2004年3月29日010号 あんしん生命スタート

このままでは本業までだめになる…というアセリもありました。 でも新聞配達を止めたら確実に、その分の収入は減ります、 その分が保険で稼げるなら新聞配達は初めからやりません。 そのジレンマの中での2年間の新聞配達だったのです。 そんな矢先の東京海上の意見広告です。 『あなたの保険は、あなたの人生にあっていますか」?』 『ヒトが10人いれば10通りの保険があっていい。』……今でも鮮明に覚えています。

実は私は代理店を始めたときから生命保険は扱っており、生命保険大学の生命保険士 なんていう、わけの分らない資格まで取ってはいたのです。 なぜ生保もやっていたかというと、独立したのがバブルの頃で 「東京海上には一時払養老保険はないの?」と聞かれることがよくあるもので そんなビジネスチャンスを逃がしては、とF生命の保険を扱うようにしていたのです。

私は大変勉強好きで…(小学校から大学まで、まったく勉強しなかった反動で) F生命の商品は徹底的に勉強しました。 そしてお客様から保険証券を預かり、それを分析しお客様に分りやすく説明をするサービス もしていたのですが、その保険に問題があっても、それに変る良い保険がなく共済を紹介 する程度のほとんど趣味の世界でした。 そして生命保険が分れば分るほど、顧客ニーズからかけ離れた、ワンパターン定型の 生保商品や販売方法・体質にはウンザリしていたのです。

新聞広告には、こう締めくくられていました。 「東京海上と代理店は、あなたの人生のパートナーとして、あらゆるリスクに備えた ライフ・プランを、ともに考えていきたいのです。」 もう!この言葉には武者震いがするほどの感動です!

さて、その意気込みで新聞配達も止めたのですから、生命保険を猛烈に売りまくったか? いやいや、なかなか…そうは行かないのが私のいいとこ、じゃなかったダメなところ でありまして、しばらくは身内からの借金で食いつなぐトホホ生活です。 なんせ、勉強好きで…またまた徹底的な商品研究が今回からはパソコン駆使で パワーアップ…堂々!?半年が費やされるのです。 そして「コレは本物だ!素晴らしい!絶対に売れるぞ!」 と私は立ち上がったのです!(これで何度目でしょうか…)

で、それから生命保険を猛烈に売りまくったか? いやいや、なんてたって私のことですボチボチです。 でもボチボチがボチボチ続くようになり、ボチボチと収入になりだしていったのです。

2004年3月22日009号 新聞配達

「KENが約束通りに収入を上げてくださらないのが、すべての原因です!」 YUKIは私を激しく攻め立てます、ヒロコは目にいっぱい涙をためています。 「もうこのままではヒロコをインターナショナル校に通わす事が出来ません…」 と突然YUKIが言いだし、また家族会議になったのです。 入学から半年たって、ヒロコが楽しそうに語る学園生活を聞くのが楽しみになってきた矢先です。 ヒロコはもとより私も大変なショックでした。 私はのんきなもので、この時になって初めて学校にとんでもないお金がかかる事がわかったのです。 そうと知っていれば我が家の現状では、初めからムリだったのです。 なんせバブルのピークに買ったマンションの高金利が家計に大きくのしかかり、 キャリアウーマンだったYUKIはバブルがはじけ、ただのオバサンになっているのです。 でもYUKIは私が稼ぎさえすれば問題はない!…と思っているのです、マーたしかにソーですが… 何てたって不景気の先取りだけは、しっかりやっていた代理店です。 お得意様の倒産もあり売上を維持するだけでも大変な状態だったのです。

でも、めったに泣いた事のないヒロコが涙をこらえて、ただただ両親の話を聞くしかない 姿を見ていると、私の方が泣けてくるのです。 「よし!やるぞ!」私は決心したのです。

それから私は毎日午前3時に起きて朝刊の新聞配達です。 本業で稼げ…と言われても保険の仕事は朝から晩まで気合を入れて働いたからといって 必ず収入が増えるというものではありません。 第一そのような営業は私の保険代理店の経営理念と違ってきます。 確実に稼げて本業に支障をきたさないのは早朝の新聞配達しかない…と思ったのです。

