2004年5月17日017号 ケチケチ大作戦

ヒロコは一瞬、目がテンになったあと叫びました、「ヒドーイ」。
目には涙をためています。
その晩また家族会議です。
「我が家がビンボーだという事は知ってるだろうけど、それ以上にビンボーなのだ!」
私ははっきりと胸を張っていうコトではないので…小さな声で言いました。
まーそれからのコッチの話は〔009号・新聞配達〕での内容と、さほど変わっていません。
しかしヒロコは違います、あの頃は中学に入学したばかりの子供でしたが、今は おとなです。
「100万円のうち半分は使ったというなら許すけど、黙って全部つかっちゃとはヒドすぎる!」
そしてヒロコは続けました…
「私は絶対にローマに行く!その為には最低で80万円が必要だ、私はこれからアルバイトで50万円
稼ぐから30万円を用意しろ!」と親をキョウハク?するのです。
ここは黙ったてヒロコに従うしかありません。

さて大変です、10月・11月・12月の3ヶ月で30万円を用意しなければなりません。
やっと少しずつ借金を返すのに四苦八苦している時に、これ以上の借金は出来ません。
だからと云って、あの頃のように新聞配達をする気力も体力もありません。
そこで思いついたのが、お金を使わないと云う事です…
毎月10万円で3ヶ月で30万円がゲットできます!

さー大変です、「ケチケチ大作戦」の始まりです。
まず私が外に出ればお金がかかります…出ない事です。
そこで、まず以前から念願だったホームページ作りにしばらく専念する事にしました。
でも、家にいれば家で食べます、そこで家の中にある食材を食べつくす事から始めました。
…けっこうあるものです。
冷蔵庫には古い冷凍食品・肉・野菜、タッパーに入ったままで忘れさられた佃煮や梅干。
何時買ったのか定かでないインスタント食材・乾物類・缶詰も棚の奥から出てきます。
封を切って放置されたスパゲティだって、湿気た味付け海苔だって…
コワゴワ食べると、けっこうイケマス、北朝鮮の事を考えたら大変なご馳走です!
何十年も飾ってあった高級ブランデーもついでに飲んじゃいました。
けっこう快感です、やってみると面白いですよ。(薦めてドーする)
食器棚の引き出しの底にへばりついた【永谷園のお茶漬けのもと】を見つけた感激なんて!
フツウの生活を じゃあ味わえない喜びだって体験できるのです。
でも3人いれば1ヶ月で食いつくしてします、
それに私だって年末にかけても、家に閉じこもりぱなしといは行けません。
でも、ありがたい事です…親しいお客様のところに訪問して「最近どう?」なんてきかれちゃうと、
ツイ調子ににって『ケチケチ大作戦』をしゃべってしまうのです。
そしたら…とっても同情され(あきれられ)、ご馳走になったり、お土産までもらっちゃ ったり。
(保険を頂いたうえのハナシですヨ、感涙です!)

そんな皆様の暖かいご支援と、ノー天気な性格に支えられ?
涙の30万円!をヒロコに与え… じゃなかった、ほんの一部を返して、
1月11日からヒロコはローマに旅立っていきました。

2004年5月10日016号 テンプル大学

サルサとアルバイトと大学探しに明け暮れているヒロコが或る日…
「テンプル大学って知ってる?」と私にたずねました。
「あー知ってるよ、とっても良い大学だと思うよ…」 私は即座に答えました。
「エッどうして?」

話はそこから7年ほど前にさかのぼります。
場所は麻布十番(東京)のスターバックス・カフェです。
オーストラリア旅行から帰ったばかりの私は(その頃我が家も少しはリッチだったのですが…)
友人のWとお茶を飲みながら、土産話に花を咲かせていました。
席を立とうとした時、隣のテーブルにいた金髪のとても可憐な若い女性が、微笑めかけています。
「私ハ、オーストラリア人デス…今ノ話ハトテモオモシロカッタ、日本語ノ勉強ニモナッタ、アリガトウ」
ととても素直に嬉しそうに話し掛けてきたのです。
なんで東京にいるのか?と聞くと…近くのテンプル大学の学生だというのです。

若い女性に、しかも金髪の美女から話し掛けられたオジサン二人はすっかり舞い上がってしまい…
友人のWはおもむろに名刺なんか出しちゃって…
「この近くの麻布に住む者だけど、息子の英語の家庭教師を是非やってもらいたい!」
なんて頼んでいるのです。

