2007年05月14日173号 今さら、こんなモノを(^_^;)

先日、わたし宛に宅急便が届きました。 差出人はオリックス自動車・レンターカー営業本部・北海道営業部です。 そうです!…北海道新千歳空港の日本最大級レンター・カー営業所のたまたま第一号のお客様に なってしまった事を先月の169号でお伝えしましたが、その時の記念品が届いたのです。

この時にリッパなのし袋の【目録】を渡されていて、実はその日に札幌のホテルで開けてみました。 そうしたら4つ折にした大きな和紙が白紙のまま入っていたのです。 いくらなんでも、そりゃないだろうと営業所に電話をしたところ 「旅の途中で記念品をお持たせしては、荷物になると思い目録にさせて頂きました。 また何をお渡しするか決まっておりませんので目録は白紙で御座いましたが 記念品は後日ご自宅にお届けされますので楽しみにお待ち頂ければと思います。」 …とナンだか白紙の目録は当然といった口調なのです。

”ただ一方的に貰う立場”ですからエラソウな事はいえません。 「ありがとうございます」と私はケータイを持ってアタマを下げました。 北海道ってほんとうにノドカでいいよね…YUKIと笑ってしまいました。

でも「楽しみにお待ち下さい!」と言われれば単純に楽しみにしちゃうタイプの私は なかなか届かない記念品に夢を膨らましていたのです。 そして、ついに届けられた玉手箱のようなサイズの箱を開ける時がやってきたのです。

なんだか重くもなく、軽くもなく、微妙な重さの箱を開けて、出てきたのは サインが入った野球ボールの展示台と、その球団関連の本が2冊入っているのです。 それが、どこの球団かはスグに判りましたが、 「今さら!…」と笑うしか無い、今の私にはまったく欲しくないものだったのです(^_^;) これが10年ほど前なら大喜びしたのでしょうが…。

プロ野球・オリックス球団の外人監督のサインと、2007年のオフィシャルガイドブック、 それに、ご丁寧に球団公式グッズのカタログが入っていて値段も出ています。 サイン・ボールが800円、それを入れる展示台が700円、それにガイド・ブックが500円で グッズ・カタログはタダでしょうから計2000円の誰でも手に入る商品です。

イヤ、繰り返しになりますがコチラは”ただ一方的に貰う立場”ですからエラソウな事はいえません。 2000円のものであろうと100円のものであろうと頂けるものは感謝しなければなりません。 しかし…(^_^;)

私は、誰もが知ってるほどの阪急ブレーブスの熱狂的なファンだったのです。 その阪急ブレーブスがオリックスに買収された大変なショックを受けましたが 阪急からオリックスに変わっただけで、選手も球場も、そしてブレーブスも変わらない事に 気を取り直して、熱烈ファンは継続しました。 それからしばらくしてチーム名がブレーブスからブルーウエーブスへ、 フランチャイズ球場も西宮球場からグリーン・スタジアム神戸へ移りましたが イチローの大活躍や田口、長谷川と言った好きな選手もいて応援を続けていました。 しかし彼らもメジャーへと移り球場に足を運ぶ回数は激減しました。

しかし、3年前の6月にオリックス球団が近鉄バッファローズと合併すると聞いた瞬間 それまで蓄積されていた不満が爆発しキレてしまいました。 それ以降は一切応援を止めるというよりアンチ・オリックス球団になってしまったのです。 ここまでの流れは、その時の週間KENでも書いています。

でも最近ではアンチもなくなり、まったく興味が無くなってどんな選手がいるのか? 監督が誰かも知らない状態でいるのです。 今日(13日)の朝刊で、久々にオリックス・バッファローズのところを見たら 10連敗した後の3連敗して外人監督が記者に八つ当たりしたという記事でしたが 今晩もまた負けちゃったようですね(^_^;)

そんな球団のグッズを”今さら”もらっても(^_^;) だからと言って”こんなモノを”欲しと思われる方いっらしゃいますでしょうか? そんな言い方をしたら貰いにくいかもしれませんが… もし引き取って頂けるという奇特な方がいらっしゃいましたら、喜んで差し上げます(^_^;)

[…]

2006年07月10日129号  バタバタと半年が!

