2004年11月29日045号 ヒロコの英語劇

先週は私がケボ劇団のスター?であったことを書きました。 そして実は!大学時代にはスペイン語の語劇で主役もやっていたのです。 オジャンタイという芝居でオジャンタイの役を演じたのですが 私が主役をやるようじゃ、もう”おじゃんたい”と言われました。

それから40年近くが経過して、蛙の子は蛙です… ヒロコの英語劇を二夜連続で赤坂区民ホールにYUKIと見に行きました。 ビデオ撮りの使命をヒロコから授かっていて、二夜連続といっても同じ芝居だったのですが 演劇を見る目は、そこらへんの親とはチョットは違う、いや違うつもりであります。

ヒロコもまもなくテンプル大学を卒業するようですが、実にエネルギッシュに大学生活を エンジョイしてきたようです。 サルサ倶楽部を立ち上げ、自ら振り付けをしての公演は何度も見てきましたが その情熱は大変なもので、親バカかもしれませんが中々なものだと思っています。 授業はもちろんバイトもやりながらで、それだけでも充分だと思うのですが、 コーラス倶楽部にも参加しているかとおもったら、文化祭では教師のボサノバの ギター演奏に合わせて、それらしい雰囲気で唄っているのには呆れました。 そして演劇です、実は昨年、初めて出演して味をしめたようです。 『乞食と役者は一度やったらやめられない』と言われますが、それは私も実感です。 それにしても、今年は3つの芝居に出演し、そのうち2つが二人芝居ですから セリフの量だけでも大変なものです。

サルサ公演の時のヒロコの集客力には驚かされるのですが、 英語劇を字幕ナシで見るのには、かなりの英語力が必要でサルサのようにはいかず、 会場は閑散としたものでしたが…親とはエライものです! 私とYUKIはイベント皆勤賞?でテンプル大学でもかなりの”顔”なのです。

英語劇は、みんなが笑ったら私もつられて笑うという情けない観劇ですが それでもヒロコの演技には気になるところが山ほど見えてしまいます。 けっしてヘタな芝居ではないのです。 それどころか本人は得意満面でノリノリでパワフルで ”サルサ”を踊っているように楽しく演じているのです。 でも、私にはそれがどうにも鼻についてしかたがありませんでした。

初日の公演を終え、満足感にしたっているヒロコに、その事を告げると かなりのショックで疲れがドッとでて落ちこんで寝てしまいました。 そして2日目の演技はかなり良くなっていました。

ヒロコが保育園時代の学芸会… とてもシャイで大人しかったヒロコの声はまったく聞こえませんでした。 会場の友達から「ヒロコちゃん聞こえないヨ!」というヤジが飛んだビデオが残っています。 それが、何でこうなちゃたのかね…とYUKIと笑ってしまいました。

2004年10月18日039号 朝の強制?散歩

日曜日の朝9時、ヒロコの命令?で二人で散歩することになりました。

事の始まりは、我が家のリビングで床に落ちたシャツを私が取ろうとした事からです。 肥満気味で屈んで取るのがおっくうになっている私は、 両足でシャツを挟み、そのまま足を跳ね上げて、シャツを取ろうとしたのですが… まったくタイミングが合わず、見事に尻餅をついたのです。 その様子の一部始終をヒロコはしっかり見ていたのです。 なんなく出来きた事なのに、身体がついていかなくなった事に私はショックでしたが、 その醜態にはヒロコもショックだったようです。 「KEN!何か運動しなきゃダメだよ、」

遠くにあった駐車場が閉鎖し、幸か不幸か駐車場が近くなり、サルサ教室もご無沙汰ぎみで… 毎日クルマで移動する私の運動不足はかなりのレベルまで来ている事はたしかなのです。 ヒロコは「毎朝、散歩でもしたら!」と言いました… 私が渋っていたら「じゃあ、せめて日曜日だけでも、皆んなで散歩をしようよ」と言うのです。

何か目的がなければ長続きしそうもないので、私は提案しました… 「だったら日曜日は毎朝デニーズまで歩いて行って朝食を食べるってどうかな?」 (いつもクルマでいく所ですが、歩くとそこそこあります) 私はファミレスの朝食が好きなのです、ホテルのビュフェとまではいきませんが 朝の光をいっぱいに浴びながら、のんびりと飲むモーニング・コーヒーはなかなかいいものです。

