないのです。(^_^;)

他のメンバーもランタオ島までは行くと言うことですから途中までは みんなと行く事にしたのです。 ホテルの側から2階建ての路面電車に乗って、そこから歩いて ランタオ島に向うフェリー乗り場へ向います。 途中、香港一の高層ビルの前で、全員集合の写真を一枚! そこで、YUKIが同じフェリーでもこちらが大仏には近いとこに着く という事で、みんなとは別れる事に。

もう、私としたら、この日のメイン・イベント!現地の拓大OB会員との会食の 集合時間である5時までにホテルにさえ到着してくれれば、 もう後はどこへ行こうとも黙ってYUKIについていくと心に決めたのです。(^_^;)

てなわけで、同じランタオ島に向かって我われは別のフェリーで行くことのなったのです。 フェリーが着いたところには、ひなびたバス・ターミナルがあって、 どのバスに乗っていくのか判りませんが…YUKIは元気よく聞いてきました。 バスに揺られること小一時間、終点の停車場でバスを降りたら! 感激です!!大仏さんが小高い山の上に見えるじゃないですか(^_^;)

連日の寝不足と旅の疲れで、普通なら大仏までの階段をみて暗くなるのが普通ですが これでYUKIが満足してくれたらと、気分は爽快です。

大仏やお寺の入場料が23HK㌦で300円ちょっとですから安いものです。 足取りも軽く?大仏へと向かいます。 そして、着く前から必ず写真に撮って今回の仲間に見せなくてはと思っていた 大仏さん・YUKI・私の3ショットもバッチリ撮影することが出来たのです。(^_^)v

大仏さんの丘の下に入場券に含まれているポーリン寺というお寺があります。 とてもキンピカのお寺で楽しくなります。①②③④⑤

境内に食堂のようなところがあり、ココで豆腐嫌いのYUKIがなぜか目を輝かせて 「ランタオ島に行ったらKENにお豆腐のデザートを食べさせてあげる」と言っていた その”現物”が食べられるようなのです、 それも300円ちょっとの入場券に含まれているようなのです。

しかも驚いた事に,それにプラスして ビーフンと点心(小さなお菓子)をそれぞれ2つづつ選べるという大判振る舞いです(^_^;) 豆腐花と書く名物のお豆腐デザートは、冷たくさっぱりとして大豆の香りと甘みも上品で YUKIの分も合わせて2人前美味しくたいらげさして頂きました。 点心は美味しいの美味しくないの微妙なのと色々ありましたが ビーフンと全部食べれば、さすがの私も昼食はこれで充分という事で YUKIは幸せそうでした。

それから少し境内やお土産屋さんなどを見て 帰りはバスでランタオ島の繁華街まで行って、そこから地下鉄にのれば 4時ごろまでにはホテルにつく予定です。 バスは来た時より早く繁華街に到着、そこはオグラ達が今日来ただろうアウトレットや 大きなスーパーがありました。 …という事は、最初からオグラ達とここまで来た方が早かったにではと フッと思いましたが…口には出せません(^_^;) […]

2007年11月19日200号 20日から香港へ

週間KENは早くも200回を迎えてしまいました(^_^) これもヒトエに皆様のおかげと思っています。 こんなバカバカしい、ひとりよがりで好き勝手に書いているコラムですが、 「毎週月曜日は楽しみにしているよ」なんてキトクな方にオダテられて 気が付けば年52回で4年近く一回も欠かさずやってくる事が出来ました。

その間、週間KEN臨時増刊号として昨年の【ドイツ・ワールドカップの旅】が大好評で、 それに味を締め今年は【スペインの旅】を掲載させて頂きました。

そして今回!200回記念として!!…というのは冗談ですが(^_^;) 【香港・マカオ・珠海の旅】も出来れば連日、現地からレポート?していきたいと思っています。 今回の旅はYUKIとヒロコの3人のメンバーは変りませんが、基本的には団体旅行です。 何の団体か?というと、 私の学生時代(拓殖大学)のクラブ(ラテン・アメリカ研究会)のOB会の旅行なのです。 OB会の団体旅行というわけですが日本から参加するのは我が家の3人を含めて総勢11名、 そして香港在住の私と同期のオグラとその奥さんのキエちゃんが現地で迎えうつという こじんまりとした、気心のしれた旅というわけです。

このような旅になぜ?ヒロコまでが…といえば、 オグラ夫妻が大好きで、それに香港も大好きなようで、 旅行代は自己負担で有給休暇を利用しての参加です(^_^;)

