2008年06月02日228号 田植えに行ってきました!

この土日(31日・1日)YUKIと田植えに行ってきました。 長野県の『蛍の宿を守る会』、宿は【なべくら高原・森の家】です。

ここに「田植えに行こう!」と言い出したのはもちろんYUKIです(^_^;) なぜここに行こうという事になったのかと言えば『阿弥陀堂だより』という映画です。 YUKIは日本映画をほとんど見ない人ですが、私がNHKのBSで録画したこの映画のDVDを たまたまクルマの中で見たことがきっかけです。 ゆったり流れる日本の美しい風景にすっかり魅せられてしまったのです。 YUKIはそれいらい、この映画の舞台となった撮影場所を突き止め そこでホタルも集まる有機農法の農園があることや いろいろと情報収集をしていて今回のイベントになったという次第です。

31日は朝から雨が降っていました。 11時半に現地集合で、我が家を朝6時30分に出発! 田植えなど初めての二人は、まともな準備もしないで飛び出しました。 本当は半ズボンの裸足でやろうと思っていたのですが100円でレンタルの長靴が あるというのでそれを借りて、雨をしのぐためにクルマに積んであったビニールのポンチョを着て こんなスタイルで田植えに挑戦することになりました。 ところが大変です(^_^;) というか当たり前の事なのかもしれませんが…足元がぬかるんでいるのです。 足を動かそうにも足がぬかるみに深くめりこんで、なかなか抜けないのです。 もう田植えどころではありません(^_^;) むりやり抜こうとして、ついに長靴が抜けてしまいました。 その時に私は田んぼの中で尻餅をついてしまい 長靴はあきらめて靴下のままやっていたら、靴下もぬかるみに消えていきました。 もうカメラなんて持っておられません、他の人の迷惑にならぬよう ドロだらけになって賢明に田植えをするしかありません。 温度も低く雨は降り続いていますが、汗びっしょりで雨もまったく気になりません。

無農薬の田んぼはオタマジャクシやミミズやいろいろな生き物がいて 子供たちはおうはしゃぎですが、そんな余裕もありません。 田植えが終わった時の姿です(^_^;) 足元のアップです。

このあと近くの温泉でひと風呂あびて 町のボランティアの人たちが作ってくれた山菜料理や地酒で大盛りあがり、 宿に戻ってからも毎回訪れるというIさんご夫妻や米研究の東大ゼミの青年たちと もうひと盛あがりして、森のコテッジでバンタンキューで寝てしまいました。

翌朝はうって変わっての良い天気。 昨晩のIご夫妻と屋外で軽い朝食を。 近くの畑まで出かけてアスパラ収穫。 ① ② ③ ④ チェックアウトの後、 ここにくるきっかけと映画『阿弥陀堂だより』のロケ地を探索。 ① ② ③ ④ ⑤ 横川のサービスエリアで峠の釜飯を買って我が家に帰りました。

7月には雑草取りとホタルを見に、 秋には稲刈りに そして来年は田植えにリベンジしたいと思っています(^_^;)

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2008年05月26日227号 小野瑛子健在なり!PART Ⅱ

この週間KENで【小野瑛子健在なり!】を書いたのが2005年の9月でした。 それから3年近く小野さんとお会いする事がありませんでした。

小野さんはお歳に似合わず(^_^;)ネットが大好きな人で、 ご自身のホームページを閉鎖された後も、ミクシーに私達仲間も引き込まれて(^_^;) お元気な様子を伺っていました。 ところが毎日のようにミクシーに書かかれていたのが 2006年8月17日財部誠一さんとの中国視察旅行の途中からパッタリ止まってしまったのです。 最初は大病をした後だし疲れが出たのだろう、 小野さんのことだから、そのうち書き出すだろうと思っていたのです。 しかし時間が経過するうちに心配になってきます。 小野さんの事務所に確認すれば判るのでしょうが聞くのも怖くなっていたのです。

ところが先日、私のパソコンにこんなメールが入っていました。 ミクシーはマイミク(ミクシー仲間)から新たなコメントが入るとメールで知らせるのですが、 ナント!小野さんがカキコミをしているのです!!

