2004年6月7日020号 私も年金未納ですが

茶番はあったもの予想通り年金法案は参議院でも与党の賛成多数で可決されました。 国民のコンセンサスも取らずに、なんでもなし崩しで強行採決する、今 の政権に私はウンザリして いますが、それを選んだのも我々国民です。 野党もイマイチ迫力に欠けます…なんてたって年金未納では、与野党大連合をしているのですから。 未納から出たサビです。

さて、エラソウなことを言っている私も、実は年金未納者です。(誰も驚かないでしょうが) でも「 知らなかった!」とか「うっかり忘れてた!」なんて言い訳はしません。 「払えなかった」正確にいうと「今も払えないまま…」なのです。 「保険を商売にしている人間がトンでもない、そんな代理店とは契約できない!」なんて言われたら ますます、払えなくなるので、そこのところはご慈悲のほどをお願いします!。(泣)

年金は最低25年以上支払っていないと一銭ももらえません。 私の計算ですと、あと8年分を収めないと 17年間払った保険料は、まったくムダになるのです。 私の年齢からいって、よっぽど追い込みを駆けなければ、かなり厳しい状態というわけです。 でも、これは自己責任だとしっかり自覚しています。

私の学生時代の友人のサラーリーマンは後2年ぐらいで定年を向かえます。 話題は退職金が減っただの、年金がどうしただの話で、商売柄ヒトのシュミレーションはするですが…、 私個人としては 、うらやましいような、気の毒なような複雑な心境です。 私なんぞは、退職金も年金も無縁な話で、その代わり死ぬまで働かなくてはならないダケの話です。

でも、ココに年金問題解決のカギがあるような気がするのです。 長年サラリーマンを勤め上げ、やっと労働から解放され老後はのんびり好き勝手に暮らしたい… という気持ちは、よ~く分かりますが死ぬまで平均20年間もあるのです。 このような人達が溢れかえる少子高齢化社会を公的年金だけで支えていくこと事態 常識的に 考えても困難なことではないでしょうか。

それを抜本的な見直しや、根本的なホンネの議論もせず、問題の先送りをしてどうしようというのでしょう。 これは【年金問題】だけでなく、これからの我が国の有り方 や生き方の問題だと思うのです。

貧しくしくても、楽しく仕事をしながら人生をエンジョイする方法なら…私には自信があるのですが(笑)

2004年5月31日019号 橋田信介さんを悼む

さて今回から、その時その時の私が思い浮かんだテーマを気ままに書こうと思います。 今までの週間KENの感想を伺うと、どうも意見が二つあるようなのです。 一つは「 ほんまにアホらしい!」…もう一つが「アホやけどオモロイ!」です。 急に関西弁になってしまいましたけど、アホらしさは共通しているようなのです(泣) で…今回は 少しおもむきを変えて重いテーマで【イラクの人質問題 】をとりあげ、 その原稿をほとんど書き上げた時に… もっと、もっと重いニュースが飛び込んで来ました。 イラクで戦場カメラマンの橋田信介さんと甥の小川功太郎さんが銃撃されたというニュースです。

実は、橋田信介さんの一人息子大介君と、我が家の一人娘ヒロコは保育園時代、6年間一緒のクラスだったのです。 保育園 の同窓は本人達以上に親同士が懐かしく、橋田家がバンコク(タイ)に引越してからも多くの 保育園仲間 がファミリーで橋田家を訪問したり、その消息は身近に感じていたのです。

最近ではテレビやマスコミでも、その活躍を目にする事が多くなりYUKIと「有名になってきたね」…と 話していた矢先の事件です。 ニュースを聞いた時に大変な衝撃を受けた事はたしかですが、不思議な事に悲しみよりも、 わけのわからぬ”怒り”が湧いてくるのです。

橋田氏は常に【戦争】に反対しながら、一人の人間として、優しい目線で悲惨な【戦場】を取り続けてきました。 国家が国益のために起こす【戦争】は,【戦場】 において常に個人が犠牲になるのです。 彼は【戦争】カメラマンではなく、あくまで【戦場】カメラマンだったのです。