新聞配達は1994年の11月から1996年10月まで約2年間続けました。 何でもエンジョイする性格の私は、毎日の朝食も旨く!結構楽しく!こなしました。 でも、どう慣れてもどうこなしても月10万円、年間120万円が限界です。 YUKIが私の向ける気配も、だんだん厳しいものになってきました(ホントーに怖いんですヨ) だからといって、夕刊も配って…牛乳配達して…ついでにヤクルトも…てなわけにはいきません。 毎朝3時の起床は夜の踏ん張りは利かないし、本業にも影響しだしました。

そんな矢先に、新聞に活字だけの一面広告が掲載されました。 10月からスタートする東京海上あんしん生命の広告です。 【おかしいな、人間が生命保険にあわせてる。】というタイトルをかこんで、なぜ東京海上 が生命保険をはじめるのか、その理由が書かれていました。 勿論、私は東京海上が生保を始めるのは知っていましたが、生保には消極的な考えでした。 なぜなら、あまりにも保険会社本位の我が国の生保事情に絶望していたからです。 しかし、この広告には私が普段思っていた理想的な生保販売のかたちが載っていたのです。 話半分にしても、これなら真剣にやってみる価値があると思ったのです。

新聞配達などやっているどころではありません。 「よし!やるぞ!」と私は再び決心したのです。

2004年3月15日008号 インターナショナル・スクール

先週は緊急レポート『吉野家のカレー』で話が中断してしまいました。 今ローマにいるヒロコにチャットでこの事を話すと「ヒロコより吉野家をとったんだ…」なんて 嫌味を言われてしまいました。 吉野家はあれからすぐ250円の『とん丼』を出して、巻き返しを図っているようです。 さて、話はインターナショナル・スクールです。 私だってインターナショナル・スクールの存在ぐらいは知っています。 しかし目の前にいる二人は、私をさしおいて、すっかりその気になっているのが気に入りません。 「で、入学試験は何時で、入学金はいくらかかるの?」私はYUKIに聞きました。 「え!なにも無い!…」私は後の”無い”に心が大きくなびきました(ヒロコは先の”無い”に…多分) 考えてみれば、外国の子女も親の都合で出入りする事もあるでしょうから、入試や入学金が 馴染まないのもたしかです。 「第一志望がソコなら、入試をどーのこーのという前にまずソコをあたるのが先決」 との私の意見で、早速お目当てのインターナショナル・スクールを訪ねることになりました。

1993年11月、小学校6年のヒロコとYUKIと3人で杉並にあるジャパン・インターナショナル・スクール(JIS) にむかいました、教務担当のMr.Parrとアポイントがとってあります。 その日は土曜日で生徒の姿はありませんでしたが、予備校のような小さな校舎ですが日本の学校とは 違う洒落た雰囲気が漂っています。 出迎えたMr.Parrはいかにも外国人?という大柄で頭の禿げ上がった人で私たちを明る出迎えてくれました。 もちろん英語で。

彼のまくしたてる英語を私はただただ微笑みながら聞くしかありません。 まー言ってる事の半分くらいはわかるのですが…。 中学で3年・高校で3年・大学で4年、計10年も一応英語を勉強したことにはなっているのですが…この程度です。 まして公立の小学校に普通に通い、普通の日本の家庭(チョット違いますが…)で 普通の日本人の両親(アッ、片方は宇宙人でした…)で育った娘が、いきなり英語だけの世界に ついていけるかが問題です。 しかし、とうのヒロコを見るとMr.Parの英語に動じることなく楽しそうに振る舞っているのです。

なんのことはない、それでMr.Parが「春からどうぞいらっしゃい!」といって私たちを送り出したのです。 学校をあとにするなりヒロコは小躍りして「受かった!受かった!」と大喜びです。 予備校に通い、暗い受験を覚悟していたヒロコにしてみれば【大不戦勝】といったところでしょう。 ヒロコははしゃぎながら友達に電話しています「わたしインターナショナルに受かっちゃった!」 何が受かっちゃただ…と思いながらも、まー私としても一安心というところでした。

