2008年03月10日216号 そもそも…

最近 「そもそも○○って何だろう?」という考えをするようになって YUKIと議論にいたることがよくあります。

そもそも人生って何だろう? という哲学的なものから そもそも結婚って何だろう? という夫婦で語り合うにはキケンなものまで(^_^;) いろいろハナシはつきません。

ま~私はどちらかと云うと若い時からノーテンキに あまり物ごとを突き詰めたり悩むこともなくハッピー・ハッピーに生きてきたので、 あおの反動かな?と思ったのですがそうでは無いそうでえす。

人間の性格というものは変るものではなく 私のノーテンキでハッピーでズボラな性格は一生涯変らないと YUKIから言われてしまいました(^_^;)

じゃー何が変ったかといえば 世間の方が、とても窮屈で閉鎖的でハッピーで無くなっているように 思えるのです。。

テレビでは昭和の時代を懐かしむ番組が増え 「あの時代はよかった!」などと夜の新橋でサラリーマンが叫びます。 終戦直後の平和が戻り露店の賑わいの映像は 明るい「りんごの歌」をバックに希望に満ちた生き生きとした印象で伝えられます。

しかし今は”あの時代”よりずっと豊かになっているはずです。 今でも発展途上の国々では戦後の露店のような所が残っていますが そこで走り回る子供たちや人々は明るく生き生きとしているようです。 そんな国から日本を見たら、とても裕福で夢の国のように思われるのではないでしょうか?

そのような国から家族を置いて日本で不法就労までして出稼ぎに来る人達も少なくありません。 この国は…格差やワーキングプア、年金問題…などなどでが先行きの見えない不安で 暗雲が立ち込めているそうです。 だからといって日本を脱出して海外に出稼ぎに行こうといういう人はほとんどいません。 どうしてなのでしょうか? やっぱり日本は世界の国から見たら豊な国なのではないでしょうか?

ただ問題があるとしたら 世界に先駆けて少子高齢化社会に突入するという事です。 でも、それは遅かれ早かれ何時かは世界中の国々が直面しなければならない事なのだから そのモデル・ケースになるような国にすれば良いとノーテンキな私は思うのです。 しかし、どうやら国も企業もそんな悠長な事は言ってられないようなのです。 国は毎年GDPすなわち消費を拡大していかなければならいそうです 企業は資本主義経済の中では常の右肩上がりの利潤追求が求められます。

ようするに留まってはいけないようです。 でも少子高齢化していく社会に成長拡大が本当に可能なのでしょうか? だったら国を解放して外国人の移民を受け入れたら良いと思うのですがこれも出来ないようです。 国は閉鎖されたまま高齢化していく中で、はてしない経済成長が求めるための カンフル剤を打たれを続けていたら「先行きが見えない!」と暗くなる気持ちもわかります(^_^;)

したがって、国も企業も年金も当てにせずに自由に生きたって、 発展途上の貧しい国々から見たら”天国”のような国なのだから…と思うのですが(^_^;) エラソウな事を書いている私でも、発展途上国の人々と同じ生活をするには よほどの覚悟が必要で、 結局は便利な近代社会にどっぷりと使って地球環境を破壊しているようです。

そもそも人間ってなんだろう?…とノーテンキに考える今日この頃の私です(^_^;)

※ブログでも保険を取り巻く「そもそも…」を考察しています(^_^;)

2008年03月03日215号 複雑すぎる商品!

2年前に購入したDVDレコーダーが故障しました。 購入した近くのヤマダ電機に持っていくと、 「修理は1ヶ月ほどのお預かりになるかもしれません。 お預かりの場合は修理する、しないに関わらず2500円を頂きます。 修理代は判りしだい電話でお知らせしますが15000円~30000円ほど係るかもしれませんが、 よろしいでしょうか?」…

2年前に購入したのが39,800円です。 修理代に30,000円もかかったのでは買った方が安いような気がしましたが 宮崎の義母に使い慣れたDVDをあげればいいからとのYUKIの提案でそれは修理に出して 新しいのを売り場で見てみようと言う事になりました。

パソコンやデジカメ、ビデオカメラ、そしてDVDレコーダーなんてものは 生鮮食品のように時が経過すれば値崩れをしていくもので 今なら2年前と同じぐらいの予算があれば、かなり優れたDVDレコーダーが買えると思ったのです。

しかしDVDレコーダーの売り場に行くと 私のイメージしたDVDレコーダーは一台も無いのです。 あるのは二十万円近くもするブルーレイ・デスク・レコーダーとかハイビジョン対応で どんなに安くても7万円以下の商品は置いてないのです。 店員に聞いてみると、私が持っているのは2011年7月からは使えなくなる アナログ・タイプのDVDレコーダーで、今はもう売られていないというのです。