日本がイラク戦争に”参戦”する事を決めた小泉さんは「危険なら行かない、安全なら行く」と言いました。 同世代の橋田さんは「安全なら行かない、危険なら行く」と 言いました。 そしてイラク へ行って橋田さんは死んでしまいました。

テレビのニュースで久しぶりに幸子夫人を見ました。 「幸子さんはとても個性的!」とウチの個性的YUKIが言うほどユニークで魅力的な人です。 彼女が毅然とした態度で微笑みを浮かべながら…でも目は潤んでいました、彼女らしいです。 ひ弱な印象だった大介君も見違えるように素敵な青年になっています。 二人は信介さん を誇りに、その意思を継いで、立派に生きてい くと思います。

私の手元に橋田さんが書いた一冊の本があります。 ロイター通信のカメラマンを している姪っ子のユリが「KENおじちゃん、この本面白いヨ!」と貸してくれた本です。 私が橋田さんを知っている事を話すと、ユリは興奮して「絶対に逢いたいから、紹介して!」といいました。 私も十数年逢っていないので、是非時間を作ってもらいヒロコもつれて逢いに行こうと思っていたのに…。

ユリから借りた本の題名は『イラクの中心でバカとさけぶ』です。 イラクの中心で…「戦争のバカヤロー!」と叫んで死んでいったような気がしてなりません。 橋田信介さんの、そして小川功太郎さんのご冥福を心よりお祈りします。

2004年5月24日018号 貧乏哲学

そしてヒロコは約5ヶ月のローマ留学を終えて意気揚々と帰ってきました! 最後の二週間はヨーロッパを 貧乏旅行で回ったようです。 お金が無かったので、限られた所にしか行けなかったようですが… お金がいくらあったって、限られたところしか行けないのです。 その分、自分の頭と知恵でいろいろやりくりする事が大切なのです。 そのような環境をあたえる事が親の務めなのです! だからお金が無いという事はとても良いことなのです! 妻を持ち”哲学者”になった私は長い貧乏生活で、ますます 哲学の道を極めていくのです。

なんや、かやと今回まで我が家の今日までの波乱万丈?な歩みをダイジェストで ご紹介させて頂きました、コレで…

なんで、我が家がビンボーなのか? なんで、ヒロコはローマにいったのか? なんで、YUKIはヘンなのか? そして、そしてKENがどれほど苦労をしているのか?

その、すべてが今までのコラムを読んでいただければ、ほとんど… おわかり頂けなかったでしょうが、私のトホホの気持ちだけでも判っていただければ これからも、生きる希望が湧いてきます。

さて、次号からは何を書くかまったく決めていませんが、その時、その時、思いつくテーマ を書いて行きたいと思います!

2004年5月17日017号 ケチケチ大作戦

ヒロコは一瞬、目がテンになったあと叫びました、「ヒドーイ」。 目には涙をためています。 その晩また家族会議です。 「我が家がビンボーだという事は知ってるだろうけど、それ以上にビンボーなのだ!」 私ははっきりと胸を張っていうコトではないので…小さな声で言いました。 まーそれからのコッチの話は〔009号・新聞配達〕での内容と、さほど変わっていません。 しかしヒロコは違います、あの頃は中学に入学したばかりの子供でしたが、今は おとなです。 「100万円のうち半分は使ったというなら許すけど、黙って全部つかっちゃとはヒドすぎる!」 そしてヒロコは続けました… 「私は絶対にローマに行く!その為には最低で80万円が必要だ、私はこれからアルバイトで50万円 稼ぐから30万円を用意しろ!」と親をキョウハク?するのです。 ここは黙ったてヒロコに従うしかありません。

さて大変です、10月・11月・12月の3ヶ月で30万円を用意しなければなりません。 やっと少しずつ借金を返すのに四苦八苦している時に、これ以上の借金は出来ません。 だからと云って、あの頃のように新聞配達をする気力も体力もありません。 そこで思いついたのが、お金を使わないと云う事です… 毎月10万円で3ヶ月で30万円がゲットできます!

