2004年4月25日014号 ヒロコのアルバイト

ブレント高校を卒業したらアメリカの大学に行きたい…そうヒロコは思っていたようです。 我が家にお金がない事は知っているので、奨学金が貰える大学を2・3決めていました。 それでも、アメリカの大学ともなれば奨学金が少々あったとしても厳しいものがあります。 ムリをして行かせても、途中で強制帰国させるハメになってもつまりません。 とりあえず、卒業したら帰国して国内や米国以外の大学も視野にいれて じっくり体制を整えて考えることで、ヒロコに納得してもらうしかなかったのです。

ヒロコの大学選びと同時に、少しでも資金をと…アルバイト探しも始めました。 ある日、インターネットからプリントアウトした求人広告をヒロコが私に見せました。 国際展示場(東京ビッグサイト)での英語対応の受付の仕事のように書いてあります。 求人先は荻窪のマンションにある小さな派遣会社のようです。 何といっても、フィリピンの高校に3年間行っていたので始めてのアルバイトです。 親バカかもしれませんが…アルバイトの面接場所まで車で連れて行きました。 マンションの一室に会社がある事を確認してヒロコにこう言い聞かせました。 まず、入った瞬間の雰囲気がちょっとでも胡散臭かったらダメ、 置いてある雑誌や社長・従業員の態度からも自分で判断しろ…と言い聞かせました。

私は車で待つこと1時間、ヒロコは嬉しそうな顔をして出てきました。 感じの良い女性の社長が一人しかおらず話しが弾んだそうです。 英語と日本語で自己紹介の挨拶をさせられて…日本語の方がヘンだと言われたそうです。 その晩、社長からも私に直々の電話があり、心配したようなところではなかったようです。

アルバイト初日にこんな事があったそうです。 英語対応で受付に座っていると、担当者が慌ててヒロコを呼びに来たそうです。 会場内で外国人の女性記者がヒステリックに怒っていて手が付けられないというのです。 通訳は会場にもいたのですが、何を言ってるか解らないとお手上げ状態だったのです。

そこにヒロコが呼ばれたわけですが…ヒロコは瞬間で女性記者が酷いイギリス訛りである事が判ったようです。 なんてたって、中学は日本の、高校はフィリピンの…訛りだらけのインターナショナル校で 英語を覚えたわけですから『訛り』にはメッポウ強くなっていたようなのです。 バイト初日で実力?が認められ、次ぎの日から事務局に抜擢?され それからヒロコの貴重なアルバイト先になっていったようです。

2004年4月18日013号 ブレント高校

可哀想にヒロコはバギオのホテルに到着するや、極度の下痢と高熱で寝込んでしまったのです。 翌日は少し回復、バギオのインターナショナル校・ブレント高校への入学手続きと入寮です。 ブレント高校は広い敷地に校舎や寮がコテッジのようにたたずみ、とても閑静で素敵なところです。 校長先生からじきじきに私たちこんな事をいわれました。 「娘さんとしばらくのお別れになるのだから今夜はお二人をディナーに招待したい」 私たち夫婦は正装して、はりきって学校に再び出かけたのですが…。 何の事はない、学生食堂で生徒と共に食事をするだけだったのです。 料理はピザにフライド・ポテトぐらいで、それを食べ盛りの学生がワッと取りにいくものですからアッというまに無くなってしまうのです。 もちろんワインやビールがあるわけでもなく、テーブルの前にデザートとして転がってるバナナを食べるしかありません。 しかし、そのバナナの美味しいこと、さすがフィリピンと涙がでるほどでありました。 ディナーと聞いてはりきちゃいましたけど…Dinnerって英語でたんに晩飯の事ですもんね。 そしてヒロコとしばしの別れです。 ヒロコに手をふられブレント高校を後にする時、真っ暗に暮れたキャンパスの…満天の空に流れる天の川が今でも忘れられない光景となっています。 フィリピンの食事にヒロコはなかなか馴染めなかったようです。 唯一、美味しく食べられるのが校内の売店で売っているシナモン・パン1個3ペソ(12円)が命の綱だったようです。 (それが しばらくヒロコの貨幣基準となり日本に戻った時全てがとんでもなく高いと怒 りまくっていました。) 日本から即席の味噌汁やラーメンもたくさん送りました。 でも、それはつかの間でした…若さです、すぐに慣れて順応してしまうのです。 3年後、卒業式に我々が再びバギオに訪れたときは、あっちのレストラン、こっとのレストランと連れまわし これは美味しいでしょ!最高でしょ!と言うのですが…私には?でしかありません。 そして、今でも「バギオの○○が食べたい!」と遠吠えをしているのです。 <h1>バギオの3年間はヒロコにとって青春の真っ只中で最高に楽しかったようです。 お金が無くて、しょうがなく行かした所でしたが、今となって見ると、それも良かった気がします。 フィリピン人をはじめ韓国・台湾の学生も多く、色々な視点で世界を見る事が出来たようです。 バギオは太平洋戦争で多くの日本兵がいたところでもあるのです。 日本語で書かれた石碑が郊外にあり、そこに学校の仲間と訪れたとき「ヒロコ、何て書いてあるの?』と と皆に言われ、難しい漢字を必死で読みながら英語で訳しているのを、みんなニコニコして聞いてたそうです。 ヘンだなと思って石碑の裏側を見ると英訳が書いてあり、皆はそれを見ながらヒロコの解説を聞いていたというわけです。 太平洋戦争や天皇・日本文化まで、いろいろな事を聞かれるので…日本の高校生以上に日本の事を勉強しなければならなかったようです。

2004年4月11日012号 ヒロコ フィリピンに!

「フィリピンなら安いから行かせて!」…ヒロコの執念です。 授業料から寮費まで含めて年間150万円位と資料には書いてあります。 たしかに今までが授業料だけで200万円でしたから、それと比べたら安いかも知れません。 しかし、海外ともなれば色々な出費も計算しなければなりません。

私がショックだったのはヒロコが中学を卒業したばかりで我々から離れて 独りで、まったく知らないフィリピンに3年間も行きたいと言った事です。 生まれてからずっと、何処へ行くのも三点セットと笑われたくらいの家族でした。 心の中では「いつかは親離れをさせなければ…」とは思っていたのですが 子供の方からサッサと親離れをしていくのですから…。 ここは、親として受けいれざるを得ないと決心したのです。

そうは言ってもまだ子供です。 笑ってしまったのはフィリピンに対する認識です。 おばあちゃんや廻りの人に「フィリピンに行くの」…と言うと ほとんどの人が「なんでフィリピンの高校に行くの?」と不信そうに聞かれるのです。 それがヒロコには不思議でならなかったようです。 ヒロコが通っていたインターナショナル中学にも何人かのフィリピン人の友達がいました。 その家族は皆んなとてもリッチな生活をしています… ヒロコはフィリピンはとても豊かな先進国だと思っていたようなのです。

高校はマニラから300Kほど北に行ったバギオという高原都市にあります。 入学の時は三点セットもしばらくはお預けという事で家族3人で行くことになりました。 私はまずヒロコにフィリピンがどんな国なのか、初めにしっかり認識して欲しいと思い マニラのホテルについてから街中を歩きまわりました。

裸足で物売りにくる子供、裸電球がぶら下った露天で貧しい食事をする人達 大き交差点に信号がな雑踏の中クラクションをうるさく鳴らし通りぬける車。 そして翌日マニラからバギオに向かう車から延々と見た景色も… ヒロコにとっては生まれて初めて見る景色ばかりでショックだったようです。