その時の彼女のチャーミングな微笑みとテンプル大学の名前は…はる風にような爽やかさで
しっかりと私の頭に残っていたのです。
したがって「テンプル大学って?」と聞かれ反射的に「良い大学」と答えたのですが…
「それじゃー答えになっていない!」とヒロコとYUKIに言われてしまい…
また3人で麻布にあるテンプル大学の説明会に行く事になりました。

小さな予備校のような校舎ですが、本校は米国フィラデルフィアの州立大学で東京以外にロンドンとローマにも分校があります。

単位は本校・分校どこで取ろうと、行き来も自由に出来るという事です。
今は経済的理由(ずーとこの理由ばかりで情けないのですがトホホ)で厳しいが、
自力で稼いでも海外の大学に留学したというヒロコのニーズには合っていたようです。
そして1月(2001年)からテンプル大学の学生になったのです。

大学に入学するや『サルサ・クラブ』を立ち上げ…
授業は少人数でとっても楽しいらしく…シンヤとかロンとかナグワとかヒロコの口から飛び出すので
友達がかと思ったら教授のようです。(まー私もKENと呼ばれているのですけど…)
クラブ活動・授業・そしてアルバイトは多義を極め…ヒロコの手帳は私の手帳なんぞ及びもつかないほど
スケジュールがびっしり書き込まれているのです。

本校にいくのが目的だったヒロコ ですが…9.11のテロがあったり、教授からは日本校にいた方が
勉強になると言われ、留学の事は口に出さなくなりました。
そして私もYUKIもすっかり「ヒロコは留学はしない」と思うようになったのです。

ところが昨年9月、ヒロコは突然「1月から1学期間ローマ校に行く!」と言い出したのです。
お金は今まで3年間ほどのアルバイトで100万円ほどYUKIに預けてるから、それで行くというのです。
でも…YUKIは「ナイ」と答えました。

 

 

2004年5月3日015号 サルサ

この頃はヒロコは大学も決らずストレスも溜まっていたようです。
そして…何を思い立ったのか「サルサを習う!」と急に言い出したのです。

『サルサ』が最近流行りのラテンのダンスぐらいの認識は私にもありましたが、
私は「なんでサルサなの?」 とヒロコに聞きました。
「ストレス発散で楽しく踊れれば何でもいいんだけど、ラテンは血が騒ぐから…」
という事で新宿住友ビルの朝日カルチャーセンタ-の『サルサ教室』が
レッスン料も安く、先生も外人だから決めたと言うのです。

「ラテンは血が騒ぐ!」…この言葉を娘のヒロコから聞いた時は、私の血も騒ぎました。
何を隠そう…私は!…………
拓殖大学ラテン・アメリカ研究会に4年間在籍していたのです!!
そんな事を言っても…ヒロコも・ユキも・(誰も)「なんのこっちゃ?」とバカにするのです。
「じゃーそこで何をしたの?」と聞かれてしまうと「何をしたんだろう?」と素直に思ってしまうのは
少々情けないのですが…なにしろ楽しい青春時代を過ごしたのです。
そして、そのラテン・アメリカ的人生観が幸いしたのか?災いしたのか?
今でも貧しいながら楽しい人生を送っているのです。

サルサ教室に通いだしたヒロコは、我が家でもサルサの曲で練習をします。
それを聞いて私の血が騒ぎ、私はヒロコから少しだけサルサを教わる事になったのです。
ところが…厳しいのです!怖いのです!これが親に対する態度なの?と思うぐらいスパルタなのです!
血が騒ぐのと、リズム感とはどうも比例しないようなのです。
その練習風景をユキは涙を流して笑い転げながら見るのを日課にしているのです。

ある日、ヒロコは私を『サルサ教室』に連れていくと言い出したのです。
私は「お金が無い!」と言えばヒロコは「私のバイト代から払う!」と言い…
「着ていくモノが無い!」と言えば、ユニクロに連れていかれ…
「踊るとハラが出ててズボンが落ちる!」と言えば、サスペンダーを買わされ…
ついに『サルサ教室』に行くハメになってしまったのです。

サルサの先生はクリスティーナという
ドイツ人でフランス語とスペイン語とフラメンコとサルサを教えてながら絵画の個展を開く
ニューヨークの名門ジュリーアード音楽院出身の美女で才女でパワフルでハッピーな…
納豆と焼き魚が大好きなヘンな外人です。
そのクリスティーナに私はナゼか気に入られてしまい…サルサの世界に拉致されるのです。