はぁ・・・ 最後の日記を書いたのが2006年8月17日。 今日は2008年4月29日。 中国レポートも1日目をアップしたっきり。 1年8ヶ月もの間、私は何をしていたのだろう? 仕事? あんまりやってない。

こんな出だしで始まっています。 小野さんのこれまでの経過やこれからの思いがギッシリと詰まって とても心が打たれる内容でココには書ききれませんが ようするに小野瑛子の長い眠りから覚めての復活宣言です!(^_^) そして、この瞬間からさすが小野さんです! 多くの仲間からコメントが寄せられ小野さんの復活を喜んだのです。

そして先日の22日金曜日、ひさびさに小野さんとお会いする事が出来ました。 まずは四谷3丁目のサイゼリアへ。 この日のメイン・イベントは小野さんのミクシー仲間トシ子さんのシャンソンが聞ける店での ひさびさのオフ会。 ここを希望したのはCONTAMIさん、ミクシーのプロフィールではガテン系の男性です。 たしかにパワフルではありますがスタイル抜群で3人の子持ちの美女です。 何がパワフルかと言えば4年ほど前に小野さんのオフ会でお会いした時も バギーに生まれて間もない長女のSちゃんと二人のお兄ちゃんの3人を引き連れて やってくる活動家です。 (ちなみに私もヒロコをつれてどこで行きましたが3人ですからね^_^;)

この日も夜のシャンソンには子供はムリなので、せめてその前に… というCONTAMIさんからの提案でした。 その長女のSちゃんも5歳になって、とてもオシャマで頭脳明晰(^_^;) 私の持っていたデジカメの操作もすぐに覚えて我われ3人をパッチリ! 動画の操作にも興味をもってこれも直ぐにマスター、 二人でこんな顔を撮っりあっていました。 私 Sちゃん(コワーイ)

CONTAMIさん親子とはお別れしてシャンソンのお店へ。 仙台で独立系FPとして活躍されている”べいぶさん”はご主人同伴で参加、 キラキラするような美人の奥様になられていました(^_^) そして今や【小野瑛子】の名は知らなくても【藤川太】なら知っている…というほどの 売れっ子になった小野さんの会社の社長も務める藤川さんと皆んなで乾杯です。 元週間ポストの記者で赤ちゃんが誕生したのを期にフリーライターとして独立、 赤ちゃんをお風呂に入れるのが日課の入江さんも少し遅れてやってきました(^_^;) そうそう我が妻のYUKIも参加して総勢8名。 ”べいぶさん”のご主人は保険業界とは関係のない有名酒造会社にお勤めの方で 初対面でしたが、あとはもうお馴染みの懐かしいメンバーです。

小さなお店で他のお客様が入ったら満席状態でトシ子さんの素晴らしい歌声を 間近で聞く事が出来てとても良いお店です。 お客様が歌う時間も用意されていて我われ団体さんから一人歌って欲しいとの要望で […]

2008年05月12日225号 ゼン君のお芝居

ゼン君のママがちょうど1年前に亡くなった事や… ゼン君のパパの事はココでも触れてきましたが… ゼン君自身の事にはあまり触れるチャンスがありませんでした。

ゼン君はヒロコと保育園時代6年間を一緒に過ごした同期ですから… ヒロコと同い年の26歳です。 したがってゼン君は立派な社会人なのですが どうしても私やYUKIからは保育園時代のゼン君の印象が強く いつまでも【ゼン君】なのです(^_^;)

保育園時代のゼン君の印象で強く残っているのは 学芸会で『金のガチョウ』のお芝居で”金のガチョウ”を演じたことです。 ちょっと余談になりますが…私も学生時代にスペイン語劇で 『オジャンタイ』というお芝居の”オジャンタイ”を演じました。 この時は一応、主演ということでしたが題名が主役とは限らない場合があります。 『金のガチョウ』は主役はキコリで”金のガチョウ”はセリフもほとんどありません。 しかし重要な役である事は変わりません。

私がその時に撮影したビデオが残っているのですが、 主役のキコリがオノで木を倒すと突然、残った木の下から 金のガチョウ役のゼン君が「ガー!」と羽をバタつかせ立ち上がるだけなのですが、 とてもインパクトがあって、みんな大笑いをさせました。

ちなみにヒロコはこのお芝居で、金のガチョウにくっついていく村人役の一人でした。 ヒロコは小学生ぐらいまでは、今ではとても考えられないほどシャイでオトナシイ子供で ヒロコの短いセリフに「ヒロコちゃん!聞こえないよ!」という野次がビデオに入っています。