我ながら良いアイデアと思ったのですが YUKIは日曜日の朝ぐらいゆっくり寝ていたい(日曜の朝でなくても”ゆっくり”だと私は思うのですが) という事で却下となってしまいました。 それこそ毎日多忙でヒロコの方が、日曜日の朝ぐらいゆっくり寝ていたいだろうに… そこまで私の健康を気遣ってくれるのですから、 こうなったら【ただ散歩するでけ】でも、やるきゃありません。

午前9時に出発、クルマでは通ることが出来ない道を選んでのんびりと歩いたのですが けっこう起伏があり、小一時間の良い運動になりました。 そして、そして、何といっても朝食が美味しいコト!(まー何時も美味しいのですが) なかなかダイエットとまでいきそうもありませんし、どこまで継続できるかもわかりませんが ムリをせずに少しはがんばってみようと思った一日でした。

2004年10月11日038号 雨オンナ VS. 晴れオンナ

一ヶ月前に34号で、週末は横須賀のハーバーの自家用ボートで過ごされる Yさんご夫妻から、生命保険のご契約を頂いただいた上に、船内でご馳走にまでなった 話をいたしました。 もちろん、その時も大いに盛り上がったのでありますが、なんせコチラは仕事、 それにクルマで伺っているので、アルコールも控えなくてはなりませんでした。

で…「次回は、お嬢さんもご一緒で心おきなく飲みましょう!」との嬉しいお言葉を頂くき、 遠慮というものを知らない私達はもちろん「是非!是非!ヨロシク!」と喜びました。 その日にちが10月10日(日)と決まったのです。

問題は天気です。 一週間前の週間天気予報だと、台風が接近しており週末は大荒れだと言うのです。 海が好きで飲んべいでのヒロコは今回のお誘いを楽しみにしているのですが、 もの凄い【雨オンナ】なのです。

この天気予報を気にしてYさんから、メールが来ました。 台風だとボートは出せないしバーべキューもムリだけど、Y夫妻はどっちにしても 週末は船内で一杯やるので、どうしますか?と云うものです。 多忙なスケジュールを開けて、楽しみにしていたヒロコは 「日延べしたって、私が行くと雨になるんだから、行こうヨ!」と云うのです。 その旨をメールで伝えると 何と!頼もしい返事がYさんからありました。

>私は自他ともに認める最強の晴れ女です。 >今年はこんなに台風が頻発しているにもかかわらず、 8月には伊豆七島にクルージングに行き、 >9月には台風の合間をぬって西表島にも行きました。 タイミングもドンピシャでした。 >(偶然でしょうけど・・・私が計画した旅行で雨にたたられたことは今のところ一度もありません。)

さすが、晴れオンナのYさん!、週末は絶望的と思われた台風は日曜日に大暴れして通過してしまったのです。 しかし雨オンナのヒロコもしぶといもので、台風一過の好天気といかず 午後には小雨も降らすネバリ?を見せたのです。 何はともあれ、一日ずれていれば台風のまっただ中だったわけでラッキーでした。

メイン・メニューは釣ったばかりという、ブリの刺身とシャブシャブです! Yさんのご主人曰く…「今朝、海を見たら”鳥山”がたっていたから急遽船を出して獲って来た」と云うのです。 ”鳥山”とはブリやカツオの大型魚がイワシのような小魚を追う時に、小魚が群れをなして逃げ そこに大型魚が突っ込む時に小魚が逃げて海面に上がってきて、それを海鳥が集って襲う現象だそうです。 すなわち、海面に海鳥が集っていたら、そこにブリやカツオの大型魚がいるという事です。

それを見て、すぐ船をだしてブリを何匹も獲ってくるYさんのご主人の凄さ、そして東京湾の豊かさに またまた今回も感心してしまういました。

獲れたてのブリ!西表島の泡盛!…飲むべい雨オンナのヒロコも大感激! たらふく食べて、飲んで…大満足です。 今晩はマリン・ポートからほど近い観音崎の京急ホテルの特別割引券を頂き、 そのゆったりしたホテルの一室で海の音を聞きながら私は書いています。 もちろんYUKIとヒロコはグーグーと気持ちよさそうに寝ています。

2004年8月2日028号 ヒロコのサラダ

ヒロコがアボガドのサラダを作りました。

これは我が家にとって画期的な出来事なのです。 何が画期的かといえば、ヒロコが料理を作ることが画期的なのです。 YUKIは料理を作りますが、ほとんど食事に興味なない”宇宙人”ですから どんな料理か?想像してください。 そんな厳しい環境の中で食べる事が”生きがい”の私は静に生息しているのです。