したがってデジタルとアナログではどう違うのかは、説明を聞いてもよく判りませんが 何しろ最低でも7万円はするというのです。

その唯一7万円という安値?をつけているメイカーは”東芝”なのです。 たしか”東芝”はこれまで推し進めてきた新しいDVDの開発を止めて”なんやら”という 報道を見た気かするのです、その”なんやら”は判らないのですが(^_^;) どうやら、この機種はそれに違いないのです。

店員にその事を聞くと、ちょっとイヤな顔をして、そうだと認めました。 「だったらもっと安くできないか?」と私は詰め寄ったのですが 「だから、これだけ安くなっているのだ!」とゆずりません。

ま~、私としたら、その新しい”なんやら”はどうでもよいことで 今までのように番組が録画出来て、今よりちょっと便利になって、 録画容量のハード・ディスクが増えていれば文句はないわけなのですが、 そのわりには高すぎるという事です。

今使っているのDVDレコーダーのハード・ディスクが160ギガです。 初めはこれだけあれば充分と思っていたのですが、 録画番組をハード・ディスクにある程度ためておいて6時間分まで貯まったら 1枚のDVDにまとめるという作業をYUKIにバカにされながらやっています。(^_^;) すなわち長期間、たくさんの番組を保存するのでハード・ディスクが もう少し欲しいと思っていたのですが… その7万円の商品は300ギガあるのです。

ところが、その横を見ると、あと1万円ちょっと払うと600ギガになって なんやら他の機能もついているようなのです(^_^;) YUKIの顔色を恐る恐る見ながらも結局、 8万円近い東芝のDVDレコーダーを買ってしまったのです。

これで、今晩の録画を諦めていた番組もギリギリ録画出来ると 喜んで持ち帰ったDVDですが、これがもうほんとうに何が何だかさっぱり判らないのです。

私は年齢のわりにはパソコンやデジカメといった電子機器を使いこなしています。 DVDレコーダーだって、この2年間毎日のように使って YUKIから「壊れて当然」と言われるほど使いコナシテきたのです。 したがって、今晩の番組をとりあえず録画しておくぐらいは簡単に出来ると思っていたのです。

ところが録画どころのハナシで無いのです、 分厚いマニュアルは4冊もあって、やたら詳しく書かれているのですが 単純に録画したいという私のニーズを満たしてくれないのです。

数日後にはやっと録画だけは出来るようになったのですが 私の次の目的は一般的DVDディスクに6時間モードで録画をしたいのに セット出来るのは2時間モードか4時間モードしかないのです。

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2008年02月25日214号 追悼・町田孝雄

町田孝雄が亡くなりました。 61歳でした。 私と同年齢、彼もまた拓殖大学ラテン・アメリカ研究会の仲間でした。

週間KENを書き出して丸4年、拓殖大学ラテン・アメリカ研究会はココ数週に限らず 何度か題材にしてきましたが、町田が登場するのは初めてです。

私はありがたい事に保険代理店という仕事をしていますので 昔の仕事仲間や同級生から親戚まで多くの知人と会うチャンスがあります。 同業者の中には絶対に知人や親戚はお客様にしない! なんてポリシーを持っている人も少なくないのですが私には良く判りません。

扱っている保険商品が悪い物だったり、押し売りをするならともかく 向こうから入ってくれるというものを断る理由は無いと思うのです。 懇意な保険屋が居る事はマイナスでは無いはずです(^_^;)

てな事もあってナンやカヤと私はロコハウスの契約者に限らず、 いろいろな昔の仲間の消息に関しては必然的に情報通になってしまうのです。

町田の健康状態が悪い事は 11月に香港ツアーに参加した時も、 2週間前の「セニョール・ナガモリを囲む会」でも私から報告していました。 私以外の仲間はもう10年は町田と会っていませんでした。 でも、町田はこの【週間KEN】や私との直接な会話を通して 仲間の消息はあるていど掴んでいたのです。

町田は拓大卒業後、中堅の商社の辣腕営業マンとして活躍していたのですが 45歳の時に心筋梗塞で倒れ、しばらく生死の境をさ迷い命は取り留めたものの ニトログリセリンをひと時も離せない身障者になってしまったのです。 会社もこれまでの貢献もあってしばらくは面倒を見たようですが数年で解雇され、 マンションも売り払い都営住宅で妻と2人の子供を抱え苦しい生活を強いられました。