さー大変です、「ケチケチ大作戦」の始まりです。 まず私が外に出ればお金がかかります…出ない事です。 そこで、まず以前から念願だったホームページ作りにしばらく専念する事にしました。 でも、家にいれば家で食べます、そこで家の中にある食材を食べつくす事から始めました。 …けっこうあるものです。 冷蔵庫には古い冷凍食品・肉・野菜、タッパーに入ったままで忘れさられた佃煮や梅干。 何時買ったのか定かでないインスタント食材・乾物類・缶詰も棚の奥から出てきます。 封を切って放置されたスパゲティだって、湿気た味付け海苔だって… コワゴワ食べると、けっこうイケマス、北朝鮮の事を考えたら大変なご馳走です! 何十年も飾ってあった高級ブランデーもついでに飲んじゃいました。 けっこう快感です、やってみると面白いですよ。(薦めてドーする) 食器棚の引き出しの底にへばりついた【永谷園のお茶漬けのもと】を見つけた感激なんて! フツウの生活を じゃあ味わえない喜びだって体験できるのです。 でも3人いれば1ヶ月で食いつくしてします、 それに私だって年末にかけても、家に閉じこもりぱなしといは行けません。 でも、ありがたい事です…親しいお客様のところに訪問して「最近どう?」なんてきかれちゃうと、 ツイ調子ににって『ケチケチ大作戦』をしゃべってしまうのです。 そしたら…とっても同情され(あきれられ)、ご馳走になったり、お土産までもらっちゃ ったり。 (保険を頂いたうえのハナシですヨ、感涙です!)

そんな皆様の暖かいご支援と、ノー天気な性格に支えられ? 涙の30万円!をヒロコに与え… じゃなかった、ほんの一部を返して、 1月11日からヒロコはローマに旅立っていきました。

2004年5月10日016号 テンプル大学

サルサとアルバイトと大学探しに明け暮れているヒロコが或る日… 「テンプル大学って知ってる?」と私にたずねました。 「あー知ってるよ、とっても良い大学だと思うよ…」 私は即座に答えました。 「エッどうして?」

話はそこから7年ほど前にさかのぼります。 場所は麻布十番(東京)のスターバックス・カフェです。 オーストラリア旅行から帰ったばかりの私は(その頃我が家も少しはリッチだったのですが…) 友人のWとお茶を飲みながら、土産話に花を咲かせていました。 席を立とうとした時、隣のテーブルにいた金髪のとても可憐な若い女性が、微笑めかけています。 「私ハ、オーストラリア人デス…今ノ話ハトテモオモシロカッタ、日本語ノ勉強ニモナッタ、アリガトウ」 ととても素直に嬉しそうに話し掛けてきたのです。 なんで東京にいるのか?と聞くと…近くのテンプル大学の学生だというのです。

若い女性に、しかも金髪の美女から話し掛けられたオジサン二人はすっかり舞い上がってしまい… 友人のWはおもむろに名刺なんか出しちゃって… 「この近くの麻布に住む者だけど、息子の英語の家庭教師を是非やってもらいたい!」 なんて頼んでいるのです。

その時の彼女のチャーミングな微笑みとテンプル大学の名前は…はる風にような爽やかさで しっかりと私の頭に残っていたのです。 したがって「テンプル大学って?」と聞かれ反射的に「良い大学」と答えたのですが… 「それじゃー答えになっていない!」とヒロコとYUKIに言われてしまい… また3人で麻布にあるテンプル大学の説明会に行く事になりました。

小さな予備校のような校舎ですが、本校は米国フィラデルフィアの州立大学で東京以外にロンドンとローマにも分校があります。

単位は本校・分校どこで取ろうと、行き来も自由に出来るという事です。 今は経済的理由(ずーとこの理由ばかりで情けないのですがトホホ)で厳しいが、 自力で稼いでも海外の大学に留学したというヒロコのニーズには合っていたようです。 そして1月(2001年)からテンプル大学の学生になったのです。

大学に入学するや『サルサ・クラブ』を立ち上げ… 授業は少人数でとっても楽しいらしく…シンヤとかロンとかナグワとかヒロコの口から飛び出すので 友達がかと思ったら教授のようです。(まー私もKENと呼ばれているのですけど…) クラブ活動・授業・そしてアルバイトは多義を極め…ヒロコの手帳は私の手帳なんぞ及びもつかないほど スケジュールがびっしり書き込まれているのです。