なぜ、ふだん料理を作らないヒロコが料理を作る気になったかといえば… 私が、とても安くて美味しいレタスを買ってきたからです。 八百屋のマイケルの話は先週書きましたが、彼のところで買う半額の野菜は すでにカットされたサラダや果物が多くYUKIは気にいっているのですが… こればっかり食べているとストレスが溜まってくるのです。 だからと言って高い野菜を買おうものならYUKIが許しません。

私は毎月、月末に幸手市(埼玉県)の法人のお得意様をクルマで訪問します。 その途中、信号待ちで毎回、目に止まる粗末な作りの八百屋さんがあるのです。 大根10円、キュウリ一・じゃがいも一山100円、レタス2つで100円、… 毎日行くマルエツの青果売り場で鍛えられている私は野菜の値段に敏感です。 私はこの土曜日、はじめてクルマを止めて、そこでレタスやじゃがいも・トマト等々 1000円足らずで山ほどの野菜を買ってきていたのです。 そして土曜日は久々の美味しい野菜に満足した我が家でした。

そして今日(日曜日)、ヒロコは英語の家庭教師の帰りに、アボガドをひとつだけ 130円で買ってきたのです。 そして、私とYUKIが毎晩恒例のマルエツから帰ってくると すでにヒロコ特性のアボガド・サラダが出来上がっていました。

賽の目に細かくカットしたジャガイモをフライパンで炒め、玉ねぎと香辛料そして アボガドで絡めたものを、レタスで巻いて食べるのです。 お盛事抜きに、なかなかイケテいます。

おいしいレタスとジャガイモがたくさんあったので作ろうと思ったと言うのです。 その事に私は感激しました。(いつもながら親バカですいません) 料理はローマでクラスメートが作っていたの覚えたようです。 ある材料を利用し手際よく料理を作る才能があったとは…

サラダが料理か、それが才能か、なんてレベルはどうでもいいのです、 我が家の閉ざされた食文化・食環境の中で一スジの光を私は見たのです!

2004年5月24日018号 貧乏哲学

そしてヒロコは約5ヶ月のローマ留学を終えて意気揚々と帰ってきました! 最後の二週間はヨーロッパを 貧乏旅行で回ったようです。 お金が無かったので、限られた所にしか行けなかったようですが… お金がいくらあったって、限られたところしか行けないのです。 その分、自分の頭と知恵でいろいろやりくりする事が大切なのです。 そのような環境をあたえる事が親の務めなのです! だからお金が無いという事はとても良いことなのです! 妻を持ち”哲学者”になった私は長い貧乏生活で、ますます 哲学の道を極めていくのです。

なんや、かやと今回まで我が家の今日までの波乱万丈?な歩みをダイジェストで ご紹介させて頂きました、コレで…

なんで、我が家がビンボーなのか? なんで、ヒロコはローマにいったのか? なんで、YUKIはヘンなのか? そして、そしてKENがどれほど苦労をしているのか?

その、すべてが今までのコラムを読んでいただければ、ほとんど… おわかり頂けなかったでしょうが、私のトホホの気持ちだけでも判っていただければ これからも、生きる希望が湧いてきます。

さて、次号からは何を書くかまったく決めていませんが、その時、その時、思いつくテーマ を書いて行きたいと思います!

2004年5月17日017号 ケチケチ大作戦

ヒロコは一瞬、目がテンになったあと叫びました、「ヒドーイ」。 目には涙をためています。 その晩また家族会議です。 「我が家がビンボーだという事は知ってるだろうけど、それ以上にビンボーなのだ!」 私ははっきりと胸を張っていうコトではないので…小さな声で言いました。 まーそれからのコッチの話は〔009号・新聞配達〕での内容と、さほど変わっていません。 しかしヒロコは違います、あの頃は中学に入学したばかりの子供でしたが、今は おとなです。 「100万円のうち半分は使ったというなら許すけど、黙って全部つかっちゃとはヒドすぎる!」 そしてヒロコは続けました… 「私は絶対にローマに行く!その為には最低で80万円が必要だ、私はこれからアルバイトで50万円 稼ぐから30万円を用意しろ!」と親をキョウハク?するのです。 ここは黙ったてヒロコに従うしかありません。

さて大変です、10月・11月・12月の3ヶ月で30万円を用意しなければなりません。 やっと少しずつ借金を返すのに四苦八苦している時に、これ以上の借金は出来ません。 だからと云って、あの頃のように新聞配達をする気力も体力もありません。 そこで思いついたのが、お金を使わないと云う事です… 毎月10万円で3ヶ月で30万円がゲットできます!

