2008年04月21日222号 なまけもの

毎日、毎日YUKIと向かいあって仕事?をしている私ですが… YUKIは私にたいして最近やたらに「なまけもの!」…と罵るのです(^_^;)

たしかに私は”はたらきもの”ではなかったと自分のコレまでの人生を振り返っても思います。 一生懸命やったことは沢山ありますが、それは仕事上であっても好きなこと事だったようです。 ようするに好きで無いことは基本的にやりたくないのです(^_^;)

ま~誰だって好きでない事はやりたくないに決まっています。 それをやるのが仕事だという考えもあるようですが、それがイヤなのです(^_^;) ま~ワガママと言われてしまえばそれまでですが、 イヤな事をムリヤリやっては自分はもとよりお客様に損失をかけるなんて思ってしまうのです。 ま~ヘリクツはともかくとして(^_^;) 結果的に私はこれまで”好きな事”を仕事にしてきたようです。 ヒロコの学費を稼ぐため1994年から2年間、朝3時に起きて新聞配達をしましたが 自分なりにはけっこう楽しいアルバイトでした。 保険の仕事も最初は馴染めませんでしたが、自分なりの営業スタイルを確立し 保険とインターネットという未知への挑戦も興味深く ライフワークとして楽しみにやっていこうと思っています。

それではなぜ?YUKIから「なまけもの!」と罵られるのかと言えば やりたく無い仕事というか事務処理が山ほど増えたからです。 それがどのようなものであるかは、書き出したら止まらなくなりですからカットします。

簡単に言ってしまえば、何でもかんでもマニュアル化され、 マニュアル通りにやる事が目的化されてしまったことです。 このような仕事ならロボットにでもやらせればよいと思われる仕事です。

お客様にはとうてい消化しきれないほどの確認書類が用意され、 その書類に少しでも不備があると、お客様の訂正確認や書類にハンコが漏れているとか、 やたら言ってくるのです。 もともとバカバカしいと思っているので、そのような書類が溜まっていき 保険会社から「あの書類のハンコはまだか?」 「あれはどうした?」「これはどうした?」…と電話が入ってくるとマスマス いやになって後回しにしてしまうのです。

そこでYUKIから「なまけもの!」と罵られるのですが(^_^;) だんだん私も”うつ病”や”ひきこもり”の人達の心理が判るようになってきました。

先日なにげなく見ていたテレビで驚いてしまった事があります。 サラリーマン風の背広を来た男が朝のラッシュアワーの中、 虎ノ門の地下鉄駅を出てオフィス・ビルに入っていきます。 エレベータを出たところのオフィスのドアが開くと、そこは普通の事務所になっていて 多くの人達が背広を着てデスクに向かっています。 しかしちょっと不自然なのは、みなマチマチに新聞や本を読んだりして 具体的に仕事をやっているという雰囲気はないのです。

ここで初めてナレーションが入って、ここが医療施設である事がわかります。 欝(うつ)で会社を休業している人達が会社復帰するためのリハビリをしているそうです。 でも、私にはどうしてもロボット再生工場のSFの世界でも見ているようで怖くなってきました。

なんでもマニュアル化され人間性が失われていく企業社会で欝(うつ)になるのは ある意味、そちらの方が正常なように思うことすらあります。 そんな企業社会からはサッサと足を洗って収入が少なくても好きな事をすれば良いのです! 一度しか無い人生なのですから!

てな事を思ってしまうきょうこのごろですが… いやな仕事をYUKIにおしつけて、好きな事だけやっていたのでは YUKIから「なまけもの!」と罵られてもしかたないかもしれません(^_^;)

2008年04月14日221号 銀座と私

小学校1年から渋谷で育ったシティー・ボーイ(^_^)の私にとって銀座は… 何かと縁が深く、懐かしくもあり、好きな街です。

父の職場が日比谷(そのあと銀座)にあったこともあり、 銀座の【スエヒロ】【資生堂パーラー】【月ヶ瀬】【千疋屋】【三笠会館】などなど 子供心にも贅沢で胸を躍らされた懐かしい店が数え切れないほどあります。