2004年4月25日014号 ヒロコのアルバイト

ブレント高校を卒業したらアメリカの大学に行きたい…そうヒロコは思っていたようです。
我が家にお金がない事は知っているので、奨学金が貰える大学を2・3決めていました。
それでも、アメリカの大学ともなれば奨学金が少々あったとしても厳しいものがあります。
ムリをして行かせても、途中で強制帰国させるハメになってもつまりません。
とりあえず、卒業したら帰国して国内や米国以外の大学も視野にいれて
じっくり体制を整えて考えることで、ヒロコに納得してもらうしかなかったのです。

ヒロコの大学選びと同時に、少しでも資金をと…アルバイト探しも始めました。
ある日、インターネットからプリントアウトした求人広告をヒロコが私に見せました。
国際展示場(東京ビッグサイト)での英語対応の受付の仕事のように書いてあります。
求人先は荻窪のマンションにある小さな派遣会社のようです。
何といっても、フィリピンの高校に3年間行っていたので始めてのアルバイトです。
親バカかもしれませんが…アルバイトの面接場所まで車で連れて行きました。
マンションの一室に会社がある事を確認してヒロコにこう言い聞かせました。
まず、入った瞬間の雰囲気がちょっとでも胡散臭かったらダメ、
置いてある雑誌や社長・従業員の態度からも自分で判断しろ…と言い聞かせました。

私は車で待つこと1時間、ヒロコは嬉しそうな顔をして出てきました。
感じの良い女性の社長が一人しかおらず話しが弾んだそうです。
英語と日本語で自己紹介の挨拶をさせられて…日本語の方がヘンだと言われたそうです。
その晩、社長からも私に直々の電話があり、心配したようなところではなかったようです。

アルバイト初日にこんな事があったそうです。
英語対応で受付に座っていると、担当者が慌ててヒロコを呼びに来たそうです。
会場内で外国人の女性記者がヒステリックに怒っていて手が付けられないというのです。
通訳は会場にもいたのですが、何を言ってるか解らないとお手上げ状態だったのです。

そこにヒロコが呼ばれたわけですが…ヒロコは瞬間で女性記者が酷いイギリス訛りである事が判ったようです。
なんてたって、中学は日本の、高校はフィリピンの…訛りだらけのインターナショナル校で
英語を覚えたわけですから『訛り』にはメッポウ強くなっていたようなのです。
バイト初日で実力?が認められ、次ぎの日から事務局に抜擢?され
それからヒロコの貴重なアルバイト先になっていったようです。

2004年4月18日013号 ブレント高校

可哀想にヒロコはバギオのホテルに到着するや、極度の下痢と高熱で寝込んでしまったのです。
翌日は少し回復、バギオのインターナショナル校・ブレント高校への入学手続きと入寮です。
ブレント高校は広い敷地に校舎や寮がコテッジのようにたたずみ、とても閑静で素敵なところです。
校長先生からじきじきに私たちこんな事をいわれました。
「娘さんとしばらくのお別れになるのだから今夜はお二人をディナーに招待したい」
私たち夫婦は正装して、はりきって学校に再び出かけたのですが…。

何の事はない、学生食堂で生徒と共に食事をするだけだったのです。
料理はピザにフライド・ポテトぐらいで、それを食べ盛りの学生がワッと取りにいくものですからアッというまに無くなってしまうのです。
もちろんワインやビールがあるわけでもなく、テーブルの前にデザートとして転がってるバナナを食べるしかありません。
しかし、そのバナナの美味しいこと、さすがフィリピンと涙がでるほどでありました。
ディナーと聞いてはりきちゃいましたけど…Dinnerって英語でたんに晩飯の事ですもんね。

そしてヒロコとしばしの別れです。
ヒロコに手をふられブレント高校を後にする時、真っ暗に暮れたキャンパスの…満天の空に流れる天の川が今でも忘れられない光景となっています。

フィリピンの食事にヒロコはなかなか馴染めなかったようです。
唯一、美味しく食べられるのが校内の売店で売っているシナモン・パン1個3ペソ(12円)が命の綱だったようです。
(それが しばらくヒロコの貨幣基準となり日本に戻った時全てがとんでもなく高いと怒 りまくっていました。)
日本から即席の味噌汁やラーメンもたくさん送りました。