さー大変です、「ケチケチ大作戦」の始まりです。 まず私が外に出ればお金がかかります…出ない事です。 そこで、まず以前から念願だったホームページ作りにしばらく専念する事にしました。 でも、家にいれば家で食べます、そこで家の中にある食材を食べつくす事から始めました。 …けっこうあるものです。 冷蔵庫には古い冷凍食品・肉・野菜、タッパーに入ったままで忘れさられた佃煮や梅干。 何時買ったのか定かでないインスタント食材・乾物類・缶詰も棚の奥から出てきます。 封を切って放置されたスパゲティだって、湿気た味付け海苔だって… コワゴワ食べると、けっこうイケマス、北朝鮮の事を考えたら大変なご馳走です! 何十年も飾ってあった高級ブランデーもついでに飲んじゃいました。 けっこう快感です、やってみると面白いですよ。(薦めてドーする) 食器棚の引き出しの底にへばりついた【永谷園のお茶漬けのもと】を見つけた感激なんて! フツウの生活を じゃあ味わえない喜びだって体験できるのです。 でも3人いれば1ヶ月で食いつくしてします、 それに私だって年末にかけても、家に閉じこもりぱなしといは行けません。 でも、ありがたい事です…親しいお客様のところに訪問して「最近どう?」なんてきかれちゃうと、 ツイ調子ににって『ケチケチ大作戦』をしゃべってしまうのです。 そしたら…とっても同情され(あきれられ)、ご馳走になったり、お土産までもらっちゃ ったり。 (保険を頂いたうえのハナシですヨ、感涙です!)

そんな皆様の暖かいご支援と、ノー天気な性格に支えられ? 涙の30万円!をヒロコに与え… じゃなかった、ほんの一部を返して、 1月11日からヒロコはローマに旅立っていきました。

2004年5月10日016号 テンプル大学

サルサとアルバイトと大学探しに明け暮れているヒロコが或る日… 「テンプル大学って知ってる?」と私にたずねました。 「あー知ってるよ、とっても良い大学だと思うよ…」 私は即座に答えました。 「エッどうして?」

話はそこから7年ほど前にさかのぼります。 場所は麻布十番(東京)のスターバックス・カフェです。 オーストラリア旅行から帰ったばかりの私は(その頃我が家も少しはリッチだったのですが…) 友人のWとお茶を飲みながら、土産話に花を咲かせていました。 席を立とうとした時、隣のテーブルにいた金髪のとても可憐な若い女性が、微笑めかけています。 「私ハ、オーストラリア人デス…今ノ話ハトテモオモシロカッタ、日本語ノ勉強ニモナッタ、アリガトウ」 ととても素直に嬉しそうに話し掛けてきたのです。 なんで東京にいるのか?と聞くと…近くのテンプル大学の学生だというのです。

若い女性に、しかも金髪の美女から話し掛けられたオジサン二人はすっかり舞い上がってしまい… 友人のWはおもむろに名刺なんか出しちゃって… 「この近くの麻布に住む者だけど、息子の英語の家庭教師を是非やってもらいたい!」 なんて頼んでいるのです。

その時の彼女のチャーミングな微笑みとテンプル大学の名前は…はる風にような爽やかさで しっかりと私の頭に残っていたのです。 したがって「テンプル大学って?」と聞かれ反射的に「良い大学」と答えたのですが… 「それじゃー答えになっていない!」とヒロコとYUKIに言われてしまい… また3人で麻布にあるテンプル大学の説明会に行く事になりました。

小さな予備校のような校舎ですが、本校は米国フィラデルフィアの州立大学で東京以外にロンドンとローマにも分校があります。

単位は本校・分校どこで取ろうと、行き来も自由に出来るという事です。 今は経済的理由(ずーとこの理由ばかりで情けないのですがトホホ)で厳しいが、 自力で稼いでも海外の大学に留学したというヒロコのニーズには合っていたようです。 そして1月(2001年)からテンプル大学の学生になったのです。

大学に入学するや『サルサ・クラブ』を立ち上げ… 授業は少人数でとっても楽しいらしく…シンヤとかロンとかナグワとかヒロコの口から飛び出すので 友達がかと思ったら教授のようです。(まー私もKENと呼ばれているのですけど…) クラブ活動・授業・そしてアルバイトは多義を極め…ヒロコの手帳は私の手帳なんぞ及びもつかないほど スケジュールがびっしり書き込まれているのです。