1年はスグに経つから心を引き締めなければ…という思いで書いた【01月09日号】から、 心が引き締まらないまま、アツという間に半年が経ってしまいました。(^_^;) 今年はメルマガを始めようとか、Dr.KENのセミナーを定着さそうとか いろいろな構想があるのですが、まだスタートできていません。

保険の契約が殺到して…なんて事でも決してありません。 「この調子では今年度もハワイは無理そうね」とイヤミを言われているくらいです。 でも、ヒマでボッとしていて半年が経ったのではありません。

今年も沖縄、松山、鳥取、仙台等々、全国を駆け巡り…ドイツにまで行ってしまいました(^_^;)

もちろん、ドイツはプライベートな旅でしたが… インターネットがどこまで有用に使えるか?とういうチャレンジもありました。 まだまだ、こちらの知識不足や現地のインフラが整備されていないところもありましたが… これから将来に向けては明るいものを感じました。 ようするに全国、全世界、パソコン一台持って行けば仕事をコナシながら 楽しい旅をする事が出来るようになるのでは、という”甘い夢”です。

もちろん、今現在は”甘い夢”ですので、帰国したら、事故や事務関連の電話 (契約関連は極少々^_^;)が一斉にかかって来てシヌ思いをしました。

そんな中、私の生保担当社員のM君は金沢に転勤してしまいました。 東京海上は7月が人事異動の月で、ドイツ旅行前でバタバタしている時に彼から 転勤の話を聞いたのです。 7月からは金沢勤務になるため、ドイツから私が帰国したら送別会をやろうと 約束していたのですが、行く前以上にバタバタとして結局、 M君とは送別会どころか、顔を合わす事もなく、金沢に逃げてシツレイ…転勤してしまいました。

私のメルマガ(生保関連)が未発行ですが、実はソレを事前に東京海上が検閲する、 というような事を言いだしており、それには私は納得でないので、 M君を通して決着をつけようとしていたのです。 M君も私を担当した事で大変鍛えられたと思うのですが、残念ながら現段階では 出世にはつながっていないようです(^_^;) 今度、私の担当になるT君は、M君から私は”大変な代理店”という事は聞いているようですが 詳しい話は何も聞いていないようです。 後任のT君は大変でしょうが、私も大変です。

W杯も、いよいよ決勝戦を残すだけになりました。 先週号で準決勝2試合、決勝1試合の3試合を見なければ…と書きましたが 3位決定戦がある事を忘れていました(^_^;) 現段階で3試合、ちゃんと生中継を見ています。 今朝の3位決定戦は日本の上川審判が主審を務めたのですから見逃すわけにも行きません。 後しばらく…、午前2時35分からイタリア対フランスの決勝戦の生中継が始まります。 どこの国を応援するというわけではありませんが、すっかりW杯のトリコになってしまいました。

考えて見たら私は物心ついた時からプロ野球の阪急ブレーブスを熱狂的に応援し 2年ほど前に、阪急ブレーブスを引き継いだオリックスが近鉄バッファローズと合併して オリックス・バッファローズになった時点で、まったくプロ野球を見なくなっていました。 新聞のスポーツ欄にも目を通しません。 セントラルはアンチ巨人で、巨人が負ける事に喜んでいたのですが、それにも興味がなく なっていたら、6月の巨人戦の視聴率は5%を切ったそうです。

私のスポーツ観戦のフラストレーションが W杯で一機に解消したような気がします。 あと一試合、家族3人で楽しく観戦したいと思います。

今年の初めには予想もしていなかったW杯のドイツ旅行がバタバタに拍車を駆けて、 アッと言うまに半年が経過したわけですが… もちろん、後悔はしていません。 来年の6月はワールドカップはありませんから、 ハワイのコンベンションを目指さなければなりません。

もう少し落ち着いて、とは思っているのですが 今年もあと半年!バタバタしながら過ぎていく事でしょう…多分。

[…]