本校にいくのが目的だったヒロコ ですが…9.11のテロがあったり、教授からは日本校にいた方が 勉強になると言われ、留学の事は口に出さなくなりました。 そして私もYUKIもすっかり「ヒロコは留学はしない」と思うようになったのです。

ところが昨年9月、ヒロコは突然「1月から1学期間ローマ校に行く!」と言い出したのです。 お金は今まで3年間ほどのアルバイトで100万円ほどYUKIに預けてるから、それで行くというのです。 でも…YUKIは「ナイ」と答えました。

 

 

2004年5月3日015号 サルサ

この頃はヒロコは大学も決らずストレスも溜まっていたようです。 そして…何を思い立ったのか「サルサを習う!」と急に言い出したのです。

『サルサ』が最近流行りのラテンのダンスぐらいの認識は私にもありましたが、 私は「なんでサルサなの?」 とヒロコに聞きました。 「ストレス発散で楽しく踊れれば何でもいいんだけど、ラテンは血が騒ぐから…」 という事で新宿住友ビルの朝日カルチャーセンタ-の『サルサ教室』が レッスン料も安く、先生も外人だから決めたと言うのです。

「ラテンは血が騒ぐ!」…この言葉を娘のヒロコから聞いた時は、私の血も騒ぎました。 何を隠そう…私は!………… 拓殖大学ラテン・アメリカ研究会に4年間在籍していたのです!! そんな事を言っても…ヒロコも・ユキも・(誰も)「なんのこっちゃ?」とバカにするのです。 「じゃーそこで何をしたの?」と聞かれてしまうと「何をしたんだろう?」と素直に思ってしまうのは 少々情けないのですが…なにしろ楽しい青春時代を過ごしたのです。 そして、そのラテン・アメリカ的人生観が幸いしたのか?災いしたのか? 今でも貧しいながら楽しい人生を送っているのです。

サルサ教室に通いだしたヒロコは、我が家でもサルサの曲で練習をします。 それを聞いて私の血が騒ぎ、私はヒロコから少しだけサルサを教わる事になったのです。 ところが…厳しいのです!怖いのです!これが親に対する態度なの?と思うぐらいスパルタなのです! 血が騒ぐのと、リズム感とはどうも比例しないようなのです。 その練習風景をユキは涙を流して笑い転げながら見るのを日課にしているのです。

ある日、ヒロコは私を『サルサ教室』に連れていくと言い出したのです。 私は「お金が無い!」と言えばヒロコは「私のバイト代から払う!」と言い… 「着ていくモノが無い!」と言えば、ユニクロに連れていかれ… 「踊るとハラが出ててズボンが落ちる!」と言えば、サスペンダーを買わされ… ついに『サルサ教室』に行くハメになってしまったのです。

サルサの先生はクリスティーナという ドイツ人でフランス語とスペイン語とフラメンコとサルサを教えてながら絵画の個展を開く ニューヨークの名門ジュリーアード音楽院出身の美女で才女でパワフルでハッピーな… 納豆と焼き魚が大好きなヘンな外人です。 そのクリスティーナに私はナゼか気に入られてしまい…サルサの世界に拉致されるのです。

2004年4月25日014号 ヒロコのアルバイト

ブレント高校を卒業したらアメリカの大学に行きたい…そうヒロコは思っていたようです。 我が家にお金がない事は知っているので、奨学金が貰える大学を2・3決めていました。 それでも、アメリカの大学ともなれば奨学金が少々あったとしても厳しいものがあります。 ムリをして行かせても、途中で強制帰国させるハメになってもつまりません。 とりあえず、卒業したら帰国して国内や米国以外の大学も視野にいれて じっくり体制を整えて考えることで、ヒロコに納得してもらうしかなかったのです。

ヒロコの大学選びと同時に、少しでも資金をと…アルバイト探しも始めました。 ある日、インターネットからプリントアウトした求人広告をヒロコが私に見せました。 国際展示場(東京ビッグサイト)での英語対応の受付の仕事のように書いてあります。 求人先は荻窪のマンションにある小さな派遣会社のようです。 何といっても、フィリピンの高校に3年間行っていたので始めてのアルバイトです。 親バカかもしれませんが…アルバイトの面接場所まで車で連れて行きました。 マンションの一室に会社がある事を確認してヒロコにこう言い聞かせました。 まず、入った瞬間の雰囲気がちょっとでも胡散臭かったらダメ、 置いてある雑誌や社長・従業員の態度からも自分で判断しろ…と言い聞かせました。