そんなヒロコも今では”コワイモノ知らず”の無法者?ですから判らないものです(^_^;) そしてゼン君は何とプロの役者を目指しているのです。

9日の金曜日YUKIと二人で 乃木坂にある小さなライブハウスに出かけました。 出演者は面接官と3人の就職希望者の計4人が面接会場で入り乱れて 人間模様をくり広げそれぞれの内面を見つめ直すという力作です。

ゼン君の役は就職希望者の一人で現在フリーターの若者。 セリフの中に亡くなった母親を回想し 「母はヒマワリのように明るい人でした、弟が生まれると…」と ゼン君そのものを表現したところがあって思わず涙が出てきました。

シナリオは劇団を主宰者のお嬢さんで、ゼン君と同じく昨年11月に母親を亡くし 呆然としていたのだが劇団運営を熱心に応援していた母親が天国からハッパをかけられ(^_^;) 3月にシナリオを書き上げ急遽、公演にこぎつけたというもの。 3日間の連続公演の初日です。

小さな舞台を囲むお客様の数は満席で60名ほど、 ドリンク付きで3000円のチケットですから、全員が有料入場者としても18万円、 3日間満席でも総売上54万円です 入り口ではゼン君と違って秀才の誉れが高くイケメンでクールな弟エイ君(^_^;)が モギリのボランティアをしていました。

ゼン君はプロの役者を目指していても今はサラリーマン。 一時は役者の道をあきらめた時もあったようですが、ゼン君の両親はともかく 私は「あきらめるな!」と勝手言ってきました(^_^;)

正直言ってゼン君がプロとして食べていくのは、とても厳しいかもしれません。 4人の出演者の中でも演技力が上手いというところまでは行っていません。 でも10年ほど前に研修生で芝居漬けになっている頃よりはかなり上達しています。 なにより意外だったのはダンスの身体の動きがとても自然で上達しているのです。 それは普段から意識していなければ出来ないことです。 ゼン君の舞台挨拶にも熱いものを感じました。

何でも良いから好きな事は、たとえそれで食えなくても、やり続ける事だと思います。 一度しかない人生なのですから。 ゼン君は歳をとってから良い味が出せる役者になるような気がします。 多分。(^_^;)

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2008年05月04日224号 静かなGW

ゴールデン・ウィークです。 だからといって普段と変る事なくYUKIと向かい合って仕事?をしています(^_^;) もちろん『仕事?』と書いたように仕事だけをバリバリしているわけでなく (YUKIは私のバリバリ仕事をする姿を死ぬまでに一度は見てみたいと言っていますが) お互いにパソコンに向かって何やら、お互いにモクモクとやっているのです。 ようするにゴールデン・ウィークだからと言って、どこかへ出かける事が無いのが 我が家の伝統のようです。 それにしても普段の日とまったく変らないのはなぜだろう? と考えたら…その原因が判りました。 ヒロコが居ないのです。

1月からGW明けまでプチ家出をしているのです。 実は勤めていた会社を退職して母校の大学で一学期だけの臨時講師をしているのです。 もともとヒロコが就職していた会社は大学の先生の紹介で その先生がシリコンバレーに数ヶ月間行く事になり、その間の授業をヒロコが引き受る事になって 会社も退職を認めてくれたようです。 将来は大学で教えたいというヒロコの思いはその先生も知っていたとの事ですが 卒業して3年足らずのヒロコに大学の授業を託す先生も先生ですが… 会社を辞めてそれを簡単に引き受けちゃうヒロコもヒロコです(^_^;)

週に2回しかない授業ですが、まったく初めてそれも外人ばかりのクラスで教えるのですから それなりの準備も必要なわけで片手間では出来ない事は判ります。 授業内容はヒロコが実際に仕事でやってきたビデオなどの【映像編集】です。

そして何よりもヒロコが、その気になったのは… 先生がシリコンバレーに言って不在の期間、 先生の西麻布のマンションを自由に使うというヒロコの交渉に先生はOKしたからです。 もちろん家賃はいくらか払っているようですが 麻布十番の学校までも歩いていける距離だし、六本木ヒルズも歩いて10分ていどで 自炊のための食品類が高い事を除けば 最高のロケーションでシティライフを楽しんでいるようです。

一学期の授業も終了し7日には我が家に戻ってくるようですが ヒロコの授業はなぜか好評だったようであと2学期、教える事になったようです。 もちろん、これからは我が家から通うことになります。