2006年06月05日124号  自動車免許

ヒロコが自動車免許を取りました。

私が運転免許を取ったのは今から35年前です。 ヒロコとは同じ戌年で3回り違いますから、だいたい同じ年齢の頃です。 大学を卒業してフランセに就職、3年目に配属されたのが銀座本店でした。 深夜1時まで営業しており、タクシーで帰るしかないのですが… その頃”夜の銀座”は全盛期、まともな料金で乗せてくれるタクシーはありません。 深夜3時を過ぎれば、どうにか拾えるのですが、それでは身体が持ちません。

叔父が古くなった日産のサニー1000を譲ってくれるというので、自動車免許を取る事にしました。 お店は深夜までやっているので出勤時間は遅く、自動車教習所に行く時間は充分にありました。

免許を取得したのが1971年の10月13日と今でもはっきり覚えています。 私がモノスゴイ!ファンだった阪急ブレーブスが巨人との日本シリーズを西宮球場でやっていたからです。 その日の午前中に府中の交通試験所に免許書を取りに行って、 午後から日本シリーズのテレビ中継を見ていのですが、クルマで銀座まで出勤しなければなりません。

「そうだ!クルマの中でラジオ中継が聞ける!」…と思い早めに家を出る事にしました。 運転免許を手にした、その日にハンドルを握り、混雑した銀座の狭いスペースに縦列駐車です。 この年の日本シリーズは巨人に1勝4敗で敗れましたが… その日の試合だけが8対6の接戦で唯一勝った試合だったのです、しかし、 ラジオをはつけてはいたものの、ほとんど聞いていなかった、イヤ聞くことが出来なかったのです。 その夜から、数人の従業員やアルバイトをクルマで送って帰るようになったのですが…、 今考えてみたら、よく乗ってくれたと思います。(^_^;)

ヒロコは昨年11月から、土日を利用して近くの向ヶ丘自動車教習所に通っていました。 先日、交通試験所(二俣川)で筆記試験に合格し、免許が取れたヒロコから連絡が入りました。 比較的、近くにいた私は交通試験所まで向かいにいきました。 ヒロコが嬉しそうにクルマに近かずくと、「私が運転して帰る…」というのです。 教習所の卒業記念に貰った青葉マークをペッタとはって運転です。

ヒロコは赤ん坊の頃から助手席に乗せて走っていましたが… 私が助手席に乗ってヒロコの運転で走るのは、なんともヘンな感じです。 ホンニンは「もう6ヶ月も教習所で運転しているのだから…」と涼しい顔です。

国道16号線から東名高速道路を使って無事、我が家につきました。 毎朝、ヒロコを向ヶ丘遊園駅まで送るのが私の日課でしたが 翌朝からヒロコの運転で駅まで行き、帰りだけが私の運転です。 夜は逆に駅まで私がクルマで行って、帰りはヒロコが運転して帰宅というパターンです。

土曜日にヒロコの友人の結婚式があり、その司会をヒロコがしました。 ヒロコは式場へはクルマで行くと言ったそうですが、来るまでに事故でもあったら コッチが迷惑と言われて、あきらめたようです。

35年の開きはありますが…親子揃って怖いもの知らずのようです(^_^;) しかし、怖いもの知らずは、まだこれからです! いよいよドイツ行きが迫っていますが、 ドイツの足はレンタ・カーを軸にして移動することにいたしました。 そう!制限時速無制限の、あのアウト・バーンに挑むのです。

2005年10月17日091号 ココニイルコト

セピア色の友(61号)の丸さんと、彼が勤務するM放送の東京支社がある パレスサイドビルのラウンジで一杯飲みながら食事をしました。 そのときに丸さんから「そんなに阪急ブレーブスファンだったのなら、これをあげるよ…」 と一枚のDVDを貰いました。

でもそれは、どうみても恋愛ドラマのようで、おまけに非売品という表示まであります。 そもそも我が家にはDVDプレーヤーがありません。 パソコンからなら見る事が出来るのでしょうが、その習慣が私になかったので しばらく、そのままにしていました。 しかしインターネットから【レイン・メイカー】を見てしまって(88号)、 パソコンで映画を見る事に、まったく抵抗がなくなった私は、 そのDVD【ココニイルコト】を見る事にしました。