大学を卒業して1969年就職したのがフランセという中堅の洋菓子会社でした。 入社してすぐに配属されたのが『銀座三越』の地下食品売り場にある フランセ銀座三越店の店長で、1年間勤務しました。 店長といっても女子社員を1名付けられただけの店員のようなものでしたが(^_^;) 翌年の1970年、銀座三越の1階すなわち銀座通りに面して マクドナルドの日本での一号店が誕生するのです。 その時はすでに銀座三越勤務から営業店全般を見る仕事についていていましたが 銀座三越も私の管轄の一店舗で当然の事として思い入れも強く、 マクドナルド一号店の出店を最初から大変興味深く見ていました。 また、それと時を同じくして銀座通りの『歩行者天国』も始まって 銀座の新しい息吹を感じたのが今でも懐かしく思い出されます。

それから数年後、私は銀座8丁目の並木通りにあったフランセ銀座本店に配属になり、 新たにオープンする銀座5丁目の数寄屋橋店の初代店長をしばらくやって その後、銀座の2店舗の責任者となって…と フランセに在職した約10年のほとんどを銀座で過ごすことになるのです。

フランセという会社はまだ残っていますが銀座の2店舗はとっくに閉店しています。 なぜかといえば『夜の銀座』すなわち高級クラブがひしめいていた時代が 終わってしまったからです。 銀座の洋菓子店の多くは深夜1時頃まで営業し 高度成長で社用族の接待で沸く『夜の銀座』と共生していたのです。 その頃あった並木通りの高級クラブや画廊や洋菓子店はすっかり影を潜め… 今では世界のファンション・ブランドの通りとなったようです。

私が東京海上の代理店となるための2年間の研修を受けたのは新橋でした。 フランセ銀座本店のあった場所から歩いて数分の所です。 今、私が東京海上の代理店として所属しているのも新橋支社です。 それが、どういうわけか名前は新橋支社のまま丸の内に移ってしまいましたが それほど銀座からは離れていません。

てなわけで銀座は今でも私にとって身近な街でもあるのです。

12日の土曜日、ひさびさにYUKIとヒロコと3人で銀座にむかいました。 この日でクリスチーナの個展が終るからです。 会場に行ったらちょうど食事中で不在のようです。 だったら私達も食事でもして出直そうと外に出たら 向こうの方からやってくるクリスチーナの姿を見つけたのです。 会場に戻ってひさびさに楽しいひと時を過ごすことが出来ました。

私は銀座の週末のウラ通りというのが好きなのです。 クルマを路上パーキングに置きやすいのと、 飲食店なども空いていて、のんびりした空気が流れているからです。 個展会場の並びの小さな飲食店で食事をしながら、のんびり外を見てたら 昔一緒にサルサを習っていたMさん親子が通りすぎるのが見えました。 私が店から飛び出して挨拶すると、とても驚かれました。 もちろんクリスチーナの個展に行くところだったようです。

銀座はどこを歩いても懐かしいところばかりです。 でも銀座と言えばメインは銀座4丁目の交差点(この角のひとつが銀座三越)ですが その中でも象徴的なのが時計台のある『和光』ではないでしょうか。 そこのショーウインドウにヒロコの大学でのアートの先生で、 今でも親しくしている菱山裕子さんの作品が展示さられているというのです。 なるほどユニークな作品で、一度見たら忘れられません(^_^;)

歩行者天国にはなぜか和服姿の人が沢山いて、それも年齢や着物にも 統一性はなく、なんだかバラバラに集まったようで、 ヒロコと「きっとネットの呼びかけかなんかで集まったようだね」と言っていたのですが […]

2008年04月07日220号 ライフコンサルタント?

先月の3月15日・22日・29日(土曜日3回連続)東大和市公民館で行なわれて集会に 私はパネラーの一人として【ライフ・コンサルタント】という肩書きで参加してきました(^_^;)

ココでも何度か登場している茶屋エポックのエノちゃんの要請によるボランティアです。 私はエノちゃんのブレーンですので(^_^;) 私は彼の店に行くたびに、ひとりで黙々と菓子作りをしているエノちゃんの横で 小さな椅子に座って、ケーキの試食?とコーヒーを飲みながら談義をするのが楽しみです。 ECOにこだわり、町おこしにとても熱心なエノちゃんですが いつも出るのは「この町は、とても閉鎖的で横のつながりもない!」という愚痴です。 それでも熱心なエノちゃんは近くの公民館での市民講座の枠を取ったというのです。 何をやるか具体的には決めていないが、基本的テーマは「町おこし・横のつながり」というのです。