そしてYUKIは珍しく私にやさしく、ささやきました… 「KEN…これから学校にお金もかかるのですから、今以上に頑張って稼いでくださいネ」 とうぜん私も明るくこたえます「うん、頑張るヨ」 この一言が…その10ヶ月後に大変な事になるのです。

2004年3月8日007号 緊急レポート! 吉野家のカレー

3月3日ひな祭り 私はあの吉野家のカレー丼なるものを食べてしまいました。 「あんな物は食べるものか!」と心の中では密かに思っていたのですが… 牛丼280円と比べれば割高でも、350円での外食にはまだ魅了があり負けて?しまったのです。

店内は活気がなく4名の先客がカウンターにまばらに座っていました。 メニューにはカレー丼の並と大盛以外にいくら鮭丼・麻婆丼がありましたが、私は迷わずカレー丼の並を注文しました。 「並一丁!」…やっぱりカレー丼が牛丼に変って吉野家のメインメニューである事がわかります。 なんだか店の雰囲気までが今までと違うと思っていたのですが、その理由がわかりました。 今までだったら、お客様=食べている人だったのですが、誰もボーと注文品を待ってるか食後の一服をしている人達だったのです。 厨房のお兄ちゃんは今、いくら鮭丼と麻婆丼にカレー丼が注文されてんてこ舞いをしているのでしょう(多分) 私はゆっくりと手洗いを済ましてカウンターに戻ると、カレー丼が大きなトレーに乗せられこっちに運ばれてきます。 何でトレーで?  その理由はトレーがカウンターに置かれた時に解明しました、何と5つのアイテムが乗っているのです。 カレー丼・お冷や・お茶それにプラスチックのレンゲとプラスチックの小さな札が大きなトレーに無造作に転がっているのです。 それにしても寂しい光景です、あまりの寂しさの記念にデジカメに収めたい衝動に駆られたほどです。 トレーの大きさも吉野家には馴染みません、セルフサービスの食堂にあるような物です。

吉野家と云えば、活気のある狭いスペースで、素早く「お待たせ!」としかも両手で丁重に置かれた牛丼に紅生姜をいっぱい 添え、割り箸をわって、左手で暖かいドンブリをしっかり抱えハフハフとたいらげるのが正しい牛丼の食べ方だと、【牛丼道】を(勝手に) 追求する私は信じてやまないのです。 そして消費税込みの280円ピッタリをカウンターにおき「ご馳走様」と店を後にする時… 「ああ生きててよかった!吉野家よありがとう!よしやるぞ!」とファイトが沸いてくるのです。

しかし、これは何なのでしょうか? まず、お冷やです、これを見ただけでその店のカレーに対する姿勢が見えてきます。 小さな安っぽいグラスに生ぬるい水、一応カレーだから水を付けましたという事なのでしょう。 これを見ただけでもカレー丼の味に不安を与えてくれます。 プラスチックのレンゲも悲哀が漂います、それに何でレンゲでカレーを食べなくてはならないのでしょうか。 プラスチックの札には【カレー丼並】と書かれた紙切れがセロテープで貼ってあります。 牛丼だけなら店員は食べ終わったドンブリをみて並・大盛り・特盛りを判別して勘定が出来たのでしょうが…。 それにしても文化祭の模擬店だってもうちょっとセンスのあるものを用意するのではないかと思ってしまいます。 お茶も本来なら最初に出てくるものではないでしょうか。 そして肝心のカレー丼です。

まず、ドンブリに入ったカレー丼なるものを食べた記憶がありません、すなわち初めて食べるのです。 たしかに箸では食べづらく、スプーンを突っ込むのも違和感があり、レンゲという事になったのでしょう。 いよいよドンブリにレンゲを入れます! あたりまえの事ですがカレーが上にありライスはその下にあります。 でも牛丼なら汁が下のライスまで沁みているのですがカレー丼はしっかりと上下がセパレーツになっており 白いライスはあくまで白く奥深くあるのです。 このまま食べ進めば上のカレーが底のライスと交わらないまま、最後にライスだけが残る惨状が予見できます。 それを克服するにはプラスチックのレンゲで奥深くライスをほじり、まんべんなく掻き雑ぜなくてはならないのです。