私は車で待つこと1時間、ヒロコは嬉しそうな顔をして出てきました。 感じの良い女性の社長が一人しかおらず話しが弾んだそうです。 英語と日本語で自己紹介の挨拶をさせられて…日本語の方がヘンだと言われたそうです。 その晩、社長からも私に直々の電話があり、心配したようなところではなかったようです。

アルバイト初日にこんな事があったそうです。 英語対応で受付に座っていると、担当者が慌ててヒロコを呼びに来たそうです。 会場内で外国人の女性記者がヒステリックに怒っていて手が付けられないというのです。 通訳は会場にもいたのですが、何を言ってるか解らないとお手上げ状態だったのです。

そこにヒロコが呼ばれたわけですが…ヒロコは瞬間で女性記者が酷いイギリス訛りである事が判ったようです。 なんてたって、中学は日本の、高校はフィリピンの…訛りだらけのインターナショナル校で 英語を覚えたわけですから『訛り』にはメッポウ強くなっていたようなのです。 バイト初日で実力?が認められ、次ぎの日から事務局に抜擢?され それからヒロコの貴重なアルバイト先になっていったようです。

2004年4月18日013号 ブレント高校

可哀想にヒロコはバギオのホテルに到着するや、極度の下痢と高熱で寝込んでしまったのです。 翌日は少し回復、バギオのインターナショナル校・ブレント高校への入学手続きと入寮です。 ブレント高校は広い敷地に校舎や寮がコテッジのようにたたずみ、とても閑静で素敵なところです。 校長先生からじきじきに私たちこんな事をいわれました。 「娘さんとしばらくのお別れになるのだから今夜はお二人をディナーに招待したい」 私たち夫婦は正装して、はりきって学校に再び出かけたのですが…。 何の事はない、学生食堂で生徒と共に食事をするだけだったのです。 料理はピザにフライド・ポテトぐらいで、それを食べ盛りの学生がワッと取りにいくものですからアッというまに無くなってしまうのです。 もちろんワインやビールがあるわけでもなく、テーブルの前にデザートとして転がってるバナナを食べるしかありません。 しかし、そのバナナの美味しいこと、さすがフィリピンと涙がでるほどでありました。 ディナーと聞いてはりきちゃいましたけど…Dinnerって英語でたんに晩飯の事ですもんね。 そしてヒロコとしばしの別れです。 ヒロコに手をふられブレント高校を後にする時、真っ暗に暮れたキャンパスの…満天の空に流れる天の川が今でも忘れられない光景となっています。 フィリピンの食事にヒロコはなかなか馴染めなかったようです。 唯一、美味しく食べられるのが校内の売店で売っているシナモン・パン1個3ペソ(12円)が命の綱だったようです。 (それが しばらくヒロコの貨幣基準となり日本に戻った時全てがとんでもなく高いと怒 りまくっていました。) 日本から即席の味噌汁やラーメンもたくさん送りました。 でも、それはつかの間でした…若さです、すぐに慣れて順応してしまうのです。 3年後、卒業式に我々が再びバギオに訪れたときは、あっちのレストラン、こっとのレストランと連れまわし これは美味しいでしょ!最高でしょ!と言うのですが…私には?でしかありません。 そして、今でも「バギオの○○が食べたい!」と遠吠えをしているのです。 <h1>バギオの3年間はヒロコにとって青春の真っ只中で最高に楽しかったようです。 お金が無くて、しょうがなく行かした所でしたが、今となって見ると、それも良かった気がします。 フィリピン人をはじめ韓国・台湾の学生も多く、色々な視点で世界を見る事が出来たようです。 バギオは太平洋戦争で多くの日本兵がいたところでもあるのです。 日本語で書かれた石碑が郊外にあり、そこに学校の仲間と訪れたとき「ヒロコ、何て書いてあるの?』と と皆に言われ、難しい漢字を必死で読みながら英語で訳しているのを、みんなニコニコして聞いてたそうです。 ヘンだなと思って石碑の裏側を見ると英訳が書いてあり、皆はそれを見ながらヒロコの解説を聞いていたというわけです。 太平洋戦争や天皇・日本文化まで、いろいろな事を聞かれるので…日本の高校生以上に日本の事を勉強しなければならなかったようです。

2004年4月11日012号 ヒロコ フィリピンに!