私のアイデアは週1回2時間で3回連続、好評だったらシリーズ化というのなら… 東大和の例えば魚屋さん・酒屋さん・コンビニ店長と3人ムリヤリでも呼んで(^_^;)… 3人を並んで座ってもらい、最の1時間はこちらから同じ質問をする、例えば ①この仕事をココで始めて何年になるか? ②やりがいやこだわりは? ③仕事に将来性を感じるか? ④東大和をどう思う? 残りの1時間は、参加者からの質問コーナーにするのです。 これで9人の地元で働く人が紹介され、もちろん終ったら居酒屋で親睦会です。(^_^;) これがシリーズ化されていけば 市民にとって地元の街がもっと身近になっていくはずです。

この企画は我ながら面白いと思い、司会者がいなければ引き受けても良い… とまで言っていたのですが、どういうわけかボツになってしまいました。 だったらもう勝手にすれば、と思っていたら… エノちゃんから、自分も含めて3人の講師が決まったから 私も講師の一人として参加してほしいというのです。

東大和と関係ない私がどうして講師として出なければならないのか? とエノちゃんに尋ねると、「そりゃー心強いからだよ」と言われてしまいました。 そう言われてしまうと、その気になってしまう私です(^_^;)

「肩書きはライフ・コンサタントでいいかな?」と言うのです。 私は”単なる保険屋”である事にプライドを持っているのですが、 保険代理店とか、まして保険屋などと云うと怪しまれるというのです。 私としたら【ライフ・コンサルタント】の方がよっぽど怪しいように思うのですが(^_^;)

第一回が3月5日(土)午前10時から12時まで行なわれました。 こんな講座に何人来るかと危惧していたのでが、 さすがエノちゃん、彼のファンが集まってくれました(^_^;) この日は4人の講師が30分づつ専門分野について話せというのです。 スタートしたのが定刻10時を10分過ぎの開始となりました。 最初は地元で有機農法をしている内野さんの話ですが予定の30分をオバーしてしまいました。 次がエノちゃんで持参した手作りのチョコレートとお茶を飲みながら熱い思いを語りはじめました。 参加者はエノちゃんのファンがほとんどですから思わず時間もオーバーします。 気が付けば残り時間は40分足らずで、年金コンサルタントの大野さんと私の二人が残っています。 司会役を買って出てくれた裁判所の書記官をやっている芽門さんが 「大野さん、時間が無いので20分以内でまとめて下さい」と言ったのですが きっちり準備をして資料を揃えて来た大野さんには気の毒なハナシです。 結局、最後の私の持ち時間は5分たらずです。

でも、これも予想の範囲で、だからこそ私の順番を最後にしてもらったのです。 5分ではほとんどしゃべる事などありません(^_^;)

私は【ライフ・コンサルタント】なんて職業でなく川崎に住んでいる単なる保険屋で なんで東大和に来てこんなところにいるかといえば… エノちゃんの古くからの親友で、彼の熱い熱い思いを良く知っていて エノちゃんのサポーターとして参加させて頂だいているということ。 したがって決してエラソーでも怪しいものでも無いと締めさせてもらったのです。(^_^;)

第2回の22日は Mさんという年配の方が参加されていました。 […]

2008年03月31日219号 桜とフランス料理

久々に都心で花見が出来ると楽しみにしていた日曜日(30日)でしたが… 結局、雨に降られてYUKIとさきほど電車で帰宅したところです。

この日は午後3時からボランティアでやっている年末恒例のハート・コンサートの 打ち合わせがありました。 これまでの打ち合わせはコンサート会場でもあるホテル・ニューオータニと決まっていたのですが 役員の一人でもあるナカガワさんがホテル・ニューオータニからもほど近い麹町にオフィスを持っていて 前回からそこでする事になったのです。 そこで次回の日時を3月30日と決めた時に、ちょうど桜が咲く頃だから 終ったら近くでお花見をして、そのあとに食事でもしよう!と決まったのです。.