あらすじは先週ご紹介した【盲導犬】と違って、とても判りやすいストーリーです。 東京の広告代理店で駆け出しのコピーライターをする相葉志乃が、ある日突然、社内でよばれ、 上司である部長の夫人(創業者の娘)から手切れ金?の50万円が渡されます。 「大人なら何も聞かないでね、でもあなた体温低そうね…」 相場志乃を演ずる真中瞳は久米宏のニュースステーションで一時期スポーツ・コーナーで キャピキャピ美人キャスターとして出ていましたが、ココでは体温が低そうな女性を好演しています。

『願ったり信じたりしても無駄、そう思っていれば傷つかずにすむ』… 志乃は幼い時の体験からそう信じて自分を守ってきたのです。 大阪支社へ飛ばさた相葉志乃は、同じ日に中途入社してきた前野クンの口癖である、 「ま、ええんとちゃいますか…」にはげまされます。

【阪急ブレーブス】が登場するのは料亭のシーンです。 料亭に上司と志乃と前野クン、そしておもちゃ会社のコテコテ大阪人風の社長の4人が静かに座っています。 社長の隣で無愛想にしている志乃に上司はお酌をするよう目配せして 「この相葉は東京のクリエイティブから来たばかりでして…」と紹介します。 社長は「ちょうどよかった、こんどの我が社のクリスマス商戦のCMなんや、見てーな」と 一枚の紙切れを志乃に渡します。 はじめは遠慮する志乃ですが、是非意見を聞きたいといわれ、じっとコピーを見つめて、一言いいます。 「下品ですね」

上司は飲みかけのお酒をブツと吹きます。 「これあんたの会社から出たコピーやで…」 「でもクリスマスのおもちゃのコピーに”ナイスバディー・ドン・ドン”はないでしょう!冗談ですよね」 この酒席はどっちらけになりそうな時で、前野クンが社長に突然、質問をします。 「社長さん! 10月23日は何の日かご存知ですよね?」 「誰に向かって聞いとるんや!我が阪急ブレーブス最後の日やないか!」 コテコテ社長の目が今までとまったく違ったものになってきます。 「実はこの相葉も10月23日生まれでして…でも1975年生まれなんです」 「75年と言ったら赤ヘル軍団を破って初めて日本一になった年や!」

二人の阪急談義はどんどんはずんで行きます。 阪急ブレーブスを原体験している私にはセリフ内容の間違が少し気にはなりましたけど、 こんな楽しい会話をした経験は一度もありません、話す相手もいなかったのです。 私はスクリーンに飛び込み会話に飛び込みたい衝撃にかられます。(^_^)   (22号)(37号) このシーンの全セリフは今では私は全部そらんじているほどです。

2時間の映画の中で阪急ブレーブスが出てくるのは、このシーンだけです。 でも、超少数派だった阪急ファンにとって、このシーンのインパクトは相当なものです。 丸さんが私にわざわざプレゼントしてくれた価値は充分に伝わります。

社長は大変なご機嫌になって、志乃にCMの作り直しも依頼します。 「借りとく」。  料亭からの帰り道、窮地を救われた志乃の言葉に前野クンは答えます。 「ま、ええんとちゃいますか…」

私がこのDVDを見て感動したのは、この阪急ブレーブスのエピソードも含めて ”大阪”をとても上手く伝えながら、抑えた演出の中で、微妙な距離感をおいた二人を 面白く、美しく、描いている、邦画ならではとおもう作品だからです。 したがって、この映画では阪神ファンではなく阪急ファンでなければ美しくないのです(^_^)

志乃がおもちゃ会社のCMコピーを完成させ、その雪景色のロケに行っている時に 前野クンは病院の屋上でひなたぼっこをしながら静かに息を引き取ります。 […]

2005年05月30日071号 ユニークな家族旅行

26日(木)未明から29日(日)未明まで”二泊四日”の いつものYUKIとのクルマによるビジネス・ツアーに、プラス! ヒロコも加えてのファミリー・ツアーというユニークな旅から帰ってきました。

今回のホームページ閉鎖騒動で、 私は相談者の方に本当に申し訳ないと思ってしまう出来事が、 相談者自身のご家族に興ってしまったようなのです。

奥様がご主人の生命保険についてご相談されるというパターンは多くあります。 相談者である奥様との何度かのメールのやりとりで保険内容も決定し、 被保険者であるご主人に保険契約のため直接お逢いするという段取りになるのです。