「フィリピンなら安いから行かせて!」…ヒロコの執念です。 授業料から寮費まで含めて年間150万円位と資料には書いてあります。 たしかに今までが授業料だけで200万円でしたから、それと比べたら安いかも知れません。 しかし、海外ともなれば色々な出費も計算しなければなりません。

私がショックだったのはヒロコが中学を卒業したばかりで我々から離れて 独りで、まったく知らないフィリピンに3年間も行きたいと言った事です。 生まれてからずっと、何処へ行くのも三点セットと笑われたくらいの家族でした。 心の中では「いつかは親離れをさせなければ…」とは思っていたのですが 子供の方からサッサと親離れをしていくのですから…。 ここは、親として受けいれざるを得ないと決心したのです。

そうは言ってもまだ子供です。 笑ってしまったのはフィリピンに対する認識です。 おばあちゃんや廻りの人に「フィリピンに行くの」…と言うと ほとんどの人が「なんでフィリピンの高校に行くの?」と不信そうに聞かれるのです。 それがヒロコには不思議でならなかったようです。 ヒロコが通っていたインターナショナル中学にも何人かのフィリピン人の友達がいました。 その家族は皆んなとてもリッチな生活をしています… ヒロコはフィリピンはとても豊かな先進国だと思っていたようなのです。

高校はマニラから300Kほど北に行ったバギオという高原都市にあります。 入学の時は三点セットもしばらくはお預けという事で家族3人で行くことになりました。 私はまずヒロコにフィリピンがどんな国なのか、初めにしっかり認識して欲しいと思い マニラのホテルについてから街中を歩きまわりました。

裸足で物売りにくる子供、裸電球がぶら下った露天で貧しい食事をする人達 大き交差点に信号がな雑踏の中クラクションをうるさく鳴らし通りぬける車。 そして翌日マニラからバギオに向かう車から延々と見た景色も… ヒロコにとっては生まれて初めて見る景色ばかりでショックだったようです。

2004年4月4日011号 生保のロコハウス?

なんといっても欲がないのです。 これは性格で、いま現在もとんでもない貧乏で生活苦に喘いでいるのですが… でも人は私を見てこういうのです…「いつも悩みがなさそうで幸せそうですね」と。

そんな私ですがだんだん『生保のロコハウス』として注目されるようになっていきました。 いや大した事はないのです、損保の契約が少なかったので、ちょと生保が目立っただけなのです。

東京海上あんしん生命の商品や販売方法が私にあっていたことはたしかです。 それまで損害保険の傷害保険やゴルファー保険でも細かく分析して、お客様本位の 保険設定していたのですが採算ベースに合わずYUKIや同僚からも道楽に思われて いたようです。

なんだかんだといっても新聞配達よりは稼げるようになったことは確かです。 今では損害保険と生命保険はロコハウスの大きな二本柱になっているのです。

さてそんな事で、どうにかこうにかヒロコを途中退学させずにインターナショナル中学を 無事?卒業さすことだけは出来たののですが、 次は高校進学の問題が控えています。

ヒロコと仲の良い友達の多くは欧米の高校に留学、留学しない友人も国内のインターナショナル の高校に進学です。 しかし、中学を卒業さすだけでもヨレヨレになっている我が家に、そんな余裕はありません。 でもヒロコは日本の高校にもまともには行けないのです。 インター校は我が国では学校として認められていないのです(通学の学割も受けられません) したがって中学の卒業資格のないヒロコが日本の高校に行くとしたら【帰国子女】として 引き受けてくれる私立高校しかなく、そこに内定はしていたのですが…。

「フィリピンに行く!」…とヒロコが突然言い出したのです。 せっかく覚えて英語で授業を受けたいという強い思いがヒロコにあったようです。 そして、「ここなら安く行けるから…」と具体的な学校を自分で探し出してきたのです。