お花見にはお酒がつきものですから、今回はクルマをおいて電車で出かけたのですが とても肌寒く、今にも雨が降りそうな天気でした。(^_^;) ヒロコとうるめさんは最初から、それぞれ予定があって花見や食事は不参加という事でしたが 打ち合わせが終了して気が付けば雨は本降りで、花見をするような状況ではないのです。

ヒロコと入れ替えにYUKIが後から来る事になっているのですが… 花見の後の食事を予約している東條会館のアルゴに直接来るように電話しました。 ナカガワさんのオフィスで傘を借りて、立ち話をしたり、時間をつぶしてもまだまだ時間があり 結局いくとこもなく早めに東條会館に向かい、9回のフレンチ・レストラン・アルゴから 桜を見たり、雑談をして予約時間の6時30分にYUKIもやってきました。

なんせ、このボランティアの中心メンバーはライオンズ・クラブと 女性経営者の世界的ボランティア団体のソロプチミストの方々という 私のような貧乏人とちょっと違うリッチな方達なのです(^_^;) したがって花見の後の食事といっても、ちょっと違うのです(^_^;)

ヒロコやうるめクンは何かと口実をつけて難を逃れたようですが… ヒロコが参加しないのならYUKIが参加するという 我が家の涙ぐましく美しい文化を守もられているのです(^_^;)

12000円のコース料理は イカ墨のせんべい?から始まり、3色のたこ焼き風豆腐?、グレープ・フルーツのうなぎ巻?、 不思議なカップに入って冷たいコーン・スープ?、白身魚(あいなめ)の○風?、 伊予柑のシャーベット、鴨のフォアグラ・ソテイ、桜風味のデザート、他 そうそうパンはとっても美味しかった(^_^;) 会話もそれなりに弾み レストランからの皇居を見下ろす桜や夜景も素晴らしく それなりに一応はリッチな気分になって雨の中、YUKIと電車で帰宅しました。

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2008年03月17日217号 母の誕生日

3月11日は母の誕生日で86歳になりました。 母は1月26日から介護施設にご厄介になっている事は触れました。

我が家からクルマで15分ぐらいとところで週に2・3回はYUKIと一緒に顔をだして 洗濯物の入れ替えやご機嫌伺いをしています。 母はまったく目が見えなくなってしまったのですが痴呆のおかげ?で 目が見えていないことを認識しておらず、自分のアタマの中の画像を見ているのです。 そして目がみえない分、逆に耳がとてもよく聞こえるようになって、 いろいろな音や言葉に反応して、おしゃべりをするのです。 もともと明るい性格なので、そのおしゃべりもユーモアがあってけっこう楽しいのです。

目が見えないので私が誰かも、初めは判らないのですが昔話や私の声を聞いているうちに 私が”KENちゃん”であることは認識するのですが、YUKIが何者か?が判らないようで 「あなたはどなたなの?」ときくのでYUKIは「私はKENちゃんのお嫁さん」と答えました。 そしたら母は「え~KENちゃんのお嫁さんだって!」と信じられらないような顔をして そのあと「気持ち悪~い」というしかめっ面に YUKIと私は涙が出るくらいの大笑いをしてしまいました。 母との屈託のないバカバカしい会話をYUKIもそれを楽しみにしてくれて とても助かっています(^_^;)

さて母の誕生日です。 7年間、母の面倒を自宅でみてくれていた妹のユミコと その次女すなわち私の姪のマキが先月生まれたばかりの次男と2歳の長男をつれて 母の誕生日をお祝いに介護施設に押し掛けることになりました。

このような複雑?な状況を母はどのくらい認識し、どのような反応をするか 少々心配していましたが、目が見えてアタマもしっかりしているのでは?と思うほどの 母の幸せそうな対応と表情に目頭が熱くなってしまいました。

このような介護施設に2歳の幼児や産まれ立ての乳児が来るなんてことは珍しいようで 普段は寂しそうで冷たい視線を向ける老人達も とても優しい目でこちらを見ているのが伝わって温かい空気が流れているようです。

母を囲んだ我われの集合写真のシャッターを押してくれたヘルパーさんが とても良い写真だから施設のカメラでも撮らしてほしいと、もう一枚撮ってもらい みんなに送られて介護施設を後にしました。

2008年03月10日216号 そもそも…

最近 「そもそも○○って何だろう?」という考えをするようになって YUKIと議論にいたることがよくあります。

そもそも人生って何だろう? という哲学的なものから そもそも結婚って何だろう? という夫婦で語り合うにはキケンなものまで(^_^;) いろいろハナシはつきません。

ま~私はどちらかと云うと若い時からノーテンキに あまり物ごとを突き詰めたり悩むこともなくハッピー・ハッピーに生きてきたので、 あおの反動かな?と思ったのですがそうでは無いそうでえす。

人間の性格というものは変るものではなく 私のノーテンキでハッピーでズボラな性格は一生涯変らないと YUKIから言われてしまいました(^_^;)