この時にご主人が、それまでの経緯を知っていれば何の問題も無いのですが… いきなり、ヘンな保険屋のおじさんが、かなり遠方から、やってくると聞かされた ご主人は「なんだ?そいつは?」と怪しまれる事が多いようです。(^_^;) そんな時、通常は私のホームページをご覧いただき納得して貰うのですが… なんせ”閉鎖中”ですので、ますます怪しまれてしまったようです。

そんなわけで、ご主人からのアポイントが取れないまま タイムリミットの今週末と近づいていたのです。 これが原因で夫婦仲が悪くなった、なんて事になったら大変です。 ご主人からアポがとれたら必ず私のケータイに連絡を頂くという事にして、 この週末は近くまででも行ってスタンバイだけでもしておこうと決めていたのです。

そう考えていたところに、ヒロコが今春から社会人になって就職するなり、 土日も出社したりゴールデン・ウイークも無く超多忙だったのが 突然、まとまった休日が取れたので何処かに行こう!というので… 急遽、なんでも良いからクルマで出かけようという、 計画性のない旅がスタートしたのです。

メール相談で8割程度まで決まりかけている大阪のHさんがいらっしゃいました。 ちょうど通り道なので具体的な書類を直接お持ちするという事で 26日午前10時のHさん宅訪問が旅の第一歩になりました。

そこから数キロのところにヒロコの友人でローマ留学でも一緒だったJ子の実家があります。 そこに寄って見ようという事になったのですが留守でした。 そこで玄関前で写真を撮って今はニューヨークにいるJ子に ヒロコがメールで黙って写真だけを送りました。 直ぐに戻って来た「なんじゃ!こりゃ!」というJ子のメールに車内で3人は大笑いです。

また、そこから数キロのところに私の生命保険の法人契約第一号になったYさんの会社にも 家族で突然訪問させて頂きました。

この日は最終目的地はヒロコの希望で鳥取砂丘で宿を取る事にしたのですがまだ時間があるので YUKIは天橋立(あまのはしだて)経由で、しかも高速道路を使わずに行けと言うのです。 しかし、前日から一睡もせずに運転を続けている私に突然睡魔が襲ってきました。 ほんの小一時間まどろんでいたのですが、なにやら助手席のYUKIがブツブツ不機嫌そうにしています。 これでは天橋立には行けないというのです。 私もそう思います、それより鳥取砂丘の日没を見ようという事になりました。

一路、クルマは日本海に向かって北上し、そこから日本海にそって西へ走ります。 途中の漁港で沢山の大きな電球をつけた漁船が並ぶ漁港がありました。 そこで70歳になる漁師さんからお話をいろいろ聞きました。 これはイカ釣り船でこれから出かける漁に出る準備をしているというのです。 電球は1個3000ワットで肌を出していると大変な日焼け?をしてしまうそうです。 漁師の平均年齢はもう60歳以上とか、色々話が聞けて勉強になりました。

日本海の日没は涙が出るくらい美しさです。 鳥取砂丘は絶好のタイミングの到着で、想像以上のスケールに皆感動です。 日が落ちると、先ほどの漁船の漁火(いさりび)が海に浮かびとても幻想的です。

夜は砂丘の正面にある砂丘センターというところに宿泊。 ビールで乾杯し夕食を食べて、おおきな温泉の湯船につかって部屋に 戻るなり、10時前には熟睡をしてしまいました。 和室でトイレもない部屋でしたが、夕食と朝食がついてビールも飲んで3人で18,025円 はとてもリーズナブルです。 朝の砂丘の風景も格別です。 […]

2004年10月25日040号 ダイエー帝国の盛衰

私が子供の頃…「だいえい」と言えば、市川雷蔵や田宮二郎や勝新太郎の映画の”大映”でした。 私が大学に入学した頃…父が私に「これからは流通が面白い!ダイエーに注目しろ」といわれた時は 大映がスーパーを始めたと思ったくらいでした。 私が就職をする頃…ダイエーは人気の就職先になっており、私も狙っていたのですが…、 大学3年生の時に阪急ブレーブスの初優勝という私にとっては歴史的出来事がありました。 そのため、この年は阪急の試合のほとんどを応援に行き、授業やテストをまともに受けなかったために 就職願書に必要な卒業見込書を大学が書いてくれず、まともな就職活動が出来ませんでした。 それでコネのあった洋菓子会社に就職して、幸か不幸か、ケーキ屋KENちゃんになったのです。