10年ほど前に仲間が会ったというOB会は、マサにその頃の町田で 私も十数年ぶりの対面だったのですが、 サンタクロースのようにマッ白く大きく伸びた髪とヒゲが皆にインパクトを与え それにしては元気100倍で明るい町田が誰の目にも残っていたのです。

多くの仲間がそれから町田に会うことは無かったのですが… 私はそれから町田との交友は続き、 特に最後の1年ほどは頻繁に会う事になるのです。

身障者となって生活苦の中にある町田でしたが… 元気100倍で明るい町田は亡くなる数ヶ月前まで変りませんでした。

実が昨年の春頃に町田からこんな電話がありました。 「いやーまいちゃったよ、いつもの病院で検査したらガンがみつかちゃってサ、 肺がんがステージ4でリンパが3で、骨が○で、ていうんだよ、 ボクは糖尿病もやってるから、三大疾病の三冠王だよ、ワハハハ…」と 豪快に笑いながら私に言うのです。

町田と頻繁に会うようになったのは彼の病気とはまったく関係なく 長男が運転する車の事故を廻って相手の保険会社とトラブルになっていて その相談に乗っていたからです。

9月の初めや10月の終りの一時退院をした時に 打ち合わせする町田の家の近くのガストでの写真ですが、 「オイお前、ホントにがんなのかよ?」と、 こちらから疑いの質問をしたくなるほど、いつもと変らぬ元気よさなのです。

その時に彼が言った言葉が今でも印象に残っています。 「オレは15年前、心筋梗塞で倒れて蘇生してからは、おまけの人生だと思って いつ死んでも悔いのないように生きているのさ、だからガンと宣言されても 何とも思ってないんだ、食欲もあるし普通なんだよね」…と、

そして「南米のイグアスの瀧だけは1度見ておきたいと思っているんだけどネ」 と言ったいたのが、それからず~と気になっていて今でも頭から離れないのです。

今月になってから容態が急変し、町田からの最後の電話となったのも 大した用件でも無いのに自分のケータイから苦しそうにしゃべろうとするので こちらから電話を切るようにしたぐらいです。

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2008年02月18日213号 親友のブログを完成!

親友の永森のブログが完成しました! 題して【セニョール・ナガモリの中米ホンジュラス便り】です。 プロデュースしたのは私で、もちろんヒロコの力を借りました。

最初は【永森克己のホンジュラス便り】というブログのタイトルにしていたのですが 永森がホンジュラスがどこにあるか知らない人が多いので 中米という文字を入れてくれとの要求がありました。

タイトルの前に永森克己の名前と本人の写真もしっかり出す… というのは私の初めからのポリシーで、 本人は初めは少々抵抗があったようですが納得させました。 私はインターネットやブログは出来る限り”顔”を見せて発言し、 コメント欄もオープンにして”双方向性”を保つことが必要だと思っています。 それによって信頼も得られ 有意義で面白いブログが出来上がっていくというものです。

まして若い女の子ならともかく還暦を過ぎたオヤジが”顔”を出したからと言って 何を心配するのでしょう(^_^;) 永森の写真は先週の『セニュール・ナガモリを囲む会』での2次回で さり気なく私のデジカメで10枚ほど連続撮影し、その中から1枚を選びました。 永森克己のフルネームと写真が入った試作中のブログを眺めていたのですが… 何だかちょっと硬い感じがします。 写真もソフトな感じの微笑んでいるものを選らんだのですが、 まー本人が、どちらかと言えば私と違って”堅物”なところはあるで、 (私が柔らか過ぎるのかもしれませんが^_^;) もう少し遊びの部分が欲しいような気がしたのです。

その時に閃いたのが ”セニョール・ナガモリ”です!(^_^;) 自分から絶対タイトルの前に永森克己の本名を入れるから…と言っておいて何ですが、 これは中々ナイスです。 ちょっと怪しげな感じもしないではないですが、 永森の写真とプロフィール(私が書きました)もしかり掲載されているし ちょうど良いノリで、コレで行こうと勝手に決めてしまいました。

一応、永森に確認の電話をいれると… ホンジュラスの観光庁では年配者として敬意を込めて ”ドン・ナガモリ”と呼ばれているようですが、”ドン・ガバチョ”か ○○のドンとか、金丸みたいだし…と 少々本人はテレていましたがOKを取ることが出来ました。

ブログのデザインはヒロコに任せたのですが ホンジュラスの国旗を取り入れて、キレイなものを作ってくれました。

そして13日(水) 永森の横浜の自宅にパソコンを持っての2度目の訪問です。 永森にブログの書き方や写真の取り込み方、 など具体的にレクチャーしなければならないからです。

