2008年02月25日214号 追悼・町田孝雄

町田孝雄が亡くなりました。
61歳でした。
私と同年齢、彼もまた拓殖大学ラテン・アメリカ研究会の仲間でした。

週間KENを書き出して丸4年、拓殖大学ラテン・アメリカ研究会はココ数週に限らず
何度か題材にしてきましたが、町田が登場するのは初めてです。

私はありがたい事に保険代理店という仕事をしていますので
昔の仕事仲間や同級生から親戚まで多くの知人と会うチャンスがあります。
同業者の中には絶対に知人や親戚はお客様にしない!
なんてポリシーを持っている人も少なくないのですが私には良く判りません。

扱っている保険商品が悪い物だったり、押し売りをするならともかく
向こうから入ってくれるというものを断る理由は無いと思うのです。
懇意な保険屋が居る事はマイナスでは無いはずです(^_^;)

てな事もあってナンやカヤと私はロコハウスの契約者に限らず、
いろいろな昔の仲間の消息に関しては必然的に情報通になってしまうのです。

町田の健康状態が悪い事は
11月に香港ツアーに参加した時も、
2週間前の「セニョール・ナガモリを囲む会」でも私から報告していました。
私以外の仲間はもう10年は町田と会っていませんでした。
でも、町田はこの【週間KEN】や私との直接な会話を通して
仲間の消息はあるていど掴んでいたのです。

町田は拓大卒業後、中堅の商社の辣腕営業マンとして活躍していたのですが
45歳の時に心筋梗塞で倒れ、しばらく生死の境をさ迷い命は取り留めたものの
ニトログリセリンをひと時も離せない身障者になってしまったのです。
会社もこれまでの貢献もあってしばらくは面倒を見たようですが数年で解雇され、
マンションも売り払い都営住宅で妻と2人の子供を抱え苦しい生活を強いられました。

10年ほど前に仲間が会ったというOB会は、マサにその頃の町田で
私も十数年ぶりの対面だったのですが、
サンタクロースのようにマッ白く大きく伸びた髪とヒゲが皆にインパクトを与え
それにしては元気100倍で明るい町田が誰の目にも残っていたのです。

多くの仲間がそれから町田に会うことは無かったのですが…
私はそれから町田との交友は続き、
特に最後の1年ほどは頻繁に会う事になるのです。

身障者となって生活苦の中にある町田でしたが…
元気100倍で明るい町田は亡くなる数ヶ月前まで変りませんでした。

実が昨年の春頃に町田からこんな電話がありました。
「いやーまいちゃったよ、いつもの病院で検査したらガンがみつかちゃってサ、
肺がんがステージ4でリンパが3で、骨が○で、ていうんだよ、
ボクは糖尿病もやってるから、三大疾病の三冠王だよ、ワハハハ…」と
豪快に笑いながら私に言うのです。

町田と頻繁に会うようになったのは彼の病気とはまったく関係なく
長男が運転する車の事故を廻って相手の保険会社とトラブルになっていて
その相談に乗っていたからです。

9月の初め10月の終りの一時退院をした時に
打ち合わせする町田の家の近くのガストでの写真ですが、
「オイお前、ホントにがんなのかよ?」と、
こちらから疑いの質問をしたくなるほど、いつもと変らぬ元気よさなのです。

その時に彼が言った言葉が今でも印象に残っています。
「オレは15年前、心筋梗塞で倒れて蘇生してからは、おまけの人生だと思って
いつ死んでも悔いのないように生きているのさ、だからガンと宣言されても
何とも思ってないんだ、食欲もあるし普通なんだよね」…と、

そして「南米のイグアスの瀧だけは1度見ておきたいと思っているんだけどネ」
と言ったいたのが、それからず~と気になっていて今でも頭から離れないのです。

今月になってから容態が急変し、町田からの最後の電話となったのも
大した用件でも無いのに自分のケータイから苦しそうにしゃべろうとするので
こちらから電話を切るようにしたぐらいです。

そして2月14日にYUKIと病院に見舞いに行った時は、呼吸器をつけて苦しそうに
して意識があるのか?無いのかも判りませんでしたが、町田の手が微妙に動き
私に話かけているようでした。
その翌日、町田は息を引き取りました。

通夜は18日の月曜日で
セニョール・ナガモリはホンジュラス帰国?の日で行けませんでしたが
町田が亡くなった日が、ナガモリがブログをスタートした日だったわけで、
何か因縁でもあったのでしょうか(^_^;)

町田孝雄君のご冥福を心からお祈りいたします。

●遺影
●出棺
●遺影の写真を見つめる孫のさきちゃん

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