父は海外旅行代理店の創業期から活躍した人で、私が小学校1年生の時(昭和28年)に 海外旅行の添乗をしており、おそらく我が国の添乗員第一号だと本人は言っていました。 その父が朝日海外旅行の役員をやっていた時に、ダイエーに買収されました。 旅行業界の発展を心より願っていた父はこれから面白い時代がくると張り切ったのですが あっさりと首を切られ、かなりのショックを受けていたのが今でも、思い出されます。

それから、各分野でのダイエーの買収劇はとどまるところがありませんでした。 ケーキ屋KENちゃんの私は銀座のお店の店長を長くやっていましたが、その中で 数寄屋橋にあったお店が閉店した後は、ダイエーのステーキ・ハウス『フォルクス』になりました。 まーこれは、買収ではなくテナントの入替ですが、 私にはダイエー帝国の脅威のようなものを感じずにはおれませんでした。

私は今日までに、なんらかのカタチでダイエーとかかわり、しかも父と同じように なんらかのカタチで犠牲になった、という人達に多く出会いました。 もちろん私がそのような人を探しているわけではなく偶然に出会うわけですから、 それだけ多くの人達に影響を及ぼしてきたということでよう。 そして、そこから見えてくるものは『力の論理』『スケール・メリット』であって、そこで働く人達の 自主性や取引先などステーク・ホルダーとの共栄という考えもなかったようです。 私もダイエーに就職していれば、早い時期に止めていたかクビになっていたでしょう。

進化論のダーウィンは「生き残ったのは、強い動物でなく、環境に対応してきた動物である」と言いました。 時代の変化に対応できず崩壊したダイエーは恐竜やマンモスのように見えます。

今、わが保険業界も、スケール・メリットを求めての統廃合が活発です。 しかし、それがお客様にとって、どれほどのメリットがあるのかがイマイチ見えてきません。 「体力を強化しなければ生き残れない」というのでしょうが、体力を強化しても時代に対応しなければ 生き残れないという事を… 私はダイエー栄枯盛衰の40年間を見て感じずにおれません。

2004年10月4日037号 イチロー

私のデスクのガラス板の下に、10年前(1994)のオリックス・ブルーウエーブの開幕前の全選手の 集合写真が置かれています。 その一番後方の左から3番目に入団から3年目の鈴木一朗選手が小さく写っています。

それから、たった10年! 大リーグのスーパースターになるとは誰が想像したでしょう… 実は、その片鱗を私は早くから見つめていたのです、エッヘン!

ドラフト4位で入団した1年目からウエスタンリーグ(二軍)での連続安打記録を作り、ジュニアオールスターで 最高殊勲選手に選ばれ、その賞金はそっくり施設に寄付しちゃうという、非凡さに… このチームをずっと応援してきた私は大いに注目したのです。 しかし2年目には、まったく彼を目にしなくなり私の不満が絶頂に達した年でした。 その時の監督、土井正三氏に認めてもらえなかったようです。

私はもの心ついたころからの阪急ブレーブス・ファンだった事は【22号 】で述べました。 その阪急がオリックスに買収され、2年間はオリックス・ブレーブスだったのですが 元巨人軍の土井氏を監督を迎えるを機に、球団名も今のブルーウエーブに変更して 阪急ブレーブスの名は一掃されたのです。 阪急と巨人はまったく対照的なチームで阪急ファンの多くがアンチ巨人であり その巨人管理野球を代表する土井氏の起用は、阪急ファンの気持ち逆なでし 多くにファンが去っていたのです。

しかし入団3年目に個性的な仰木彬氏が監督に就任し 登録名もイチローと命名され、その年にいきなり210安打(130試合)の日本記録で ”ごぞんじイチロー!”の大活躍が始まるのです。

そして阪急ファンとして消えかかった炎がイチローのおかげで再燃し、家族で球場に 足を運び、熱く応援してきたのですが…。 2002年大リーグへ!