カレーの醍醐味は…大きなお皿にライスを平たく盛って、そこにカレーを上から好みの分だけ注ぎ、そのままざっくりと 大きなスプーンですくい上げ大きな口をあけてパックリと食べる…これが正しいカレーの食べ方だと【カレー道】を(勝手に) 追求する私は信じてやまないのです。

しかし、しかし…ドンブリでぐちゃぐちゃにかき合わされた”物体”をプラスチックの角の角張った(ラーメンについてくるような) レンゲで口に注ぐわけですが、そのレンゲの角にご飯粒が残って出てくるのです。 そして、そして…肝心な味ですが、云うまでもなく予想的中です。 カレーの辛さも風味ない、ただ玉ねぎ(牛丼で使用していた)と豚肉の薄いスライスが入っただけの気が抜け食べ物です。

吉野家はやっぱり牛丼です、牛丼一筋を売り物にしているのに、何でこんなモノを350円で売るのでしょうか。 だったら350円でも400円でも450円でも国産牛を使ってでも牛丼を売れないのでしょうか。 それがどうしても出来ないなら当分店を閉店する位の覚悟があってもいいのでは? 「もっと哲学を持って経営せよ!」とすっかり哲学者!?になってしまった私は叫ばずにおれないのです。

私は350円を力なくカウンターにおき「ご馳走さま」とささやき店を後にしました。 「吉野家のアホ」と、心のなかで呟きながら…。

2004年3月1日006号  ヒロコ

「ロコハウスのホームページなのだから、くだらないことばかり書かないで…」 どうもYUKIが不機嫌になってきたようです。 でも「保険ばかりで、こんなホームページ誰も読まない!」というYUKIの”ご意見”を取り入れて この『週刊KEN』を スタートしたのです…でもたしかにこのままですと『週刊YUKI』になりそうですネ。 では我が家の唯一の肉親、宇宙人とのハーフである一人娘のヒロコについて触れておきましょう。

第3号で”よくしゃべる家族”から逃げ出してローマに行っちゃったと書きました。 (それでも毎晩(ローマでは昼)パソコンで家族3人チャットで1時間ほどの会話をしているのです) で、なんでローマか?というと…現在ヒロコはテンプル大学という米国フィラデルフィアの州立大学の 東京校(港区)に在籍しており、そのローマ校に1学期だけ授業を受けにいったのです。

で、なんでテンプル大学か?というと…高校の3年間をフィリピンのインターナショナル校に行って しまい、日本の大学の受験資格がなかったのです。 で、なんで本校(米国)でなく東京校か?というと…経済的問題 、それだけです。

で、なんでフィリピンの高校か?というと…中学の3年間を東京のインタナショナル校に行って しまい、日本の高校の受験資格がなっかたのです。 で、なんでフィリピンか?というと…これも経済的問題で、どうしても高校もインターナショナル校に行きたい というヒロコ自身の強い意志から自分で探し選んだのです。

で、なんで中学がインターナショナル校か?というと…これはYUKIの陰謀?!だったのです。

ヒロコは1982年1月1日、YUKIの実家宮崎市で元旦の早朝に生まれました。 共働きだったので生後6ヶ月で保育園に、小学校は3年生まで学童保育通いです。 私も積極的に行事に参加しいろいろな役員も引き受けました。 私が飲食店経営に失敗し40歳で保険代理店の道を選んだのも、ヒロコの為の自由な時間が欲しかったからです。 代理店名もヒロコのロコからとったのです。

小学校の高学年になると塾通いです、私は塾にも興味がなく中学も公立でいいと思っていたのですが YUKIは絶対に私立に入れたいと思っていたのです。 それでも塾の父母会にも、ほとんど私が出席していました。 6年生の秋、塾の父母会で先生から「どこを受験するかお決まりですか?」と聞かれたのですが 私は具体的な返事が出来ず、その夜緊急家族会議を開いたのです。 そしてYUKIが言いました「インターナショナルに行かそうと思っているの」 ヒロコも横でうなづいているのです。 「なんだ?そのインターナショナルってのは?」