本校にいくのが目的だったヒロコ ですが…9.11のテロがあったり、教授からは日本校にいた方が 勉強になると言われ、留学の事は口に出さなくなりました。 そして私もYUKIもすっかり「ヒロコは留学はしない」と思うようになったのです。

ところが昨年9月、ヒロコは突然「1月から1学期間ローマ校に行く!」と言い出したのです。 お金は今まで3年間ほどのアルバイトで100万円ほどYUKIに預けてるから、それで行くというのです。 でも…YUKIは「ナイ」と答えました。

 

 

2004年5月3日015号 サルサ

この頃はヒロコは大学も決らずストレスも溜まっていたようです。 そして…何を思い立ったのか「サルサを習う!」と急に言い出したのです。

『サルサ』が最近流行りのラテンのダンスぐらいの認識は私にもありましたが、 私は「なんでサルサなの?」 とヒロコに聞きました。 「ストレス発散で楽しく踊れれば何でもいいんだけど、ラテンは血が騒ぐから…」 という事で新宿住友ビルの朝日カルチャーセンタ-の『サルサ教室』が レッスン料も安く、先生も外人だから決めたと言うのです。

「ラテンは血が騒ぐ!」…この言葉を娘のヒロコから聞いた時は、私の血も騒ぎました。 何を隠そう…私は!………… 拓殖大学ラテン・アメリカ研究会に4年間在籍していたのです!! そんな事を言っても…ヒロコも・ユキも・(誰も)「なんのこっちゃ?」とバカにするのです。 「じゃーそこで何をしたの?」と聞かれてしまうと「何をしたんだろう?」と素直に思ってしまうのは 少々情けないのですが…なにしろ楽しい青春時代を過ごしたのです。 そして、そのラテン・アメリカ的人生観が幸いしたのか?災いしたのか? 今でも貧しいながら楽しい人生を送っているのです。

サルサ教室に通いだしたヒロコは、我が家でもサルサの曲で練習をします。 それを聞いて私の血が騒ぎ、私はヒロコから少しだけサルサを教わる事になったのです。 ところが…厳しいのです!怖いのです!これが親に対する態度なの?と思うぐらいスパルタなのです! 血が騒ぐのと、リズム感とはどうも比例しないようなのです。 その練習風景をユキは涙を流して笑い転げながら見るのを日課にしているのです。

ある日、ヒロコは私を『サルサ教室』に連れていくと言い出したのです。 私は「お金が無い!」と言えばヒロコは「私のバイト代から払う!」と言い… 「着ていくモノが無い!」と言えば、ユニクロに連れていかれ… 「踊るとハラが出ててズボンが落ちる!」と言えば、サスペンダーを買わされ… ついに『サルサ教室』に行くハメになってしまったのです。

サルサの先生はクリスティーナという ドイツ人でフランス語とスペイン語とフラメンコとサルサを教えてながら絵画の個展を開く ニューヨークの名門ジュリーアード音楽院出身の美女で才女でパワフルでハッピーな… 納豆と焼き魚が大好きなヘンな外人です。 そのクリスティーナに私はナゼか気に入られてしまい…サルサの世界に拉致されるのです。

2004年4月25日014号 ヒロコのアルバイト

ブレント高校を卒業したらアメリカの大学に行きたい…そうヒロコは思っていたようです。 我が家にお金がない事は知っているので、奨学金が貰える大学を2・3決めていました。 それでも、アメリカの大学ともなれば奨学金が少々あったとしても厳しいものがあります。 ムリをして行かせても、途中で強制帰国させるハメになってもつまりません。 とりあえず、卒業したら帰国して国内や米国以外の大学も視野にいれて じっくり体制を整えて考えることで、ヒロコに納得してもらうしかなかったのです。

ヒロコの大学選びと同時に、少しでも資金をと…アルバイト探しも始めました。 ある日、インターネットからプリントアウトした求人広告をヒロコが私に見せました。 国際展示場(東京ビッグサイト)での英語対応の受付の仕事のように書いてあります。 求人先は荻窪のマンションにある小さな派遣会社のようです。 何といっても、フィリピンの高校に3年間行っていたので始めてのアルバイトです。 親バカかもしれませんが…アルバイトの面接場所まで車で連れて行きました。 マンションの一室に会社がある事を確認してヒロコにこう言い聞かせました。 まず、入った瞬間の雰囲気がちょっとでも胡散臭かったらダメ、 置いてある雑誌や社長・従業員の態度からも自分で判断しろ…と言い聞かせました。