そして15日(金) 記念すべきブログ第一号が永森から配信されました! と言っても見たのは多分、私ひとりでしょう。 まだ誰にもブログのアドレスすら知らせていないのですから(^_^;) テストを兼ねたスタートで、私も自宅でパソコンをあけて訂正を加えたり、コメントを書いたり、 我ながらイヤ永森ながらの好スタートです。

16日(土)17日(日)と… 少しづつ書き出したようで、YUKIもけっこう楽しみに読んでいるようです。 まだ、ラテン・アメリカ研究会の仲間にはブログ開設の案内を出していないようですが 私がココで紹介したら何人かは見てくれるでしょうし、 徐々に反応も出てくることでしょう。

18日(月) 永森は約1ヶ月の健康診断の為の一時帰国を終え来年3月までの ホンジュラスでのボランテァ活動に戻ります。 […]

2008年02月11日212号 セニョール・ナガモリ

10日の日曜日『セニョール・ナガモリを囲む会』に YUKIとヒロコの3人で出かけました。

『セニョール・ナガモリ』と言ってもラテン系の人ではありません(^_^;) ラテン系の人ではありませんが… またまた今回も登場させて頂きました、拓殖大学ラテン・アメリカ研究会で私と同期の人です。 昨年11月の香港も拓殖大学ラテン・アメリカ研究会OB会での旅行でした。

拓殖大学ラテンアメリカ研究会がどんな研究会だったかは いつか詳しく書きます…なんて以前に言ったまま今だ詳しく書かないままですが この週間KENには良く登場させて頂だいています。

なぜ?よく登場するのかといえば 大学を卒業して40年近くなるのですが、みんな仲が良く家族ぐるみの付き合いが続いているからです。

拓殖大学は1900年創設以来、海外雄飛が伝統の大学で 校歌の「人種の色と地の境我が立つ前に差別なし」は私も大好きな歌詞です。 一流大学出身の多くは海外で活躍するといっても、 数年間の限られた期間滞在しいわば空中戦のような海外活動をするのに対して 拓大は現地で生活し自ら生計をたて、そこで家族をつくったりする者も少なくないのです。

そういった伝統の中で色々な国々や地域のクラブがあって その中のひとつとして『ラテン・アメリカ研究会』があったというわけです。 今は拓大に外国学部が出来てスペイン語学科がありますが、 当時は第二外国語としてのスペイン語しかなかったのですが、 スペイン語の習得もクラブの目的のひとつでした。 私が大学三年生の時にはスペイン語の語劇祭で『オジャンタイ』という芝居の 主役をやり『角倉がやったらオジャンタイ』なんて冷やかされたものです。

まー私のスペイン語の実力は昨年の我が家でのスペイン旅行で、すっかり化けの皮が剥げてしまい ますます肩身の狭い家庭生活を送っている私ですが(^_^;) ナガモリは私とは正反対のスペイン語の虫のような奴で 『ラテン・アメリカ研究会』の生温いスペイン語では物足りず、 自分で『スペイン語愛好会』を作ったほどの勉強家だったのです。

卒業後、旅行代理店の仕事の付くのですが、スペイン語を専門的に使うこともなく 一昨年11月に定年を迎えたのですが、 どうしてもスペイン語を生かした活動をしたいとの思いから 昨年3月からJICAのシニア海外ボランティアとして中米ホンジュラスの観光庁に2年間の 勤務についたのですが、1年経過の健康診断のため約一ヶ月の一時帰国中なのです。

この事は前回の週間KENで、ナガモリのブログを作るという話で少々触れましたが… せっかくナガモリが帰国中というのなら、同期の仲間が集まろうという事で ナビオス横浜で昼食を食べることにしたというわけです。

どうしてセニョール・ナガモリを囲む会になったのかは幹事に聞きそびれましたが 同期の仲間というのは、普段はいつもヨビステで呼んでいますから メールを書く時などでも名前に”様”をつけるのはなんだか抵抗があり… だからと言って”ヨビステ”で書くのも、どうかな…と、けっこう悩むのです。 したっがて、セニョール・ナガモリはピッタリのように思えたのですが ロビーでお客様が「セニョール・ナガモリって何かしら?」って注目を浴びていました(^_^;)

今回集まったのはナガモリを含めて7人の同期生とその妻で14名とプラスヒロコの15名! 食事は本格的なコース料理で堪能 食後はベイ・ブリッジが一望出きるラウンジへ          スナップ1  スナップ2 ヒロコは途中で所要のために中座しましたが みんな大いに話が弾んで アッというまに時間が経過してしまいました。 ナガモリのブログ用の写真も密かに撮ったのですが気に言ってくれるか、 今週中にまたナガモリに会ってブログの伝授をしなければなりません。