2004年2月23日005号 YUKIは宇宙人

「そんなユキとなぜ結婚したのか?」…よく聞かれます。 たぶん赤い鎖じゃなかった赤い糸で結ばれていたのでしょうが、答えになりませんネ。

YUKIを紹介したのは私の友人でした、彼の事務所の隣にYUKIが勤める小さな 貿易会社があったのです。 友人は私にこう言いました「とても上品で明るく教養あふれる日本的美人」だと。 さっそく新宿の喫茶店で二人っきりで逢うことにしました。 友人の言葉どうり「ていねいな言葉使い、私の話に目をいっぱいに大きくして聞き入れる、しとやかさに ひかれるものがありました。 私は調子に乗って、その頃カラオケに凝っていて当時大ヒットしていた八代亜紀の『雨の慕情』を 振りを交えて口ずさむと、笑い転げるように喜んでくれるのです。

でも、これはずっと後で判るのですがYUKIはカラオケも演歌もまったく興味がないどころか”大キライ”だったのです。 今にして思えば、その時のYUKIは”係数ゼロの話題”を頭は真っ白の状態で聞き流しながら 目の前にいる珍しい生き物(すなわち私のこと)の姿がただただ面白かったのでしょう。 その時にYUKIが発した言葉は今にして思えば象徴的だったのですが…。 「ところで八代さんってどのような方なのですか?」

私は結婚してしばらく悩みました。 YUKIを紹介した友人の言葉にウソはありません。 誰が見ても淑やかで明るく遠慮深く慎ましいところはあるのです…でもでもゼッタイにヘンなのです。 そんなある時、雑誌の血液型相性の記事が目にとまったのです、私はO型でYUKIはAB型です。 そして、この血液型カップルの相性が見出しになってなっていたのです。 『〜宇宙人の関係〜』…私は目からウロコが音をたてて落ちていったのです。 「そうか!YUKIは宇宙人だったんだ!だったら違っていてあたりまえじゃないか!」 そして、そんな中で分かり合えるものが出来ていったら、とてもハッピーじゃないかと。

ソクラテスは言いました。 「男は良妻を持てば幸福になれる。○妻を持つと哲学者になれる。」と。 ○の部分は恐ろしくてココでは書けません、それにYUKIを○妻とは思っていません(決して!決して!) でも、ソクラテスの言葉はあったているような気がします(あ〜ナンテコトを書いているのかボクは) その時から私は決めたのです、YUKIを宇宙人だと信じて疑わないことを! 私の哲学的思考は日々深みを増し、このような学術的文学的作品が書けるまでの人間的成長を遂げるのです。

2004年2月16日004号 たこのはなし

私がYUKIと結婚するちょっと前の話です。 スーパーの鮮魚売り場の”たこ”を私が「美味しそうだネ」と言ったことから”事件”は起きたのです。 YUKIは大きな声で叫んだのです「エッ!た・たっこってあの変な生き物!た・食べれるんですか!」と。 店員もお客様も笑っています、私はYUKIの手を引いて売り場を逃げ出すように後にしました。 それから、二人っきりになって大変です。 「たこを食べたことはないのか?」「あんな気持ちの悪いもの食べるわけないでしょ!」 「寿司の盛り合わせには必ずあるけど…」「お寿司は食べなし、宮崎(YUKIの実家)にはない!」 の一点張りで、日本の食文化に根ざした”たこ”の存在を一切認めないのです。 しかも、この国で三十余年も暮らし続けている純粋な日本人がです。