したがって毎年6月に予定していた家族3人での海外旅行は ヒロコの授業があるため今年はとりやめる事にしました。 そのかわり11月に計画中です。 これもヒロコが行けるかどうか判らないようですが決行しようと思っています(^_^;)

そうそう、どこも行かないのもナンなので 来週、家族3人でクルマでのんびりと(いくかどうかは判りませんが) 一週間ほどかけてYUKIの故郷の宮崎まで行ってみようという 計画を立てています(^_^;)

2008年04月28日223号 エノちゃんの熱弁

東大和の洋菓子屋さん、茶屋エポックのエノちゃんの強い要請で先月、 計3日間のボランティアをした事は【220号】で書きました。

そのエノちゃんから電話がありました。 私が「どうしたの?」と聞くと… エノちゃんは「どうしたの?じゃないでしょ、昨日の会合なんで来なかったの?」 と怒っているのです。(^_^;) 私はそんな事をすっかり忘れていたのです。

たしかに公民館での最終日に次回の打ち合わせの日時を決めたのは覚えています。 しかし…そもそも東大和市の地域のコミニティの集まりです。 そこにゲストとして参加した気持ちでいましたから、 次回の集まりには参加しなければならないという責任感がなかったため すっかり忘れてしっまたようです。

それは、ともかくエノちゃんはまた困っているようです。 その私が無断欠勤?した会合で、なんとなく次回の会合が『だんご作り』に決まったというのです。 エノちゃんのファンで先月の2回目のイベントにも顔を出した東大和の名士のOさんが 『だんご作り』を提案したので、そうなっちゃったというのです。 それに対して同じく東大和の商工会の大御所で、やはりエノちゃんファンのMさんが 「なんで夜の7時からダイのオトナが集まって団子を作らなければなならないのか?」 とムクレテしまったというのです。 たしかに私だって川崎クンダリから東大和まで夜に出かけていって 団子を作らなければならないのかよく判りません(^_^;)

でもエノちゃんは… 自分の熱い思いをくみ取って少しでも協力してあげようという、 せっかくの町の実力者がこんな事で仲たがいしては…夜も眠れないというのです。

そこで24日の午後7時にエノちゃんの店にOさんとMさんを呼ぶことにしたから 私がそこで、いろいろとうまくマトメて欲しいというのです。 私も無断欠勤の責任もあるので断るわけにもいきません。

定刻を少し遅れてエノちゃんの店に着くとOさんとMさんは楽しそうに歓談しています。 そこで、4人が揃っていよいよ打ち合わせですが こうなるとエノちゃんは決まって熱弁を振るうのです。 そのエノちゃんの熱い思いは充分に理解している3人が集まっているのですから、 いまさら聞く事もないのですが…(^_^;)

問題はエノちゃん自身に具体的なビジョンがないまま『だんご作り』になったのが いけなかったようです。 公民館でのイベントに引き続き司会進行役を務めた芽門さんが、会の最後に 「それでは次回は何時、何をするか決めたいと思います!」との提議に Oさんは自分の事務所にまだ一度も使われたことのない”だんご作り”の道具があるので、 なんと無くそう言ってしまったら、決まっちゃったというのです。(^_^;)

誰もが善意でエノちゃんの情熱に押されて何となく参加しているので誰も責めることは出来ません。 しかし、あるていどのビジョンやコンセプトは明確にしておく必要はあるでしょう。

ただこのような活動が難しいのは あまり大きなスローガンやビジョンを掲げても支持されませんし エノちゃんの店が儲かるためだとか政治や宗教活動と思われてもつまりません。

ただ、このような気運が出てきた事もたしかです。 というより環境・食糧・教育・介護・高齢化社会・経済などなど、 21世紀に課せられた、あらゆる問題の鍵が地域の活性化にある事はまちがいないのです。

そのためには、ひとりひとりが、たとえ僅かでもコツコツと地元の物産や顔の見えるお店で 買い物するだけでも大きく変っていくはずです。

東大和市は人口8万人の小さな東京都の市ですが… エノちゃんのお店の一日平均の来店数は20名で店を維持するのにも四苦八苦しているのです。 年間客数は休日もあるので延べで約700名 その中には私のような市外からのお得意様(^_^;)も少なくないはずです。

この東大和市民8万人の1%の800人が年にたった一度だけ 新たにエノちゃんの店で買い物をするだけで倍以上の売上げが望める計算になるのです。

これ以上の売上げは多分エノちゃんは望んでいないでしょうし限界でしょう。 […]