じゃー何が変ったかといえば 世間の方が、とても窮屈で閉鎖的でハッピーで無くなっているように 思えるのです。。

テレビでは昭和の時代を懐かしむ番組が増え 「あの時代はよかった!」などと夜の新橋でサラリーマンが叫びます。 終戦直後の平和が戻り露店の賑わいの映像は 明るい「りんごの歌」をバックに希望に満ちた生き生きとした印象で伝えられます。

しかし今は”あの時代”よりずっと豊かになっているはずです。 今でも発展途上の国々では戦後の露店のような所が残っていますが そこで走り回る子供たちや人々は明るく生き生きとしているようです。 そんな国から日本を見たら、とても裕福で夢の国のように思われるのではないでしょうか?

そのような国から家族を置いて日本で不法就労までして出稼ぎに来る人達も少なくありません。 この国は…格差やワーキングプア、年金問題…などなどでが先行きの見えない不安で 暗雲が立ち込めているそうです。 だからといって日本を脱出して海外に出稼ぎに行こうといういう人はほとんどいません。 どうしてなのでしょうか? やっぱり日本は世界の国から見たら豊な国なのではないでしょうか?

ただ問題があるとしたら 世界に先駆けて少子高齢化社会に突入するという事です。 でも、それは遅かれ早かれ何時かは世界中の国々が直面しなければならない事なのだから そのモデル・ケースになるような国にすれば良いとノーテンキな私は思うのです。 しかし、どうやら国も企業もそんな悠長な事は言ってられないようなのです。 国は毎年GDPすなわち消費を拡大していかなければならいそうです 企業は資本主義経済の中では常の右肩上がりの利潤追求が求められます。

ようするに留まってはいけないようです。 でも少子高齢化していく社会に成長拡大が本当に可能なのでしょうか? だったら国を解放して外国人の移民を受け入れたら良いと思うのですがこれも出来ないようです。 国は閉鎖されたまま高齢化していく中で、はてしない経済成長が求めるための カンフル剤を打たれを続けていたら「先行きが見えない!」と暗くなる気持ちもわかります(^_^;)

したがって、国も企業も年金も当てにせずに自由に生きたって、 発展途上の貧しい国々から見たら”天国”のような国なのだから…と思うのですが(^_^;) エラソウな事を書いている私でも、発展途上国の人々と同じ生活をするには よほどの覚悟が必要で、 結局は便利な近代社会にどっぷりと使って地球環境を破壊しているようです。

そもそも人間ってなんだろう?…とノーテンキに考える今日この頃の私です(^_^;)

※ブログでも保険を取り巻く「そもそも…」を考察しています(^_^;)

2008年03月03日215号 複雑すぎる商品!

2年前に購入したDVDレコーダーが故障しました。 購入した近くのヤマダ電機に持っていくと、 「修理は1ヶ月ほどのお預かりになるかもしれません。 お預かりの場合は修理する、しないに関わらず2500円を頂きます。 修理代は判りしだい電話でお知らせしますが15000円~30000円ほど係るかもしれませんが、 よろしいでしょうか?」…

2年前に購入したのが39,800円です。 修理代に30,000円もかかったのでは買った方が安いような気がしましたが 宮崎の義母に使い慣れたDVDをあげればいいからとのYUKIの提案でそれは修理に出して 新しいのを売り場で見てみようと言う事になりました。

パソコンやデジカメ、ビデオカメラ、そしてDVDレコーダーなんてものは 生鮮食品のように時が経過すれば値崩れをしていくもので 今なら2年前と同じぐらいの予算があれば、かなり優れたDVDレコーダーが買えると思ったのです。

しかしDVDレコーダーの売り場に行くと 私のイメージしたDVDレコーダーは一台も無いのです。 あるのは二十万円近くもするブルーレイ・デスク・レコーダーとかハイビジョン対応で どんなに安くても7万円以下の商品は置いてないのです。 店員に聞いてみると、私が持っているのは2011年7月からは使えなくなる アナログ・タイプのDVDレコーダーで、今はもう売られていないというのです。

したがってデジタルとアナログではどう違うのかは、説明を聞いてもよく判りませんが 何しろ最低でも7万円はするというのです。

その唯一7万円という安値?をつけているメイカーは”東芝”なのです。 たしか”東芝”はこれまで推し進めてきた新しいDVDの開発を止めて”なんやら”という 報道を見た気かするのです、その”なんやら”は判らないのですが(^_^;) どうやら、この機種はそれに違いないのです。