それから数ヵ月後、YUKIの宮崎の実家に初めて訪問した時、早速お寿司の盛り合わせと出会わせました。 そこにはごく普通に…ごくあたりまえに…たこもあるのです。 私は恐る恐るお義父様に聞きました「昔は宮崎には”たこ”は無かったのですか?」 お義父様は「宮崎にだって”たこ”ぐらいは昔からおる!」と不機嫌そうに一括されてしまいました。 結婚の挨拶に来るそうそうバカな事を聞く、とんでもない奴だとお義父様は思われたことでしょう。 でも、とんでもないのはYUKIなのです。   養老孟司の『馬鹿の壁』という本で、人間の脳は計算機のようなもので、脳の中にある”係数”が外部からの  情報と掛け合わされて認識する仕組みになっており、その”係数”がもしゼロであったら外からどんな多くの 情報があっても、ゼロと掛け合わされるので答えはゼロ、すなわち何を見ても、何を聞いても認識されない ことになる…というような事が書いてありました。 すなわちYUKIは食べ物に対する事はほとんど興味がなく、係数ゼロがとても多い人だったのです。 もう二十余年一緒に生活していますが係数は0.2ぐらいには上昇したものの、未だに何を食べて生きいるのか 正体不明なのです。

そして、もうひとつ係数ゼロのジャンルがあるのです。 それは同世代であれば懐かしいテレビや映画・流行歌の話が出来そうですが、まったく通じないのです。 元祖テレビっ子で芸能通の私が少しでも、その頃の話題や流行歌を口にすると 「ほんとうに、そんなくだらないコトをよくご存知なのですね」と心からバカにされてしまうのです。

2004年2月9日003号 夫婦の会話

妻に対して敬語を強要されている私ですが、娘からはKENと呼ばれています。 これは娘が赤ん坊の時から妻は「今日はKENがこんなことをするのよ、いやよねー」 なんて話かけていたのですから、娘はしゃべりだした時からKENなのです。

娘が塾の電話を借りて「KENいる?」と母親に話しているのを聞いた先生から 「ヒロコさん弟がいたっけ?」と言われたこともあったようです。 で…妻は『お母様』とか『母上』とか呼ばせているかといえば、一応平等にYUKIと 呼ばしているのです。

ようするに妻の考えは『家族はすべからく平等』であり『父権・亭主関白』なんぞ クソクラエという人生哲学があるようなのです、タブン。 まーそれならそれでいいのですが、どうも私が最も低い地位にいるような気がして ならないのです…この件についてはおいおいに告発じゃなくて愚痴らせていただければ と思っています。 さて、そのKENとYUKIですが…娘に言わせれば「私が知る限り、もっとも会話の多い夫婦」 だそうです。 22歳の娘がどのくらいの夫婦をしっているかしれていますが、「それは誉めているのか?」 と聞くと「ただうるさいだけ」とニベもないのです。 でも57歳の私が知るかぎり「もっとも会話の多い父と娘」でもあるのです。 よーするによくしゃべる家族のようなのです。 娘は「もうこれじゃ勉強できない!」と先月からローマに行ってしまいました。

残されたKENとYUKIは毎日どのような会話をしているのか? それは政治・経済・金融・教育から国際問題まで『朝まで生テレビ』も顔負けするバトル… じゃなくて楽しい夫婦の会話(私は言葉使いに細心の注意しながら)が繰り広げられているのです。 そうそう忘れてました!そこにロコハウスの仕事の話が加わるので、あっというまに時間がたって しまうのです。 このように高尚?なテーマは多義にわたるわけですが… まったく噛合わない、まったく会話にならない、とてもポピュラーなテーマが KENとYUKIにはあるのです。

2004年2月2日002号 妻への言葉使い

先週の創刊号!一回目の原稿は、モーツワルトが天から舞い降てくる旋律をただ五線譜に書カきなぐって作曲したと言われるように、 まったく推敲なしで一気に書き上げました(むちゃくちゃレベルが違いますが気持ちとして理解してください) ようするに、私自身の雑念や脚色はまったくない、数日前の会話そのままなのです。