2008年04月21日222号 なまけもの

毎日、毎日YUKIと向かいあって仕事?をしている私ですが… YUKIは私にたいして最近やたらに「なまけもの!」…と罵るのです(^_^;)

たしかに私は”はたらきもの”ではなかったと自分のコレまでの人生を振り返っても思います。 一生懸命やったことは沢山ありますが、それは仕事上であっても好きなこと事だったようです。 ようするに好きで無いことは基本的にやりたくないのです(^_^;)

ま~誰だって好きでない事はやりたくないに決まっています。 それをやるのが仕事だという考えもあるようですが、それがイヤなのです(^_^;) ま~ワガママと言われてしまえばそれまでですが、 イヤな事をムリヤリやっては自分はもとよりお客様に損失をかけるなんて思ってしまうのです。 ま~ヘリクツはともかくとして(^_^;) 結果的に私はこれまで”好きな事”を仕事にしてきたようです。 ヒロコの学費を稼ぐため1994年から2年間、朝3時に起きて新聞配達をしましたが 自分なりにはけっこう楽しいアルバイトでした。 保険の仕事も最初は馴染めませんでしたが、自分なりの営業スタイルを確立し 保険とインターネットという未知への挑戦も興味深く ライフワークとして楽しみにやっていこうと思っています。

それではなぜ?YUKIから「なまけもの!」と罵られるのかと言えば やりたく無い仕事というか事務処理が山ほど増えたからです。 それがどのようなものであるかは、書き出したら止まらなくなりですからカットします。

簡単に言ってしまえば、何でもかんでもマニュアル化され、 マニュアル通りにやる事が目的化されてしまったことです。 このような仕事ならロボットにでもやらせればよいと思われる仕事です。

お客様にはとうてい消化しきれないほどの確認書類が用意され、 その書類に少しでも不備があると、お客様の訂正確認や書類にハンコが漏れているとか、 やたら言ってくるのです。 もともとバカバカしいと思っているので、そのような書類が溜まっていき 保険会社から「あの書類のハンコはまだか?」 「あれはどうした?」「これはどうした?」…と電話が入ってくるとマスマス いやになって後回しにしてしまうのです。

そこでYUKIから「なまけもの!」と罵られるのですが(^_^;) だんだん私も”うつ病”や”ひきこもり”の人達の心理が判るようになってきました。

先日なにげなく見ていたテレビで驚いてしまった事があります。 サラリーマン風の背広を来た男が朝のラッシュアワーの中、 虎ノ門の地下鉄駅を出てオフィス・ビルに入っていきます。 エレベータを出たところのオフィスのドアが開くと、そこは普通の事務所になっていて 多くの人達が背広を着てデスクに向かっています。 しかしちょっと不自然なのは、みなマチマチに新聞や本を読んだりして 具体的に仕事をやっているという雰囲気はないのです。

ここで初めてナレーションが入って、ここが医療施設である事がわかります。 欝(うつ)で会社を休業している人達が会社復帰するためのリハビリをしているそうです。 でも、私にはどうしてもロボット再生工場のSFの世界でも見ているようで怖くなってきました。

なんでもマニュアル化され人間性が失われていく企業社会で欝(うつ)になるのは ある意味、そちらの方が正常なように思うことすらあります。 そんな企業社会からはサッサと足を洗って収入が少なくても好きな事をすれば良いのです! 一度しか無い人生なのですから!

てな事を思ってしまうきょうこのごろですが… いやな仕事をYUKIにおしつけて、好きな事だけやっていたのでは YUKIから「なまけもの!」と罵られてもしかたないかもしれません(^_^;)

2008年04月14日221号 銀座と私

小学校1年から渋谷で育ったシティー・ボーイ(^_^)の私にとって銀座は… 何かと縁が深く、懐かしくもあり、好きな街です。

父の職場が日比谷(そのあと銀座)にあったこともあり、 銀座の【スエヒロ】【資生堂パーラー】【月ヶ瀬】【千疋屋】【三笠会館】などなど 子供心にも贅沢で胸を躍らされた懐かしい店が数え切れないほどあります。