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2008年02月04日211号 ブログのススメ

私は会う人、会う人に「ブログを書こう!」…と言っています(^_^;)

私のブログ『ゆったりECOな保険ライフ』の中でも今書いているテーマは 保険募集人として長くやっていこうと思うなら、ちゃんと自分の名前や顔が判るようにして 自分の考えや”こだわり”をネット上で公開していこう… すなわち「ブログを書こう!」…と言っているのです。

なぜ?そんなことを云うか、と言えば… お金もかけずに誰でも簡単に出来て、とても有意義だからです。

どのように有意義かといえば…これはもうたくさんあります。(^_^;) ①多くの方とブログを通して友人やお客さまになって頂ける。 ②ブログを定期的に書く事によって、自分の専門性を高めることが出来る。 ③自分自身のアーカイブスとして資料や記録が蓄積されていく。 まだまだありますが、あまりムズカシクなるとナンですので ①の例としてごく最近にあったお話をしたいと思います。

発端は今から1年半ほど前、Oさんという方から私にメールが入りました。 保険の相談かな?と思って読んで見ると、保険ではなく”意外な相談”でした。 それはヒロコが高校時代を過ごしたフィリピンのバギオにあるブレント高校についての相談でした。 ネットの検索で【バギオ ブレント高校】と検索したら、 この週間KEN第13号『ブレント高校』が出てきたようで、 私から親としてのナマの情報を知りたかったようです。

ヒロコがフィリピンのバギオに留学したのが1997年から3年間。 私が週間KENにバギオの事を書いたのは2004年4月。 Oさんからメールを頂だいたのは2006年10月頃だったと思います。 その時は私の意見も述べた上で、ヒロコのホーム・ページをリンクして ヒロコ自身にも詳しい情報を提供するようにバトン・タッチをしておきました。 それから1年半ほど経った先日、0さんから私とヒロコ宛にメールが入りました。 ブログやホームページの良いところは、こちらが忘れた古い記録でも 必要と思う人は、じっくりとマイ・ペースで利用することが出来ることです。

あれから2回バギオに行って下調べをしてきたのだが、子供本人も気に入っており 是非、留学させたいとの気持ちが強くなったので、ヒロコに力になって頂けないか… 出来れば費用を出すからヒロコに一緒に行ってもらえないかというものです。

その前に一度、直接お会いしなければ、ということで0さんがお住まいの 春日部市(埼玉県)まで、家族3人で出かけることにしました。 春日部市は毎月YUKIと一緒に出かけている法人のお得意様の幸手市の手前で 軽い気持ちで出かけたのですが、Oさんはヒロコだけが訪問するかと思っていたようで 家族3人が遠方から押し掛けてきてビックリされるやら恐縮されるやらで、 こちらが恐縮してしまいました。(^_^;) ネットが取り持つ縁は”保険”以外でも、いろいろあって実に楽しい限りです。

そんな中で私の大学時代の親友のナガモリが中米のホンジュラスから一時帰国。 彼は昨年3月から2年間のJICAのシニア・ボランティアで、 彼の夢だったラテン・アメリカでホンジュラスの観光局に勤務しながら一人暮らしをして いるわけですが、私は「絶対にブログを書け!」と言っていたのです。 しかしバタバタとホンジュラスに行ってしまい、 ブログなんて縁のない定年男が海外の馴れない生活に追われ、 「何を書いたら?」…というのですが そのような事を、そのまま書くだけでもブログに書は面白いのです(^_^;) でも、もったいない事に1年が経過し健康診断の為の一時帰国で残り1年になったのです。

旅行代理店として定年まで働き、自分の夢を叶えるため中米でホンジュラスの観光局で 日本人にもっとホンジュラスを知ってもらおうというボランティアをやっていて ブログを書かない手はないと、ナガモリの家に押し掛け、私が力説してやっと 彼もやっとその気になったようです。(^_^;)

バギオについて一回だけ書いたのに、このような縁が生まれるのです。 ホンジュラスで検索してナガモリのブログに辿りつく人は、 これから書いたとしても、そこそこはあるはずです。 また帰国してからも書き続けることです。 そこから彼のこれからの人生において有意義な出会いが必ずあるはずです。

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2008年01月28日210号 母のこと

この週間KENにあまり登場することがなかった 私の母について書きたいと思います。

なにも隠していたわけではないのですが、書くチャンスがなっかたのです。 現在85歳で健在ですが… 4年半ほど前の夏の暑い日、突然目が見えなくなってしまいました。 それまでに痴呆が始まっていて、私の妹の家に同居していたのですが 昼間で明るいのに「暗くて何も見えないから電気をつけて」というのです。 結局、原因がよく判らないまま、その日から全盲になったのです。