この時、イチロー移籍金として大リーグから14億円の金額を受け取ったオリックスと 野茂を大リーグに放出した近鉄が、プロ野球は儲からないからとファン無視の合併をしました。

日本のプロ野球に愛想をつかした私ですが、選手やファンが燃えて、新しい動きが 出てきた事には、「まだまだすてたもんじゃない…」と云う気持ちも出てきました。 しかし合併チームを応援する事は、もうありません。

アメリカの大地で、前人未到の大記録に常に挑み続ける剣豪”イチロー”はまだ30歳(22日で31歳ですが) もう目をはなせません。

2004年6月21日022号 たそがれのプロ野球

私はモノスゴイ!【阪急ブレーブス】のファンでした…現在のオリックス・ブルーウエーブです。 どのぐらいモノスゴイかというと… 私の10代 前半、すなわち小学校から結婚するまで、私が通った学校や職場において、 私の名前や顔は忘れられても、『モノスゴイ阪急ファンがいた!』事は みんな覚えているのです。 すっかりボケてしまった私の母でさえ”私の阪急”だけは、しっかり覚えて?いるのです。

【阪急ブレーブス】の事をココで書き出したら、1年間は軽く連載出来 ちゃいます!… でも気がついたら誰も読んでいなかった、なんて事になりそうなので書きません。 私はそこから多くのことも学びました… そう !私の人生の前半は【阪急ブレーブス】から、そして後半は【モノスゴイYUKI】によって 人間形成が成されたのです!

1988年…その【阪急ブレーブス】がオリックスに身売りするというニュースが流れた時は ショックで、 食事が喉を通らなくなりました。 でもボクは”阪急”という会社のファンではなく”ブレーブス”というチームのファンだった事に気付くと 食欲が元に戻りモリモリ食べました。 それからは【ブレーブス!】【ブレーブス!】と言って、またモノスゴク応援しました。

しかし1991年…オリックスは【ブレーブス】を【ブルーウエーブ】に変更しました。 これによってブレーブスのマスコット・キャラクターだった”ブレービー”も居なくなりました。 ヒロコが誕生した時に真っ先に与えた人形は”ブレービー”でした。 その”ブレービー人形”を持って、どれほど試合を見た事でしょう、本物の”ブレービー”に逢いに 新幹線や車で西宮球場にも何度も足を運びました。

もう”阪急”とも”ブレーブス”とも呼べない、だからといって「ブルーウェーブ」とも呼びたくない。 「ブ」と呼ぶしかないのかと、ブーブー思いました。

それでもイチローというスーパースターも誕生し東京での試合はもちろん、グリーンスタジアム神戸にも ファミリーで応援に行きました。 しかしイチローも、長谷川も、田口もメジャーリーグへ去りました。

オリックスは、それまでの球団の歴史や文化を引き継ぐどころか、阪急色を消す事にエネルギーを 使っている事にも腹立たしく 、私の情熱も少しづつ冷めていきました。

【近鉄バッファローズ】との合併ニュースは先週、仙台のホテルで知りました。 来るときが来た…と思っただけで、YUKIと笑ってしまいました。 このニュースから一週間ほどたちますが、ファンの声はほとんど 無視されているようです。 合併は護送船団の球界の満場一致?で決められたようです。 ファンの声が聞こえない…というのはファンもその程度で「どうでも良い」という事なのでしょう。 ようするに、プロ野球なんて、どうでもよくなってしまったのでしょうか。

これだけ、多くの人に愛され、歴史をもったプロ野球を文化として育てる事を怠って 目先の利益や、小手先のファン・サービスでお茶を濁してきたツケが回って来たのです。 ディズニーランドが賑わっているのは、親もミッキーやドナルドが懐かしく楽しいからです。 メジャーリーグ はアメリカの文化として根付かせる努力をしてきたのです、 だから我々 ガイジン?から見ても楽しく、多くのプロ野球選手も メジャー・リーグに憧れるのです。

私は日本のプロ野球にもう多くは望みません。 ただ、これから始まる、たそがれゆくプロ野球をこの目でみていきたいと思います。 巨人軍 の一球団になるまで…。