ところがヒロコの都合で本当は21日から25日までの4泊5日の旅が 我が家だけ1日早く20日に出発することになって5泊6日の旅になってしまったのです。 『リンキン・パーク』というアメリカの人気バンドをご存知ですか? まー私も含め多くの人達は知らないでしょうがヒロコはその大ファンのようなのです。 (大好きなものが、とても多いムスメでして^_^;) ところが彼らの東京公演がたまたま、この香港旅行とぶつかって、ガッカリしていたのですが、 ナンと!彼らが来日する前の公演が20日に香港であるという事を知って大騒ぎ?になったのです。 ヒロコの執念は大変のもので、まず香港公演のチケットを手に入れたのです。 次にもう旅行費用も全て支払っているのに出発日を変更するというのです。

実はこの旅行は今回のツアーの参加者の一人でもある後輩のナミカタ君が経営するアート・ツアーが 手配をやっていて、思ったより参加者が少なく、我が家の3人は貴重な存在で ナミカタ君まで自費参加して10名をクリアしているのです。

もう、こんなワガママは、いくら後輩と言え私のクチからは言えません。(^_^;) 「自分からナミカタ社長に電話して交渉してみろ」と私はヒロコにいいました。 ヒロコは早速電話をしたようです。 「ほんとうにソレでヒロコさんの夢がカナウのですか?」とナミカタ君に言われたそうです。 「ハイ!」…とヒロコは元気に言ったら、 「そうですか、だったら頑張ってみましょう」と要望に応えてくれたのです。

もちろん若干の追加費用はヒロコに負担させましたが… ハレて??家族3人が一日早い出発をする事になったというしだいです。 (もちろん公演はヒロコだけで私とYUKIは事態しました)

てな事で、どんな旅になるのか?わかりませんが… 今回は先輩4名、同期2名(私を入れて)後輩2名に配偶者2名(YUKIも入れて)それにヒロコ そしてオグラ夫妻の総勢13名の旅をどうレポートしていくか? 楽しみにして頂ければと思います。

2007年05月07日172号 オグラ夫妻を囲んで

大学時代の親友で、もう20年近く香港に在住しているオグラ夫妻を囲んで 久しぶりに仲間が集まろうという事になりました。

もともと我々が大学を卒業した年から、毎年1回、最初はガールフレンドを連れてきたり のハイキングだったのが、結婚して子供が生まれる者も出てきてからは 家族ぐるみでの一泊旅行となって、しばらく続いていたのです。

ヒロコも小さい時から「オグラのおじちゃん・おばちゃん」が大好きで… 1年ほど前に初めての海外出張が香港だった時には、いろいろお世話になったようです。 (平成3年には私のミニコミ誌にこんな記事も書いています) そのオグラ夫妻を囲んで集まろうというのですから、 我が家で最もスケジュールが過密なヒロコも最優先で参加すると楽しみにしていたのです。

日時は5月4日の6時頃と決まっていたのですが… 会場をドコにするのか、私が顔が広そうだという事で”幹事”になってしまいました。 候補の店が2件あったのですがゴールデン・ウイークの真っ只中でどちらも休業との事で、 結局ヒロコにネットで条件に適した店をえらんでもらいました。

当日、我が家を早めに出たのですが… 早くもオグラ夫妻とアダチが予約してある個室のテーブルに座っていました。 「アルゼンチン組は早くも、ご到着ですか」…私は笑いながら挨拶しました。 実はこの3人は2月に大学OB会の集まりでアルゼンチンに行っているのです。 そのアルゼンチン行きを香港にいるオグラが”決意”したのは 実は私のこの【週間KEN】の記事を読んで、迷っていたのが背中を押されたというのです。 書いた本人は結局行けなかったのですが…(^_^;)

やがてタナカ夫妻・アオキ夫妻そしてフルヤとやってきて… 驚いたことに、クラブのマドンナ的存在だったミドリが卒業以来38年! フルヤが急遽声をかけたようで、幹事の私も知らないサプライズで盛り上がります。

もちろん奥方連中とは初対面ですが… ミセス・オグラのキエちゃんは、もうムチャクチャ明るくて楽しい人でして(^_^;) 「ネーネー、ウチのオグラとスミクラ君がミドリさんに惚れちゃって頑張ってたら 先輩のKさんに持ってかれちゃったんだって、ほんとバカみたねハッハッハッ!」 隣にYUKIが座っているのに、なんてことを…(^_^;)

こうなったら私も負けていません! 「僕が銀座のフランセの店長をやっている時に、オグラが同じ職場にいたキエちゃんを”僕に” 紹介してくれて、何時デートに誘おうか?なんて思ってたんだけど、 その後もやたらと二人で店に来るのよ…ちょっと変だなとおもってたら 『結婚する事なりました』だって、オレは何だったのかってさすがの僕も考えたよね~」