でも、それはつかの間でした…若さです、すぐに慣れて順応してしまうのです。
3年後、卒業式に我々が再びバギオに訪れたときは、あっちのレストラン、こっとのレストランと連れまわし
これは美味しいでしょ!最高でしょ!と言うのですが…私には?でしかありません。
そして、今でも「バギオの○○が食べたい!」と遠吠えをしているのです。
<h1>バギオの3年間はヒロコにとって青春の真っ只中で最高に楽しかったようです。
お金が無くて、しょうがなく行かした所でしたが、今となって見ると、それも良かった気がします。
フィリピン人をはじめ韓国・台湾の学生も多く、色々な視点で世界を見る事が出来たようです。
バギオは太平洋戦争で多くの日本兵がいたところでもあるのです。
日本語で書かれた石碑が郊外にあり、そこに学校の仲間と訪れたとき「ヒロコ、何て書いてあるの?』と
と皆に言われ、難しい漢字を必死で読みながら英語で訳しているのを、みんなニコニコして聞いてたそうです。
ヘンだなと思って石碑の裏側を見ると英訳が書いてあり、皆はそれを見ながらヒロコの解説を聞いていたというわけです。
太平洋戦争や天皇・日本文化まで、いろいろな事を聞かれるので…日本の高校生以上に日本の事を勉強しなければならなかったようです。

2004年4月11日012号 ヒロコ フィリピンに!

「フィリピンなら安いから行かせて!」…ヒロコの執念です。
授業料から寮費まで含めて年間150万円位と資料には書いてあります。
たしかに今までが授業料だけで200万円でしたから、それと比べたら安いかも知れません。
しかし、海外ともなれば色々な出費も計算しなければなりません。

私がショックだったのはヒロコが中学を卒業したばかりで我々から離れて
独りで、まったく知らないフィリピンに3年間も行きたいと言った事です。
生まれてからずっと、何処へ行くのも三点セットと笑われたくらいの家族でした。
心の中では「いつかは親離れをさせなければ…」とは思っていたのですが
子供の方からサッサと親離れをしていくのですから…。
ここは、親として受けいれざるを得ないと決心したのです。

そうは言ってもまだ子供です。
笑ってしまったのはフィリピンに対する認識です。
おばあちゃんや廻りの人に「フィリピンに行くの」…と言うと
ほとんどの人が「なんでフィリピンの高校に行くの?」と不信そうに聞かれるのです。
それがヒロコには不思議でならなかったようです。
ヒロコが通っていたインターナショナル中学にも何人かのフィリピン人の友達がいました。
その家族は皆んなとてもリッチな生活をしています…
ヒロコはフィリピンはとても豊かな先進国だと思っていたようなのです。

高校はマニラから300Kほど北に行ったバギオという高原都市にあります。
入学の時は三点セットもしばらくはお預けという事で家族3人で行くことになりました。
私はまずヒロコにフィリピンがどんな国なのか、初めにしっかり認識して欲しいと思い
マニラのホテルについてから街中を歩きまわりました。

裸足で物売りにくる子供、裸電球がぶら下った露天で貧しい食事をする人達
大き交差点に信号がな雑踏の中クラクションをうるさく鳴らし通りぬける車。
そして翌日マニラからバギオに向かう車から延々と見た景色も…
ヒロコにとっては生まれて初めて見る景色ばかりでショックだったようです。

2004年4月4日011号 生保のロコハウス?

なんといっても欲がないのです。
これは性格で、いま現在もとんでもない貧乏で生活苦に喘いでいるのですが…
でも人は私を見てこういうのです…「いつも悩みがなさそうで幸せそうですね」と。

そんな私ですがだんだん『生保のロコハウス』として注目されるようになっていきました。
いや大した事はないのです、損保の契約が少なかったので、ちょと生保が目立っただけなのです。

東京海上あんしん生命の商品や販売方法が私にあっていたことはたしかです。
それまで損害保険の傷害保険やゴルファー保険でも細かく分析して、お客様本位の
保険設定していたのですが採算ベースに合わずYUKIや同僚からも道楽に思われて
いたようです。

なんだかんだといっても新聞配達よりは稼げるようになったことは確かです。
今では損害保険と生命保険はロコハウスの大きな二本柱になっているのです。

さてそんな事で、どうにかこうにかヒロコを途中退学させずにインターナショナル中学を
無事?卒業さすことだけは出来たののですが、
次は高校進学の問題が控えています。

ヒロコと仲の良い友達の多くは欧米の高校に留学、留学しない友人も国内のインターナショナル
の高校に進学です。
しかし、中学を卒業さすだけでもヨレヨレになっている我が家に、そんな余裕はありません。
でもヒロコは日本の高校にもまともには行けないのです。
インター校は我が国では学校として認められていないのです(通学の学割も受けられません)
したがって中学の卒業資格のないヒロコが日本の高校に行くとしたら【帰国子女】として
引き受けてくれる私立高校しかなく、そこに内定はしていたのですが…。