でも幸い…と言おうか痴呆があるため”何かが見えている”ようで 自分が全盲になった事を認識しないでいるのです。 時々「暗くて見えない」というぐらいで本人はいたって陽気なのです。(^_^;)

まーこの”陽気さ”は角倉家の伝統のようで”救い”ではありますが…。 全盲になってから4年半、その前から入れると7年近く、 妹のユミコのマンションに母を預けぱなしにしている長男の私としては、ちょっと肩身が狭いのです。 ま~妹のユミコも角倉家の伝統を次いで陽気な方で、私としてもツイツイ頼ってしまうのです。

私より7歳下の妹ですがヒロコはそのユミコおばちゃんのことを ず~と私のお姉さんだと思っていたほど、私が云うのもなんですがシッカリしているのです。 あまりにもシッカリしていて「私なんかイモウト・コントロールで動いている」なんて冗談を言うほどです(^_^;) でも妹にも夫がいます、その夫すなわち義弟もとても陽気でとても良い人ですが、 全盲で痴呆の母と7年間も同居して貰っているのは…私としては大いに肩身が狭いのです。 2歳年下で大手商社に勤める義弟も今年60歳になります。

母はとても全盲で痴呆で要介護5の認定を受けていますが、 とても元気で陽気で食欲もあって、まだまだ長生きしそうです。

そこで26日の土曜日、私の家からクルマで15分ほどの介護施設にしばらく 母を預ける事にしたのです。 ユミコの次女が2人目の子供の出産を控えて、しばらく福島に行かなければならない事もあって 近くの介護施設なら私やYUKIも定期的に母を看に行くことが出来るからです。

母は痴呆もありますが、あるていどの状況判断も出来るようで油断はなりません。 でも陽気で楽天的に解釈する習性は変らないのが救いです。 ユミコの家の近くの介護施設でのシュート・ステイでも誰からも親しまれたようです。

当日、私とYUKIと妹のユミコそして土曜日で休日仕だったユミコの長女ユリコの4人が 付き添って、横浜市青葉区の介護施設に向かいました。

クルマの中でも、施設の手続き中も母は私たちをおおいに笑わせてくれます。 極めつけは、母にちょっと面接?をしたヘルパーとの会話です。

ヘルパー「角倉さん、お歳はお幾つですか?」 母    「……まー失礼ね、女性に歳を聞くなんて、あなたはお幾つなの?」 ヘルパー「エッ私の歳ですか、37歳です!」 母    「あら、それなら私の方が年上ね」

もう全員爆笑で終りました。(^_^;)

食事もなかなか豪華で、美味しそうに食べたようです。 ロイターに勤務しカメラマンでもあるユリコは大好きなおばあちゃんを撮り続けています。

これからはチョクチョク、私も母を看に行かねばなりませんが… それもまた楽しみでもあります。

2008年01月22日209号 公私混同をモットーに!

もう数ヶ月ほど前の話になりますが… いつものようにYUKIとテーブルをはさんでお互いパソコンに向かっている時に 「コピーライターの糸井重里がKENと同じような事を書いている…」と その箇所をYUKIは声を出して読んでくれました。 たしかに私と同じ視点で書いていて興味があったので、 どんなサイトにその記事が書かれているのかとYUKIのパソコン画面を覗きました。

そこで目に入ったのは【「公私混同」原論】と言うタイトルでした。 いやーこのタイトルにシビレました。(^_^;) さすが日本を代表するコピーライターです。 ちょうどその頃、防衛省の元政務次官の守屋氏が接待ゴルフで 公私混同でトンデモナイなんていうニュースが流れていました。 いづれにしても…公私混同なんてトンデモナイに決まっているのです。

しかし、そのサイトで糸井重里は公私混同をトンデモナイと言っているのではなく 公私混同はステキなコトだと言っているのは直感的に判りました。 それにしても、大胆で判りやすいタイトルには脱帽です。

公私混同で生きる事が、これからの時代は理想であって このライフスタイルに自信とプライドを持って生き抜こう! なんて事を自分なりには考えてはいたのですが… それを表現するのに私は「保険代理店を生涯の生業(なりわい)とし生活を楽しみながら…」 などという、まどろこしい言い方をしてしまって 「公私混同で行きます!」…なんて、さすがの私でも云えなかったのです(^_^;)

私とほぼ同世代の糸井重里は、 私が生きてきた同時代を短いキャッチコピーで切り取って来た天才です。 YUKIが私に読んでくれたコラムも良く書かれていますが ま~私と同じようなことを書いているので感激するほどではありません。 ソウ!彼は作家じゃなくて最高のコピーライターである事を再認識したのです。(^_^;)