大学を卒業して1969年就職したのがフランセという中堅の洋菓子会社でした。 入社してすぐに配属されたのが『銀座三越』の地下食品売り場にある フランセ銀座三越店の店長で、1年間勤務しました。 店長といっても女子社員を1名付けられただけの店員のようなものでしたが(^_^;) 翌年の1970年、銀座三越の1階すなわち銀座通りに面して マクドナルドの日本での一号店が誕生するのです。 その時はすでに銀座三越勤務から営業店全般を見る仕事についていていましたが 銀座三越も私の管轄の一店舗で当然の事として思い入れも強く、 マクドナルド一号店の出店を最初から大変興味深く見ていました。 また、それと時を同じくして銀座通りの『歩行者天国』も始まって 銀座の新しい息吹を感じたのが今でも懐かしく思い出されます。

それから数年後、私は銀座8丁目の並木通りにあったフランセ銀座本店に配属になり、 新たにオープンする銀座5丁目の数寄屋橋店の初代店長をしばらくやって その後、銀座の2店舗の責任者となって…と フランセに在職した約10年のほとんどを銀座で過ごすことになるのです。

フランセという会社はまだ残っていますが銀座の2店舗はとっくに閉店しています。 なぜかといえば『夜の銀座』すなわち高級クラブがひしめいていた時代が 終わってしまったからです。 銀座の洋菓子店の多くは深夜1時頃まで営業し 高度成長で社用族の接待で沸く『夜の銀座』と共生していたのです。 その頃あった並木通りの高級クラブや画廊や洋菓子店はすっかり影を潜め… 今では世界のファンション・ブランドの通りとなったようです。

私が東京海上の代理店となるための2年間の研修を受けたのは新橋でした。 フランセ銀座本店のあった場所から歩いて数分の所です。 今、私が東京海上の代理店として所属しているのも新橋支社です。 それが、どういうわけか名前は新橋支社のまま丸の内に移ってしまいましたが それほど銀座からは離れていません。

てなわけで銀座は今でも私にとって身近な街でもあるのです。

12日の土曜日、ひさびさにYUKIとヒロコと3人で銀座にむかいました。 この日でクリスチーナの個展が終るからです。 会場に行ったらちょうど食事中で不在のようです。 だったら私達も食事でもして出直そうと外に出たら 向こうの方からやってくるクリスチーナの姿を見つけたのです。 会場に戻ってひさびさに楽しいひと時を過ごすことが出来ました。

私は銀座の週末のウラ通りというのが好きなのです。 クルマを路上パーキングに置きやすいのと、 飲食店なども空いていて、のんびりした空気が流れているからです。 個展会場の並びの小さな飲食店で食事をしながら、のんびり外を見てたら 昔一緒にサルサを習っていたMさん親子が通りすぎるのが見えました。 私が店から飛び出して挨拶すると、とても驚かれました。 もちろんクリスチーナの個展に行くところだったようです。

銀座はどこを歩いても懐かしいところばかりです。 でも銀座と言えばメインは銀座4丁目の交差点(この角のひとつが銀座三越)ですが その中でも象徴的なのが時計台のある『和光』ではないでしょうか。 そこのショーウインドウにヒロコの大学でのアートの先生で、 今でも親しくしている菱山裕子さんの作品が展示さられているというのです。 なるほどユニークな作品で、一度見たら忘れられません(^_^;)

歩行者天国にはなぜか和服姿の人が沢山いて、それも年齢や着物にも 統一性はなく、なんだかバラバラに集まったようで、 ヒロコと「きっとネットの呼びかけかなんかで集まったようだね」と言っていたのですが […]

2008年04月07日220号 ライフコンサルタント?

先月の3月15日・22日・29日(土曜日3回連続)東大和市公民館で行なわれて集会に 私はパネラーの一人として【ライフ・コンサルタント】という肩書きで参加してきました(^_^;)

ココでも何度か登場している茶屋エポックのエノちゃんの要請によるボランティアです。 私はエノちゃんのブレーンですので(^_^;) 私は彼の店に行くたびに、ひとりで黙々と菓子作りをしているエノちゃんの横で 小さな椅子に座って、ケーキの試食?とコーヒーを飲みながら談義をするのが楽しみです。 ECOにこだわり、町おこしにとても熱心なエノちゃんですが いつも出るのは「この町は、とても閉鎖的で横のつながりもない!」という愚痴です。 それでも熱心なエノちゃんは近くの公民館での市民講座の枠を取ったというのです。 何をやるか具体的には決めていないが、基本的テーマは「町おこし・横のつながり」というのです。