しかし、妻はその原稿を一瞥するや無表情に 「もうちょっと丁寧な会話にされたらいかがですか」と言い捨てるのです。

その昔、私が代理店研修生の時に、隣のデスクの同僚からこんな事を言われました。 「角倉さん、今電話してたの奥様とですか?いつも奥様にはそのような言葉使いを されているのですか?」と不思議そうに聞いてくるのです。 私は何のことか解らず「どうして?」と聞きかえすと 「だって角倉さん、お客様にだっていつも親しそうに話されているのに奥様には すごい敬語で話すのでびっくりしますヨ!」と言うのです。 なるほど、自分ではもう意識していなかったのですが、結婚当初に妻から 「夫婦は他人なのだからお互いを尊重し言葉使いは神経を使うように!」 と私に強釘を刺サされたのは衝撃的でしたが、もう無意識に話すようになっていたのです。 それでも先日、二人で出かける際、先に玄関で待っている私が準備に手間取る妻に対し 「サッ行イくよ!」と軽く言ってしまったのです。 「わたしはイヌじゃない!」と怒りが納まるまで耐えるしかないのです。

さてさて、第一号の会話です。 たしかに、自分で読み返してみても、アノ恐れ多い?!妻に対してけっこうゾンザイな 言葉で抵抗しているなと自分がたくましく?思えちゃうのです。 これじゃ妻が不愉快がっても不思議ではありません。 そしてホームページにこのような私のコーナーを持たせることに積極的で なかった妻の本音も見えてきたような気がします。 でもこのようなコーナーを持った以上、妻の強い検閲と言論統制トのなか ジャーナリストとして…じゃなっかた保険屋として…じゃなくて 男として…こういう表現は妻は嫌うので…夫として…じゃなくてKEN個人として (だんだんスケールが小チイさくなってきましたがトホホ)…弾圧と戦いながら…じゃなくて ささやかな抵抗をこころみながら次号へと進むのであります!!!

2004年01月26日創刊 『週刊KEN』創刊!

妻 「こんなホームページ誰もみないわヨ!」 KEN 「冗談じゃない、アクセスカウントもいってるし評判だって悪くない!」 妻 「専門家や保険オタクにうけたって一般のお客様が見なけりゃ意味がないじゃない!」 KEN 「だからこそ噛み砕いてわかりやすく書いてるんじゃないか!」 妻 「表やグラフや文章ばっかりでまるで論文みたい、普通の人は読む気しないわヨ!」 KEN 「じゃマンガでも書けって言うのか!」 妻 「あなたの考えは間違ってる、、、なんてくどくど言われたら誰だって不愉快ヨ!」 KEN 「どこにそんな事を書いたっていうんだ、保険は目に見 えない商品で思いと違う保険に 保険料を払い続けている人がとても多いから、そこを丁寧に書カいてるだけじゃないか!」 妻 「なにか説経臭くてゲッて感じヨ!」 KEN 「バカ言ってんじゃないよ!お仕着せでない、本音でお客様の立場にたった、ホームページを作りたいという僕の気持ちがわからないのか!」 妻 「あんな保険のことばかり書カいたホームページじゃ誰も見ないって言ってるの!」 KEN 「保険屋が保険屋のホームページに保険の事を書いて何が悪いって言うんだ!」 妻 「何よ開き直ってバカみたい、、、たとえばエッセイのようなもの、あなた書くのスキじゃない!」 KEN 「今頃になってなに言ってんだよ、ホームページの企画のとき日記みたいの書くっていたら真っ先に反対したじゃないか!」 妻 「そらそうよ、あなたは何でも仕事そっちのけで凝るタイプだから、毎日毎日何を書こうか? なんて言われたらたまんないわ!それに読むほうだってウンザリよ!」 KEN 「じゃーなぜ今になって言うんだよ!」 妻 「このままじゃホームページを人に薦める気にもならないじゃやない、、、」 KEN 「ヨッ!今度は書いてもいいって事になったんだ!」 妻 「せいぜい週イチぐらいのペースで何か書いてみたら、保険以外のことでネ」 KEN 「毎週月曜日発行の『週間KEN』ってどうだ?面白そうだろう、ヨシやるぞ!」 妻 「あなたってほんとノーテンキでいいわよね、長生きするわ!」 てなわけで、『週間KEN』を毎週月曜日発行するはこびとあいなりました! 侯うご期待! […]