なにはともあれ!これからは胸を張って公私混同で行こうと思っています。 ま~胸を張らなくても、週間KENをご覧の方は充分に公私混同で生きている事は ご承知のことでしょうが。

さて、私が”公私混同”になぜこだわるか?という事ですが…

保険代理店を運営する上で大きく分けて2つの考えがあります。 ひとつは営業時間や休日をハッキリと決めて仕事中はしっかり仕事をして それ以外は仕事を引きずらないでプライベートな時間を大切にする、というもの。 もうひとつは、云うまでもなく(^_^;) 24時間365日、仕事もプライベートも関係なく過ごすというものです。

法人の大型代理店は前者で、 個人代理店は後者…が多いわけですが、 保険会社の戦略として小さな代理店を統合して大きな法人代理店に まとめていく方向にあるようです。 すなわち、私のような小さくて気ままな代理店は淘汰の対象になってしまうのです。 なぜ?保険会社が小さな代理店をマトメテ大きな代理店にするかといえば その方が効率的で管理しやすく、収益性も高くなると思っているのでしょう(多分)

でも、それはお客様や個々の募集人にとってはどうでしょう? フェース・トゥ・フェースは少しずつ遠のき、事務的な関係になっていくでしょう。 そして、サラリーマン化した代理店(募集人)はあるていどの年齢になったら 定年として辞めなくてはならない時が来るのです。

ようするに、お客様や代理店の立場では無く、 あくまで保険会社の論理で、そんな事で淘汰なんてされたく無い!との 思いがとても大きいのです。(^_^;)

だいたい企業は収益性を追求する事が使命ですから …その結果としてサブ・プライム問題がおきるのです。 大きな団体や企業は”顔”が見えにくい仕組を作って責任を逃れをするのは常套手段です。(^_^;)

てなわけで… 私は公私混同をモットーに 気負わず、あせらず、のんびりと持続性のある代理店経営をやって […]

2008年01月15日208号 【週間KEN】も【ブログ】も208号

【週間KEN】を毎週月曜日のペースを崩さずリチギに書き続けている事は先週ふれました。 その【週間KEN】が今回で208号になったのですが… 私が週3回、月・水・金と書いているブログ【ゆったりECOな保険ライフ】も 偶然にも、この月曜の号で208号になったのです。

「それで、どうした?」と聞かれたら、タダそれだけの事なのですが(^_^;) 【週間KEN】の第1号が2004年1月26日 【ブログ】の第1号が2006年9月26日と2年8ヶ月後にスタートしたのですが 1年と3ヶ月半ぐらいで追いつかれ、これからは【ブログ】が【週間KEN】を、どんどんと切り離していく事でしょう。

「それで、どうした?」と聞かれたら、タダそれだけの事なのですが(^_^;) 【週間KEN】は基本的にプライベートな話題を書いていきますのでネタが尽きることがありません。 どうしてもネタが無い時には時事ネタや映画や本の感想を書く事だって出来ます。 それより残念なのは同じ週に面白い出来事が重なった場合などに、どれかを捨てなければならない時です。 よーするにプライベートな事に関して週1回書く事は何でも無いのですが… 【ブログ】のテーマは”保険”に限定され、しかも週3回も書かなければならないのです。

「それで、どうした?」と聞かれたら、タダそれだけの事でなのですが…(^_^;) 週3回のペースだって私が勝手に決めたので、それを週1回にするなり月に1回にするなり ナンなら止めてしまっても、文句を言われるスジアイはないのです。(ヒラキなおってどうする) それだったら、プライベートな事を書くのは最初からブログにして、 保険関連のコラムは【週間KEN】のようにホームページの中で週1回書くようにしたら 良かったのかも知れませんが、4年前にブログは無かったのです。

「それで、どうした?」と聞かれたら、タダそれだけの事でなのですが…(^_^;) 【ブログ】の方も創刊以来、なかなか好評で今ではブログ・ランキング(保険分野)の ベスト10には常時ランキングされ、固定ファンも少しづつ増えてきて 私なりには手ごたえを感じてきて、ブログの性格上からも、 またランキングをあるていど維持するためにも週3回のペースは崩したくないのです。

「それで、どうした?」と聞かれたら、タダそれだけの事なのですが(^_^;) 【ブログ】もこの【週間KEN】同様に、私のライフ・ワークとして出来る限り書き続けて行きたいと 思っているのですが、ただただ週3回一方的に書き続けるのは大変なのです。 そこで時々は【ブログ】の方もご覧頂き、コメント欄に何でもよいからご意見なぞ頂ければ嬉しいのです。 そうしたら、そのご意見をネタにブログを書く事が出来るからです。 保険に関する”お題拝借”する事が出来れば、もう毎日でも書けるのです。(^_^;) なんせ、メールでの保険相談は日常的にやり続けているのですから。