「そうそうタナカの奥さんがこのチャーミングなアキコさん! あの無骨なタナカが美女をつれて僕の店に来たのでビックリしたんだけど 「今日、お見合いをして、二人きりになったんだけど場が持てないからオマエのとこに来た」 って言うのよ、ホスト・クラブじゃないんだけどね、 でもアキコさんは『こんな友達がいるなら』って気持ちになったんだから、感謝してもらわなければ! …ナニ恨んでるって(^_^;)」

少し遅れてアオキの長女のリカちゃんがやってきました。 リカちゃんは僕らの子供世代では年長組でオグラの長男のマサタカ君などと アオキの実家で初節句を祝った写真( 昭和50年頃)が残っています。 そのリカちゃんも今や3児の母! この我々の集まりには小さい時からズーと参加し楽しかった思い出がたくさんあるようです。 そうそうミドリは卒業する時にはK先輩と結婚していて妊娠中でした。 卒業から38年経過しているのですから、とうぜんの事ですが、それなりの年齢のお嬢さんが いるわけで、時代の流れを感じずにはおれません(^_^;)

酸いも甘いも知り尽くし、気心の知れた仲間とこうして食べたり呑んだりするのは 本当にこころの底から楽しい気持ちになれるものです。 幹事として選んだお店も、 値段も雰囲気もリースナブルでヒロコが「今度は使おう!」などと言っています。

余った予算でお茶でも飲もうという事になったのですが… アオキ・ファミリーはココでお別れ…リカちゃんの子供3人をアオキのお母さん […]

2006年10月30日145号 OB会

土曜日、OB会の総会にひさしぶりに参加してきました。 何のOB会かというと、拓大のラテン・アメリカ研究会のOB会です。

そう、先々週号(142号)で奥秩父にそばを食べに行った事を書きましたが この時はOB会の有志7名が、後輩OBの作ったそばを食いに行こうというツアーで 食い意地がはってる私は気軽に参加したのですが、その時のメンバーが悪かった?のです(^_^;)。

OB会の会長と2名の副会長、それに事務局のNクンと 私を除いて6名の参加者中4名がOB会役員だったのです。 そばツアーに参加した時は2週間後に0B会の総会があることなんか、 私はすっかり忘れていたのですが、その時にNクンから参加の確認をとられ 酔った勢いで参加する約束をしてしまったのです。

OB会というのは微妙な会です。 クラス会とか同期会とかだと、懐かしい顔がほとんどで盛り上がるのですが… OB会となると、まったく面識もない大先輩や大後輩?が参加して知らない顔ばかり… なんてこともあります。 それに真面目に参加を続けていると”役員”に押されたりして抜け出さなくなるのです。 もう”ン十年”も自分の会社を事務局にして実質的なOB会の運営管理をしている Nクンには心から敬意をはらいつつも、なるべく近づかないようにしていたのですが。(^_^;)

卒業をした頃、OB会は大先輩、年寄りの集まりのような気がしました。 その方達とのお話は”歴史”を聞くようなものでした。 でも今回参加して感じたのは、まだまだ先輩の方が多い世界ですが… 懐かしさを共有できる先輩になってきたということです。 マー簡単に言ってしまえば私も歳をとったという事ですね(^_^;)

総会は… 役員選出も再任という事で全員「異議ナシ!」…でしゅくしゅくと進み無事終了。 懇親会は… なかなかの盛り上がり、シメに拓大の懐かしい歌やったら、応援歌、寮歌、などなど 止まらなくなって、会場の時間オーバーにヒヤヒヤ。 この時点で午後6時前、もちろん2次会の居酒屋へ… ヒロコが”だるまさんの社長”と呼んでいるS先輩と…大変お世話になっています。

この日のために会計報告書を徹夜で作ったNクン この居酒屋に来てもまた、水割りを作ったり、注文をとったり大忙し。 彼も50歳を超えた旅行会社のリッパな?社長さんなのですが、OB会は過酷です。(^_^;)

そのNクンの会社で来年2月に【OB会アルゼンチン旅行】を企画しているのですが メンバーがあまり集まらず、私を懸命に誘うのです。 ラテンアメリカ研究会に学生時代4年も在籍し、今だかつてラテンアメリカのどこにも行った事のない 私としては行きたい気持ちは山ほどです。 また、それがNクンの助けにもなるのなら、なおさらです。 しかし、アルゼンチンはあまりにも遠く、金銭的にも、時間的にも厳しいものがありツライところです。

なにはともあれ… 40年前の我が青春時代の思い出と 今だまだ見ぬ南米大陸への熱い思いが… ほんの少し蘇った一日は終わりました。