私のアイデアは週1回2時間で3回連続、好評だったらシリーズ化というのなら… 東大和の例えば魚屋さん・酒屋さん・コンビニ店長と3人ムリヤリでも呼んで(^_^;)… 3人を並んで座ってもらい、最の1時間はこちらから同じ質問をする、例えば ①この仕事をココで始めて何年になるか? ②やりがいやこだわりは? ③仕事に将来性を感じるか? ④東大和をどう思う? 残りの1時間は、参加者からの質問コーナーにするのです。 これで9人の地元で働く人が紹介され、もちろん終ったら居酒屋で親睦会です。(^_^;) これがシリーズ化されていけば 市民にとって地元の街がもっと身近になっていくはずです。

この企画は我ながら面白いと思い、司会者がいなければ引き受けても良い… とまで言っていたのですが、どういうわけかボツになってしまいました。 だったらもう勝手にすれば、と思っていたら… エノちゃんから、自分も含めて3人の講師が決まったから 私も講師の一人として参加してほしいというのです。

東大和と関係ない私がどうして講師として出なければならないのか? とエノちゃんに尋ねると、「そりゃー心強いからだよ」と言われてしまいました。 そう言われてしまうと、その気になってしまう私です(^_^;)

「肩書きはライフ・コンサタントでいいかな?」と言うのです。 私は”単なる保険屋”である事にプライドを持っているのですが、 保険代理店とか、まして保険屋などと云うと怪しまれるというのです。 私としたら【ライフ・コンサルタント】の方がよっぽど怪しいように思うのですが(^_^;)

第一回が3月5日(土)午前10時から12時まで行なわれました。 こんな講座に何人来るかと危惧していたのでが、 さすがエノちゃん、彼のファンが集まってくれました(^_^;) この日は4人の講師が30分づつ専門分野について話せというのです。 スタートしたのが定刻10時を10分過ぎの開始となりました。 最初は地元で有機農法をしている内野さんの話ですが予定の30分をオバーしてしまいました。 次がエノちゃんで持参した手作りのチョコレートとお茶を飲みながら熱い思いを語りはじめました。 参加者はエノちゃんのファンがほとんどですから思わず時間もオーバーします。 気が付けば残り時間は40分足らずで、年金コンサルタントの大野さんと私の二人が残っています。 司会役を買って出てくれた裁判所の書記官をやっている芽門さんが 「大野さん、時間が無いので20分以内でまとめて下さい」と言ったのですが きっちり準備をして資料を揃えて来た大野さんには気の毒なハナシです。 結局、最後の私の持ち時間は5分たらずです。

でも、これも予想の範囲で、だからこそ私の順番を最後にしてもらったのです。 5分ではほとんどしゃべる事などありません(^_^;)

私は【ライフ・コンサルタント】なんて職業でなく川崎に住んでいる単なる保険屋で なんで東大和に来てこんなところにいるかといえば… エノちゃんの古くからの親友で、彼の熱い熱い思いを良く知っていて エノちゃんのサポーターとして参加させて頂だいているということ。 したがって決してエラソーでも怪しいものでも無いと締めさせてもらったのです。(^_^;)

第2回の22日は Mさんという年配の方が参加されていました。 […]

2008年03月24日218号 浦和先生の慰労会

またまた拓殖大学ラテン・アメリカ研究会の登場です。

今回はラテ研の6期先輩で、その後拓大のスペイン語の教員になられ また後に拓大が外国学部が創設された時には学部長として もりろんスペイン語の教授としても活躍された浦和先生が退官されるというので 八王子(先生の地元)でラテ研主催の慰労会を開いたのです。

6期先輩という事は浦和先生の学生時代は知りませんが 私達がスペイン語を主に習っていた瓜谷教授の助手をされていて、 浦和先生というより浦和先輩という親しみを持って授業を受けたものです。

私プロデュース(^_^;)のブログ【セニョール・ナガモリの中米ホンジュラス便り】の 永森ももちろん浦和先生の教え子です。 彼は3月18日のブログで、慰労会に参加出来ない事と 浦和先生への感謝の気持ちを熱く語っています。 ま~そこまでは良いのですが、その下のコメント欄は私が書いたものですが その18日に永森が書いたブログが、新しくブログを書くと、そのブログの下にいくので 修正してくれというのです。 だいたいブログは日記にようなものですから 「そんな小細工はしない方が良い!私が当日、浦和先生に永森の思いは伝える」 という約束をコメント欄に書きました。