208回もブログを書いて、しかもメール保険相談でも書き続けていると 自分からテーマを決めて、いろいろと書いているうちに、これは以前に書いたのでは?と ペンいやキーボードが止まってしまうことがよくあるのです。 その点、質問やコメントに関する意見なら、少々ダブってもOKです。 YUKIが呆れるほど、しゃべり出したら止まらない私ですが… 一旦、書き出すと、やはり止まらなくなる傾向もあるようです。 【週間KEN】も【ブログ】も208号は通過点で、これからも書き続けて行きたいと思っています。

「それで、どうした?」と聞かれたら、タダそれだけの事なのですが(^_^;)

2008年01月07日207号 早くも7日ですが…

あけましておめでとうございます!

今日から”仕事初め”という方も多いことかと思います。 したがって 「いまごろ新年の挨拶とは悠長なものだね」と言われちゃうかもしれませんが(^_^;) 週間KENは毎週月曜日発行という事になっておりまして 今年最初の週間KENが7日になってしまったというしだいです。

「何 もリチギに毎週キッチリ月曜日書かなくてもいいんじゃない?」 なんてよく言われるのですが、これは私の性格からでして、 と言っても… わたしはキッチリどころかとてもズボラな性格なもので パターン化しなければ怠けて続かなくなるからです(^_^;)

そんな私が… ブログでは保険業界がマニュアル化・パターン化には大反対の問題提議をし また日本の社会自体が、そのような流れにあることに義憤を持っているのですから複雑です(^_^;)

”効率性”より”多様性”を…と ハナシだすと又長くなりそうなので止めます(^_^;) まーようするに人間はそれぞれ”こだわり”を持って生きていけば… とハナシだすと難しくなりそうなのでコレも止めます(^_^;)

ナニが言いたいのかというと 週間KENは毎週月曜日発行に”こだわって、新年号には”こだわらない”ため この207号がたまたま今年最初の号になって、新年のご挨拶をさせて頂いたという… まーどーでも良いハナシなのです(^_^;)

毎年思う事ですが…正月はアッという間に過ぎてしまいます。 この歳になると、1年がアッという間に過ぎるわけでから 正月ぐらいアッという間に過ぎてしまってあたりまえなのかもしれません。

大晦日は毎年、ゼン君の家に”おせち料理”を食べに行くのが 我が家の慣わしになってしいます。 そのゼン君のママが昨年の春にガンで亡くなってしまいました。 ”おせち料理”を作るのはゼン君のパパなので、 彼を励ます意味でも、これからも大晦日には”おせち料理”を作る事は止めないで 我われに食べさすことを約束させました(^_^;)

大晦日当日”ゼン君ち”に伺う前に、いちおう向こうも準備があるだろうからと電話をいれました。 電話に出たのはゼン君の弟、エイ君です。 エイ君は北海道大学・数学課4年生で、とてもクール(に見える)で個性的青年です。 彼は「何時頃いらっしゃいますでしょうか?いちおう掃除をしておかなければなりませんので…」と いつものクールな口調です。 私はだいたいの時間を伝え「お父さんに代わっていただける?」と言ったら 「実は今日、父は東京女子医大に緊急入院を致しまして、 今日の料理は私が作るように父から言われていますので、ご心配なく…」

レストランの予約じゃないのです。(^_^;) 「ご心配なく」って…おせち料理を心配している事態ではありません。 ゼン君のパパがどうなっちゃったか大心配です!

ゼン君のパパが昔から透析治療をやっているのは私も知っています。 大晦日の朝、透析のために東京女子医大に行ったそうです。 そこでいつものように透析しようとしたら、それまで使っていた血管が度重なる透析のため 使えなくなっていて、新たなバイパスを通すための手術を正月にやってしまおう… という事ななったというのです。 ようするにエイ君に言わせれば”おせち料理”も”パパの入院”も「ご心配なく」ということらしいので 我が家の3人は大晦日午後8時に伺うことになりました。

インターフォンを押すと中から「お待ちしていました」との声。 食卓にはすでに出来立ての”おせち料理”からご飯までがお茶碗にツガレていて 料理も次々に運ばれて、ゼン君もビールを注いでくれます。(^_^;) こちらが食事をしていても 兄弟二人は奥のキッチンで何だか忙しそうに立ち回っているようで […]