店員にその事を聞くと、ちょっとイヤな顔をして、そうだと認めました。 「だったらもっと安くできないか?」と私は詰め寄ったのですが 「だから、これだけ安くなっているのだ!」とゆずりません。

ま~、私としたら、その新しい”なんやら”はどうでもよいことで 今までのように番組が録画出来て、今よりちょっと便利になって、 録画容量のハード・ディスクが増えていれば文句はないわけなのですが、 そのわりには高すぎるという事です。

今使っているのDVDレコーダーのハード・ディスクが160ギガです。 初めはこれだけあれば充分と思っていたのですが、 録画番組をハード・ディスクにある程度ためておいて6時間分まで貯まったら 1枚のDVDにまとめるという作業をYUKIにバカにされながらやっています。(^_^;) すなわち長期間、たくさんの番組を保存するのでハード・ディスクが もう少し欲しいと思っていたのですが… その7万円の商品は300ギガあるのです。

ところが、その横を見ると、あと1万円ちょっと払うと600ギガになって なんやら他の機能もついているようなのです(^_^;) YUKIの顔色を恐る恐る見ながらも結局、 8万円近い東芝のDVDレコーダーを買ってしまったのです。

これで、今晩の録画を諦めていた番組もギリギリ録画出来ると 喜んで持ち帰ったDVDですが、これがもうほんとうに何が何だかさっぱり判らないのです。

私は年齢のわりにはパソコンやデジカメといった電子機器を使いこなしています。 DVDレコーダーだって、この2年間毎日のように使って YUKIから「壊れて当然」と言われるほど使いコナシテきたのです。 したがって、今晩の番組をとりあえず録画しておくぐらいは簡単に出来ると思っていたのです。

ところが録画どころのハナシで無いのです、 分厚いマニュアルは4冊もあって、やたら詳しく書かれているのですが 単純に録画したいという私のニーズを満たしてくれないのです。

数日後にはやっと録画だけは出来るようになったのですが 私の次の目的は一般的DVDディスクに6時間モードで録画をしたいのに セット出来るのは2時間モードか4時間モードしかないのです。

[…]

2008年01月28日210号 母のこと

この週間KENにあまり登場することがなかった 私の母について書きたいと思います。

なにも隠していたわけではないのですが、書くチャンスがなっかたのです。 現在85歳で健在ですが… 4年半ほど前の夏の暑い日、突然目が見えなくなってしまいました。 それまでに痴呆が始まっていて、私の妹の家に同居していたのですが 昼間で明るいのに「暗くて何も見えないから電気をつけて」というのです。 結局、原因がよく判らないまま、その日から全盲になったのです。

でも幸い…と言おうか痴呆があるため”何かが見えている”ようで 自分が全盲になった事を認識しないでいるのです。 時々「暗くて見えない」というぐらいで本人はいたって陽気なのです。(^_^;)

まーこの”陽気さ”は角倉家の伝統のようで”救い”ではありますが…。 全盲になってから4年半、その前から入れると7年近く、 妹のユミコのマンションに母を預けぱなしにしている長男の私としては、ちょっと肩身が狭いのです。 ま~妹のユミコも角倉家の伝統を次いで陽気な方で、私としてもツイツイ頼ってしまうのです。

私より7歳下の妹ですがヒロコはそのユミコおばちゃんのことを ず~と私のお姉さんだと思っていたほど、私が云うのもなんですがシッカリしているのです。 あまりにもシッカリしていて「私なんかイモウト・コントロールで動いている」なんて冗談を言うほどです(^_^;) でも妹にも夫がいます、その夫すなわち義弟もとても陽気でとても良い人ですが、 全盲で痴呆の母と7年間も同居して貰っているのは…私としては大いに肩身が狭いのです。 2歳年下で大手商社に勤める義弟も今年60歳になります。

母はとても全盲で痴呆で要介護5の認定を受けていますが、 とても元気で陽気で食欲もあって、まだまだ長生きしそうです。

そこで26日の土曜日、私の家からクルマで15分ほどの介護施設にしばらく 母を預ける事にしたのです。 ユミコの次女が2人目の子供の出産を控えて、しばらく福島に行かなければならない事もあって 近くの介護施設なら私やYUKIも定期的に母を看に行くことが出来るからです。