私は車で待つこと1時間、ヒロコは嬉しそうな顔をして出てきました。 感じの良い女性の社長が一人しかおらず話しが弾んだそうです。 英語と日本語で自己紹介の挨拶をさせられて…日本語の方がヘンだと言われたそうです。 その晩、社長からも私に直々の電話があり、心配したようなところではなかったようです。

アルバイト初日にこんな事があったそうです。 英語対応で受付に座っていると、担当者が慌ててヒロコを呼びに来たそうです。 会場内で外国人の女性記者がヒステリックに怒っていて手が付けられないというのです。 通訳は会場にもいたのですが、何を言ってるか解らないとお手上げ状態だったのです。

そこにヒロコが呼ばれたわけですが…ヒロコは瞬間で女性記者が酷いイギリス訛りである事が判ったようです。 なんてたって、中学は日本の、高校はフィリピンの…訛りだらけのインターナショナル校で 英語を覚えたわけですから『訛り』にはメッポウ強くなっていたようなのです。 バイト初日で実力?が認められ、次ぎの日から事務局に抜擢?され それからヒロコの貴重なアルバイト先になっていったようです。

2004年4月18日013号 ブレント高校

可哀想にヒロコはバギオのホテルに到着するや、極度の下痢と高熱で寝込んでしまったのです。 翌日は少し回復、バギオのインターナショナル校・ブレント高校への入学手続きと入寮です。 ブレント高校は広い敷地に校舎や寮がコテッジのようにたたずみ、とても閑静で素敵なところです。 校長先生からじきじきに私たちこんな事をいわれました。 「娘さんとしばらくのお別れになるのだから今夜はお二人をディナーに招待したい」 私たち夫婦は正装して、はりきって学校に再び出かけたのですが…。 何の事はない、学生食堂で生徒と共に食事をするだけだったのです。 料理はピザにフライド・ポテトぐらいで、それを食べ盛りの学生がワッと取りにいくものですからアッというまに無くなってしまうのです。 もちろんワインやビールがあるわけでもなく、テーブルの前にデザートとして転がってるバナナを食べるしかありません。 しかし、そのバナナの美味しいこと、さすがフィリピンと涙がでるほどでありました。 ディナーと聞いてはりきちゃいましたけど…Dinnerって英語でたんに晩飯の事ですもんね。 そしてヒロコとしばしの別れです。 ヒロコに手をふられブレント高校を後にする時、真っ暗に暮れたキャンパスの…満天の空に流れる天の川が今でも忘れられない光景となっています。 フィリピンの食事にヒロコはなかなか馴染めなかったようです。 唯一、美味しく食べられるのが校内の売店で売っているシナモン・パン1個3ペソ(12円)が命の綱だったようです。 (それが しばらくヒロコの貨幣基準となり日本に戻った時全てがとんでもなく高いと怒 りまくっていました。) 日本から即席の味噌汁やラーメンもたくさん送りました。 でも、それはつかの間でした…若さです、すぐに慣れて順応してしまうのです。 3年後、卒業式に我々が再びバギオに訪れたときは、あっちのレストラン、こっとのレストランと連れまわし これは美味しいでしょ!最高でしょ!と言うのですが…私には?でしかありません。 そして、今でも「バギオの○○が食べたい!」と遠吠えをしているのです。 <h1>バギオの3年間はヒロコにとって青春の真っ只中で最高に楽しかったようです。 お金が無くて、しょうがなく行かした所でしたが、今となって見ると、それも良かった気がします。 フィリピン人をはじめ韓国・台湾の学生も多く、色々な視点で世界を見る事が出来たようです。 バギオは太平洋戦争で多くの日本兵がいたところでもあるのです。 日本語で書かれた石碑が郊外にあり、そこに学校の仲間と訪れたとき「ヒロコ、何て書いてあるの?』と と皆に言われ、難しい漢字を必死で読みながら英語で訳しているのを、みんなニコニコして聞いてたそうです。 ヘンだなと思って石碑の裏側を見ると英訳が書いてあり、皆はそれを見ながらヒロコの解説を聞いていたというわけです。 太平洋戦争や天皇・日本文化まで、いろいろな事を聞かれるので…日本の高校生以上に日本の事を勉強しなければならなかったようです。