私は永森の文章をブログ全体のイメージを崩さないように印刷し 浦和先生に渡そうと用意して出かけました。

会が始まる少し前に、主賓の浦和先生が来られてザワザワしている中、 私も浦和先生とお会いするのは二十年ぶりぐらいで、 出来の悪い生徒だった私の事など忘れていても永森は覚えているだろうと 私が浦和先生に近づこうとしたら、 浦和先生の方から先に私に微笑みながら「永森君のブログいつも見てるよ!」と 言われてしまいました(^_^)

会は本当に和やかで感動的で楽しいものでした。 浦和先生はここ数年、肺気腫を患われ歩くのも話すのも大変そうですが 約20分ほどの先生のスピーチはとても胸を打つものでした。 今は拓大に外国学部が出来てスペイン語科がありますが 浦和先生も私達も第二外国語としてスペイン語を学び、上智や外語大や立教といった スペイン語学科のある大学と交流を持ちながらやってきました。 第二外国語としてしかスペイン語を学ばなかった浦和先生がスペイン語の学者として 大きな実績を残されたことには大変な苦労があったと思われます。 そして浦和先生はその第二外国語としてスペイン語を学んだ拓大の仲間や教え子が 中南米で数多く今も活躍していることを誇りに思うと熱く語られ… 昨日の拓大の卒業式では、 スペイン語の熱い思いを持って定年になってホンジュラスでJICAのボランティアを やっている先輩がいる!と卒業生に語られたというのです。(^_^;)

永森より1年先にJICAシニア海外ボランテァでドミニカ共和国より帰国したオカヒロ先輩(1期先輩) は帰国後の健康診断で前立腺がんが見つかって4月9日に切除手術とか… これもボランティアに行ったので健康診断が出来たおかげとすこぶる元気!(^_^;)

学生時代を思い出しラテン・アメリカの熱い思いが甦っえることの多くなった 今日このごろです(^_^;)

全員での記念写真

2008年03月17日217号 母の誕生日

3月11日は母の誕生日で86歳になりました。 母は1月26日から介護施設にご厄介になっている事は触れました。

我が家からクルマで15分ぐらいとところで週に2・3回はYUKIと一緒に顔をだして 洗濯物の入れ替えやご機嫌伺いをしています。 母はまったく目が見えなくなってしまったのですが痴呆のおかげ?で 目が見えていないことを認識しておらず、自分のアタマの中の画像を見ているのです。 そして目がみえない分、逆に耳がとてもよく聞こえるようになって、 いろいろな音や言葉に反応して、おしゃべりをするのです。 もともと明るい性格なので、そのおしゃべりもユーモアがあってけっこう楽しいのです。

目が見えないので私が誰かも、初めは判らないのですが昔話や私の声を聞いているうちに 私が”KENちゃん”であることは認識するのですが、YUKIが何者か?が判らないようで 「あなたはどなたなの?」ときくのでYUKIは「私はKENちゃんのお嫁さん」と答えました。 そしたら母は「え~KENちゃんのお嫁さんだって!」と信じられらないような顔をして そのあと「気持ち悪~い」というしかめっ面に YUKIと私は涙が出るくらいの大笑いをしてしまいました。 母との屈託のないバカバカしい会話をYUKIもそれを楽しみにしてくれて とても助かっています(^_^;)

さて母の誕生日です。 7年間、母の面倒を自宅でみてくれていた妹のユミコと その次女すなわち私の姪のマキが先月生まれたばかりの次男と2歳の長男をつれて 母の誕生日をお祝いに介護施設に押し掛けることになりました。

このような複雑?な状況を母はどのくらい認識し、どのような反応をするか 少々心配していましたが、目が見えてアタマもしっかりしているのでは?と思うほどの 母の幸せそうな対応と表情に目頭が熱くなってしまいました。

このような介護施設に2歳の幼児や産まれ立ての乳児が来るなんてことは珍しいようで 普段は寂しそうで冷たい視線を向ける老人達も とても優しい目でこちらを見ているのが伝わって温かい空気が流れているようです。

母を囲んだ我われの集合写真のシャッターを押してくれたヘルパーさんが とても良い写真だから施設のカメラでも撮らしてほしいと、もう一枚撮ってもらい みんなに送られて介護施設を後にしました。