母は痴呆もありますが、あるていどの状況判断も出来るようで油断はなりません。 でも陽気で楽天的に解釈する習性は変らないのが救いです。 ユミコの家の近くの介護施設でのシュート・ステイでも誰からも親しまれたようです。

当日、私とYUKIと妹のユミコそして土曜日で休日仕だったユミコの長女ユリコの4人が 付き添って、横浜市青葉区の介護施設に向かいました。

クルマの中でも、施設の手続き中も母は私たちをおおいに笑わせてくれます。 極めつけは、母にちょっと面接?をしたヘルパーとの会話です。

ヘルパー「角倉さん、お歳はお幾つですか?」 母    「……まー失礼ね、女性に歳を聞くなんて、あなたはお幾つなの?」 ヘルパー「エッ私の歳ですか、37歳です!」 母    「あら、それなら私の方が年上ね」

もう全員爆笑で終りました。(^_^;)

食事もなかなか豪華で、美味しそうに食べたようです。 ロイターに勤務しカメラマンでもあるユリコは大好きなおばあちゃんを撮り続けています。

これからはチョクチョク、私も母を看に行かねばなりませんが… それもまた楽しみでもあります。

2008年01月22日209号 公私混同をモットーに!

もう数ヶ月ほど前の話になりますが… いつものようにYUKIとテーブルをはさんでお互いパソコンに向かっている時に 「コピーライターの糸井重里がKENと同じような事を書いている…」と その箇所をYUKIは声を出して読んでくれました。 たしかに私と同じ視点で書いていて興味があったので、 どんなサイトにその記事が書かれているのかとYUKIのパソコン画面を覗きました。

そこで目に入ったのは【「公私混同」原論】と言うタイトルでした。 いやーこのタイトルにシビレました。(^_^;) さすが日本を代表するコピーライターです。 ちょうどその頃、防衛省の元政務次官の守屋氏が接待ゴルフで 公私混同でトンデモナイなんていうニュースが流れていました。 いづれにしても…公私混同なんてトンデモナイに決まっているのです。

しかし、そのサイトで糸井重里は公私混同をトンデモナイと言っているのではなく 公私混同はステキなコトだと言っているのは直感的に判りました。 それにしても、大胆で判りやすいタイトルには脱帽です。

公私混同で生きる事が、これからの時代は理想であって このライフスタイルに自信とプライドを持って生き抜こう! なんて事を自分なりには考えてはいたのですが… それを表現するのに私は「保険代理店を生涯の生業(なりわい)とし生活を楽しみながら…」 などという、まどろこしい言い方をしてしまって 「公私混同で行きます!」…なんて、さすがの私でも云えなかったのです(^_^;)

私とほぼ同世代の糸井重里は、 私が生きてきた同時代を短いキャッチコピーで切り取って来た天才です。 YUKIが私に読んでくれたコラムも良く書かれていますが ま~私と同じようなことを書いているので感激するほどではありません。 ソウ!彼は作家じゃなくて最高のコピーライターである事を再認識したのです。(^_^;)

なにはともあれ!これからは胸を張って公私混同で行こうと思っています。 ま~胸を張らなくても、週間KENをご覧の方は充分に公私混同で生きている事は ご承知のことでしょうが。

さて、私が”公私混同”になぜこだわるか?という事ですが…

保険代理店を運営する上で大きく分けて2つの考えがあります。 ひとつは営業時間や休日をハッキリと決めて仕事中はしっかり仕事をして それ以外は仕事を引きずらないでプライベートな時間を大切にする、というもの。 もうひとつは、云うまでもなく(^_^;) 24時間365日、仕事もプライベートも関係なく過ごすというものです。

法人の大型代理店は前者で、 個人代理店は後者…が多いわけですが、 保険会社の戦略として小さな代理店を統合して大きな法人代理店に まとめていく方向にあるようです。 すなわち、私のような小さくて気ままな代理店は淘汰の対象になってしまうのです。 なぜ?保険会社が小さな代理店をマトメテ大きな代理店にするかといえば その方が効率的で管理しやすく、収益性も高くなると思っているのでしょう(多分)

でも、それはお客様や個々の募集人にとってはどうでしょう? フェース・トゥ・フェースは少しずつ遠のき、事務的な関係になっていくでしょう。 そして、サラリーマン化した代理店(募集人)はあるていどの年齢になったら 定年として辞めなくてはならない時が来るのです。