「フィリピンに行く!」…とヒロコが突然言い出したのです。
せっかく覚えて英語で授業を受けたいという強い思いがヒロコにあったようです。
そして、「ここなら安く行けるから…」と具体的な学校を自分で探し出してきたのです。

2004年3月29日010号 あんしん生命スタート

このままでは本業までだめになる…というアセリもありました。
でも新聞配達を止めたら確実に、その分の収入は減ります、
その分が保険で稼げるなら新聞配達は初めからやりません。
そのジレンマの中での2年間の新聞配達だったのです。
そんな矢先の東京海上の意見広告です。
『あなたの保険は、あなたの人生にあっていますか」?』
『ヒトが10人いれば10通りの保険があっていい。』……今でも鮮明に覚えています。

実は私は代理店を始めたときから生命保険は扱っており、生命保険大学の生命保険士
なんていう、わけの分らない資格まで取ってはいたのです。
なぜ生保もやっていたかというと、独立したのがバブルの頃で
「東京海上には一時払養老保険はないの?」と聞かれることがよくあるもので
そんなビジネスチャンスを逃がしては、とF生命の保険を扱うようにしていたのです。

私は大変勉強好きで…(小学校から大学まで、まったく勉強しなかった反動で)
F生命の商品は徹底的に勉強しました。
そしてお客様から保険証券を預かり、それを分析しお客様に分りやすく説明をするサービス
もしていたのですが、その保険に問題があっても、それに変る良い保険がなく共済を紹介
する程度のほとんど趣味の世界でした。
そして生命保険が分れば分るほど、顧客ニーズからかけ離れた、ワンパターン定型の
生保商品や販売方法・体質にはウンザリしていたのです。

新聞広告には、こう締めくくられていました。
「東京海上と代理店は、あなたの人生のパートナーとして、あらゆるリスクに備えた
ライフ・プランを、ともに考えていきたいのです。」
もう!この言葉には武者震いがするほどの感動です!

さて、その意気込みで新聞配達も止めたのですから、生命保険を猛烈に売りまくったか?
いやいや、なかなか…そうは行かないのが私のいいとこ、じゃなかったダメなところ
でありまして、しばらくは身内からの借金で食いつなぐトホホ生活です。
なんせ、勉強好きで…またまた徹底的な商品研究が今回からはパソコン駆使で
パワーアップ…堂々!?半年が費やされるのです。
そして「コレは本物だ!素晴らしい!絶対に売れるぞ!」
と私は立ち上がったのです!(これで何度目でしょうか…)

で、それから生命保険を猛烈に売りまくったか?
いやいや、なんてたって私のことですボチボチです。
でもボチボチがボチボチ続くようになり、ボチボチと収入になりだしていったのです。

2004年3月22日009号 新聞配達

「KENが約束通りに収入を上げてくださらないのが、すべての原因です!」
YUKIは私を激しく攻め立てます、ヒロコは目にいっぱい涙をためています。
「もうこのままではヒロコをインターナショナル校に通わす事が出来ません…」
と突然YUKIが言いだし、また家族会議になったのです。
入学から半年たって、ヒロコが楽しそうに語る学園生活を聞くのが楽しみになってきた矢先です。
ヒロコはもとより私も大変なショックでした。
私はのんきなもので、この時になって初めて学校にとんでもないお金がかかる事がわかったのです。
そうと知っていれば我が家の現状では、初めからムリだったのです。
なんせバブルのピークに買ったマンションの高金利が家計に大きくのしかかり、
キャリアウーマンだったYUKIはバブルがはじけ、ただのオバサンになっているのです。
でもYUKIは私が稼ぎさえすれば問題はない!…と思っているのです、マーたしかにソーですが…
何てたって不景気の先取りだけは、しっかりやっていた代理店です。
お得意様の倒産もあり売上を維持するだけでも大変な状態だったのです。

でも、めったに泣いた事のないヒロコが涙をこらえて、ただただ両親の話を聞くしかない
姿を見ていると、私の方が泣けてくるのです。
「よし!やるぞ!」私は決心したのです。

それから私は毎日午前3時に起きて朝刊の新聞配達です。
本業で稼げ…と言われても保険の仕事は朝から晩まで気合を入れて働いたからといって
必ず収入が増えるというものではありません。
第一そのような営業は私の保険代理店の経営理念と違ってきます。
確実に稼げて本業に支障をきたさないのは早朝の新聞配達しかない…と思ったのです。

