可哀想にヒロコはバギオのホテルに到着するや、極度の下痢と高熱で寝込んでしまったのです。 翌日は少し回復、バギオのインターナショナル校・ブレント高校への入学手続きと入寮です。 ブレント高校は広い敷地に校舎や寮がコテッジのようにたたずみ、とても閑静で素敵なところです。
校長先生からじきじきに私たちこんな事をいわれました。 「娘さんとしばらくのお別れになるのだから今夜はお二人をディナーに招待したい」 私たち夫婦は正装して、はりきって学校に再び出かけたのですが…。 何の事はない、学生食堂で生徒と共に食事をするだけだったのです。 料理はピザにフライド・ポテトぐらいで、それを食べ盛りの学生がワッと取りにいくものですからアッというまに無くなってしまうのです。 もちろんワインやビールがあるわけでもなく、テーブルの前にデザートとして転がってるバナナを食べるしかありません。 しかし、そのバナナの美味しいこと、さすがフィリピンと涙がでるほどでありました。 ディナーと聞いてはりきちゃいましたけど…Dinnerって英語でたんに晩飯の事ですもんね。 そしてヒロコとしばしの別れです。 ヒロコに手をふられブレント高校を後にする時、真っ暗に暮れたキャンパスの…満天の空に流れる天の川が今でも忘れられない光景となっています。 フィリピンの食事にヒロコはなかなか馴染めなかったようです。 唯一、美味しく食べられるのが校内の売店で売っているシナモン・パン1個3ペソ(12円)が命の綱だったようです。 (それが しばらくヒロコの貨幣基準となり日本に戻った時全てがとんでもなく高いと怒 りまくっていました。) 日本から即席の味噌汁やラーメンもたくさん送りました。 でも、それはつかの間でした…若さです、すぐに慣れて順応してしまうのです。 3年後、卒業式に我々が再びバギオに訪れたときは、あっちのレストラン、こっとのレストランと連れまわし これは美味しいでしょ!最高でしょ!と言うのですが…私には?でしかありません。 そして、今でも「バギオの○○が食べたい!」と遠吠えをしているのです。 <h1>バギオの3年間はヒロコにとって青春の真っ只中で最高に楽しかったようです。 お金が無くて、しょうがなく行かした所でしたが、今となって見ると、それも良かった気がします。 フィリピン人をはじめ韓国・台湾の学生も多く、色々な視点で世界を見る事が出来たようです。 バギオは太平洋戦争で多くの日本兵がいたところでもあるのです。 日本語で書かれた石碑が郊外にあり、そこに学校の仲間と訪れたとき「ヒロコ、何て書いてあるの?』と と皆に言われ、難しい漢字を必死で読みながら英語で訳しているのを、みんなニコニコして聞いてたそうです。 ヘンだなと思って石碑の裏側を見ると英訳が書いてあり、皆はそれを見ながらヒロコの解説を聞いていたというわけです。 太平洋戦争や天皇・日本文化まで、いろいろな事を聞かれるので…日本の高校生以上に日本の事を勉強しなければならなかったようです。