ようするに、お客様や代理店の立場では無く、 あくまで保険会社の論理で、そんな事で淘汰なんてされたく無い!との 思いがとても大きいのです。(^_^;)

だいたい企業は収益性を追求する事が使命ですから …その結果としてサブ・プライム問題がおきるのです。 大きな団体や企業は”顔”が見えにくい仕組を作って責任を逃れをするのは常套手段です。(^_^;)

てなわけで… 私は公私混同をモットーに 気負わず、あせらず、のんびりと持続性のある代理店経営をやって […]

2007年12月31日206号 持つべきものは友

年末恒例のクラシック・ハート・コンサートが29日無事終了しました。

【週間KEN12月10日号】で クラシックなどにはエンもユカリも、そしてお金も無い私が、 このようなボランティア活動に足を突っ込んだ理由や 今年は念願のホームページが完成したことをお伝えして… そして最後に、このコンサートへの参加者を募りました(^_^;)

これまで 参加者の募集はボランティア活動の役員達の”知人への呼びかけ”でしたが… 私がこのボランティア参加の条件として 「そのようなノルマは一切勘弁して欲しい!」というものでした。 保険の世界、特に生保の世界での不祥事の根源も”ノルマ性”だと思っている私は なにしろ”ノルマ”がキライなのです(^_^;)

こんなモノに頼っていたら活動は長続きしない、 活動に永続性を持たせ、広く賛同者を募るには、 しっかりとしたコンセプトを持ったホームページを公開していく事が不可欠! とエラソウな事を言い続け”ノルマ”から逃れてきた私ですが、 そのホームページが完成しちゃったのです(^_^;) 常々”ネットのチカラ”を力説してきた私が、 そこからもゼロというのは立場上ちょっとキビシイ状態になったのです。

そこで【週間KEN】で呼びかければ1組ぐらいは参加者がいるのではないかと 甘く見ていたのですが、締め切りの24日直前になっても集まりません(^_^;) もちろん反応がまったく無いというわけではありません、 今年は年末から○○に行くので来年は…とか手ごたえはあるのです。

でも、こうなればゼロというわけには行かない心境になってきます。 そこで閃いたのは、友人の丸谷です。 彼はM放送を定年退職し今は悠々自適の生活をしており、 この【週間KEN】もよく読んでくれているようなのです。 私が電話をして「ちょっと頼みたい事があるのだけど…」と言った瞬間、 「29日の件だろう、判った俺は参加するよ」と何時もの短いフレーズですが1名ゲットです。 そして私が「YUKIが奥さんにもお会いしたいと言ってるし是非!」ともう一声(^_^;) 「彼女はオレと違って忙しいとおもうけど聞いて見る」と言ってガチャンと切りました。 それからしばらくして2名の氏名が書かれたメールが到着しました。

当日、ヒロコは昨年に続いてビデオ撮影を担当しています。 作年はヒロコのサルサの先生でNHKでも仕事をしているジョエルが助手?として 手伝ってもらったのですが、彼はキューバに帰国中で、 今回はヒロコの友人のジュンコと黒沢クンに応援を頼みました。

そして、もうひとり忘れてはならないヒトがいます。 ”うるめクン”です…彼がいなければ、 このような素晴らしいホームページは完成しなかったですし、これからの対応も困難です。 そんな中で完全ボランテァで参加してくれた”うるめクン”には私だけでなく ボランティアの役員一同、とても感謝しているのです。 そうそう、人は見かけによらぬもの(^_^;)ここで初めて聞いたのですが… ”うるめクン”が中学までピアノを習っていて、大学まではよく弾いていたというのです。

我われのテーブルは”うるめクン””黒沢クン””ジュンコ”そして”ヒロコ”の若者4名に 丸谷夫妻にYUKIと私の計8名。 丸谷夫人は発展途上国の自立を支援するNGOを理事長で もっといろいろお話をしたかったのですが… なんせヒロコたちはビデオ撮影、私はデジカメ撮影、 ホームページの説明や丸谷はインタビューされたり、 もちろんコンサートを聴くのがメインですし、食事もしなければならないわけで、 アッというまに終ってしまいました。

”持つべきものは友” 私たちのテーブルを見て、しみじみ思いました。

来年も”友”を、そして”お客様”を… 大切にしていきたいと思っています、本年も本当にありがとうございました。 […]