新聞配達は1994年の11月から1996年10月まで約2年間続けました。
何でもエンジョイする性格の私は、毎日の朝食も旨く!結構楽しく!こなしました。
でも、どう慣れてもどうこなしても月10万円、年間120万円が限界です。
YUKIが私の向ける気配も、だんだん厳しいものになってきました(ホントーに怖いんですヨ)
だからといって、夕刊も配って…牛乳配達して…ついでにヤクルトも…てなわけにはいきません。
毎朝3時の起床は夜の踏ん張りは利かないし、本業にも影響しだしました。

そんな矢先に、新聞に活字だけの一面広告が掲載されました。
10月からスタートする東京海上あんしん生命の広告です。
【おかしいな、人間が生命保険にあわせてる。】というタイトルをかこんで、なぜ東京海上
が生命保険をはじめるのか、その理由が書かれていました。
勿論、私は東京海上が生保を始めるのは知っていましたが、生保には消極的な考えでした。
なぜなら、あまりにも保険会社本位の我が国の生保事情に絶望していたからです。
しかし、この広告には私が普段思っていた理想的な生保販売のかたちが載っていたのです。
話半分にしても、これなら真剣にやってみる価値があると思ったのです。

新聞配達などやっているどころではありません。
「よし!やるぞ!」と私は再び決心したのです。

2004年3月15日008号 インターナショナル・スクール

先週は緊急レポート『吉野家のカレー』で話が中断してしまいました。
今ローマにいるヒロコにチャットでこの事を話すと「ヒロコより吉野家をとったんだ…」なんて
嫌味を言われてしまいました。
吉野家はあれからすぐ250円の『とん丼』を出して、巻き返しを図っているようです。
さて、話はインターナショナル・スクールです。
私だってインターナショナル・スクールの存在ぐらいは知っています。
しかし目の前にいる二人は、私をさしおいて、すっかりその気になっているのが気に入りません。
「で、入学試験は何時で、入学金はいくらかかるの?」私はYUKIに聞きました。
「え!なにも無い!…」私は後の”無い”に心が大きくなびきました(ヒロコは先の”無い”に…多分)
考えてみれば、外国の子女も親の都合で出入りする事もあるでしょうから、入試や入学金が
馴染まないのもたしかです。
「第一志望がソコなら、入試をどーのこーのという前にまずソコをあたるのが先決」
との私の意見で、早速お目当てのインターナショナル・スクールを訪ねることになりました。

1993年11月、小学校6年のヒロコとYUKIと3人で杉並にあるジャパン・インターナショナル・スクール(JIS)
にむかいました、教務担当のMr.Parrとアポイントがとってあります。
その日は土曜日で生徒の姿はありませんでしたが、予備校のような小さな校舎ですが日本の学校とは
違う洒落た雰囲気が漂っています。
出迎えたMr.Parrはいかにも外国人?という大柄で頭の禿げ上がった人で私たちを明る出迎えてくれました。
もちろん英語で。

彼のまくしたてる英語を私はただただ微笑みながら聞くしかありません。
まー言ってる事の半分くらいはわかるのですが…。
中学で3年・高校で3年・大学で4年、計10年も一応英語を勉強したことにはなっているのですが…この程度です。
まして公立の小学校に普通に通い、普通の日本の家庭(チョット違いますが…)で
普通の日本人の両親(アッ、片方は宇宙人でした…)で育った娘が、いきなり英語だけの世界に
ついていけるかが問題です。
しかし、とうのヒロコを見るとMr.Parの英語に動じることなく楽しそうに振る舞っているのです。

なんのことはない、それでMr.Parが「春からどうぞいらっしゃい!」といって私たちを送り出したのです。
学校をあとにするなりヒロコは小躍りして「受かった!受かった!」と大喜びです。
予備校に通い、暗い受験を覚悟していたヒロコにしてみれば【大不戦勝】といったところでしょう。
ヒロコははしゃぎながら友達に電話しています「わたしインターナショナルに受かっちゃった!」
何が受かっちゃただ…と思いながらも、まー私としても一安心というところでした。

そしてYUKIは珍しく私にやさしく、ささやきました…
「KEN…これから学校にお金もかかるのですから、今以上に頑張って稼いでくださいネ」
とうぜん私も明るくこたえます「うん、頑張るヨ」
この一言が…その10ヶ月後に大変な事になるのです。