2008年02月04日211号 ブログのススメ

私は会う人、会う人に「ブログを書こう!」…と言っています(^_^;)

私のブログ『ゆったりECOな保険ライフ』の中でも今書いているテーマは 保険募集人として長くやっていこうと思うなら、ちゃんと自分の名前や顔が判るようにして 自分の考えや”こだわり”をネット上で公開していこう… すなわち「ブログを書こう!」…と言っているのです。

なぜ?そんなことを云うか、と言えば… お金もかけずに誰でも簡単に出来て、とても有意義だからです。

どのように有意義かといえば…これはもうたくさんあります。(^_^;) ①多くの方とブログを通して友人やお客さまになって頂ける。 ②ブログを定期的に書く事によって、自分の専門性を高めることが出来る。 ③自分自身のアーカイブスとして資料や記録が蓄積されていく。 まだまだありますが、あまりムズカシクなるとナンですので ①の例としてごく最近にあったお話をしたいと思います。

発端は今から1年半ほど前、Oさんという方から私にメールが入りました。 保険の相談かな?と思って読んで見ると、保険ではなく”意外な相談”でした。 それはヒロコが高校時代を過ごしたフィリピンのバギオにあるブレント高校についての相談でした。 ネットの検索で【バギオ ブレント高校】と検索したら、 この週間KEN第13号『ブレント高校』が出てきたようで、 私から親としてのナマの情報を知りたかったようです。

ヒロコがフィリピンのバギオに留学したのが1997年から3年間。 私が週間KENにバギオの事を書いたのは2004年4月。 Oさんからメールを頂だいたのは2006年10月頃だったと思います。 その時は私の意見も述べた上で、ヒロコのホーム・ページをリンクして ヒロコ自身にも詳しい情報を提供するようにバトン・タッチをしておきました。 それから1年半ほど経った先日、0さんから私とヒロコ宛にメールが入りました。 ブログやホームページの良いところは、こちらが忘れた古い記録でも 必要と思う人は、じっくりとマイ・ペースで利用することが出来ることです。

あれから2回バギオに行って下調べをしてきたのだが、子供本人も気に入っており 是非、留学させたいとの気持ちが強くなったので、ヒロコに力になって頂けないか… 出来れば費用を出すからヒロコに一緒に行ってもらえないかというものです。

その前に一度、直接お会いしなければ、ということで0さんがお住まいの 春日部市(埼玉県)まで、家族3人で出かけることにしました。 春日部市は毎月YUKIと一緒に出かけている法人のお得意様の幸手市の手前で 軽い気持ちで出かけたのですが、Oさんはヒロコだけが訪問するかと思っていたようで 家族3人が遠方から押し掛けてきてビックリされるやら恐縮されるやらで、 こちらが恐縮してしまいました。(^_^;) ネットが取り持つ縁は”保険”以外でも、いろいろあって実に楽しい限りです。

そんな中で私の大学時代の親友のナガモリが中米のホンジュラスから一時帰国。 彼は昨年3月から2年間のJICAのシニア・ボランティアで、 彼の夢だったラテン・アメリカでホンジュラスの観光局に勤務しながら一人暮らしをして いるわけですが、私は「絶対にブログを書け!」と言っていたのです。 しかしバタバタとホンジュラスに行ってしまい、 ブログなんて縁のない定年男が海外の馴れない生活に追われ、 「何を書いたら?」…というのですが そのような事を、そのまま書くだけでもブログに書は面白いのです(^_^;) でも、もったいない事に1年が経過し健康診断の為の一時帰国で残り1年になったのです。

旅行代理店として定年まで働き、自分の夢を叶えるため中米でホンジュラスの観光局で 日本人にもっとホンジュラスを知ってもらおうというボランティアをやっていて ブログを書かない手はないと、ナガモリの家に押し掛け、私が力説してやっと 彼もやっとその気になったようです。(^_^;)

バギオについて一回だけ書いたのに、このような縁が生まれるのです。 ホンジュラスで検索してナガモリのブログに辿りつく人は、 これから書いたとしても、そこそこはあるはずです。 また帰国してからも書き続けることです。 そこから彼のこれからの人生において有意義な出会いが必ずあるはずです。

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2004年4月18日013号 ブレント高校

可哀想にヒロコはバギオのホテルに到着するや、極度の下痢と高熱で寝込んでしまったのです。 翌日は少し回復、バギオのインターナショナル校・ブレント高校への入学手続きと入寮です。 ブレント高校は広い敷地に校舎や寮がコテッジのようにたたずみ、とても閑静で素敵なところです。 校長先生からじきじきに私たちこんな事をいわれました。 「娘さんとしばらくのお別れになるのだから今夜はお二人をディナーに招待したい」 私たち夫婦は正装して、はりきって学校に再び出かけたのですが…。 何の事はない、学生食堂で生徒と共に食事をするだけだったのです。 料理はピザにフライド・ポテトぐらいで、それを食べ盛りの学生がワッと取りにいくものですからアッというまに無くなってしまうのです。 もちろんワインやビールがあるわけでもなく、テーブルの前にデザートとして転がってるバナナを食べるしかありません。 しかし、そのバナナの美味しいこと、さすがフィリピンと涙がでるほどでありました。 ディナーと聞いてはりきちゃいましたけど…Dinnerって英語でたんに晩飯の事ですもんね。 そしてヒロコとしばしの別れです。 ヒロコに手をふられブレント高校を後にする時、真っ暗に暮れたキャンパスの…満天の空に流れる天の川が今でも忘れられない光景となっています。 フィリピンの食事にヒロコはなかなか馴染めなかったようです。 唯一、美味しく食べられるのが校内の売店で売っているシナモン・パン1個3ペソ(12円)が命の綱だったようです。 (それが しばらくヒロコの貨幣基準となり日本に戻った時全てがとんでもなく高いと怒 りまくっていました。) 日本から即席の味噌汁やラーメンもたくさん送りました。 でも、それはつかの間でした…若さです、すぐに慣れて順応してしまうのです。 3年後、卒業式に我々が再びバギオに訪れたときは、あっちのレストラン、こっとのレストランと連れまわし これは美味しいでしょ!最高でしょ!と言うのですが…私には?でしかありません。 そして、今でも「バギオの○○が食べたい!」と遠吠えをしているのです。 <h1>バギオの3年間はヒロコにとって青春の真っ只中で最高に楽しかったようです。 お金が無くて、しょうがなく行かした所でしたが、今となって見ると、それも良かった気がします。 フィリピン人をはじめ韓国・台湾の学生も多く、色々な視点で世界を見る事が出来たようです。 バギオは太平洋戦争で多くの日本兵がいたところでもあるのです。 日本語で書かれた石碑が郊外にあり、そこに学校の仲間と訪れたとき「ヒロコ、何て書いてあるの?』と と皆に言われ、難しい漢字を必死で読みながら英語で訳しているのを、みんなニコニコして聞いてたそうです。 ヘンだなと思って石碑の裏側を見ると英訳が書いてあり、皆はそれを見ながらヒロコの解説を聞いていたというわけです。 太平洋戦争や天皇・日本文化まで、いろいろな事を聞かれるので…日本の高校生以上に日本の事を勉強しなければならなかったようです。