2004年4月11日012号 ヒロコ フィリピンに!

「フィリピンなら安いから行かせて!」…ヒロコの執念です。 授業料から寮費まで含めて年間150万円位と資料には書いてあります。 たしかに今までが授業料だけで200万円でしたから、それと比べたら安いかも知れません。 しかし、海外ともなれば色々な出費も計算しなければなりません。

私がショックだったのはヒロコが中学を卒業したばかりで我々から離れて 独りで、まったく知らないフィリピンに3年間も行きたいと言った事です。 生まれてからずっと、何処へ行くのも三点セットと笑われたくらいの家族でした。 心の中では「いつかは親離れをさせなければ…」とは思っていたのですが 子供の方からサッサと親離れをしていくのですから…。 ここは、親として受けいれざるを得ないと決心したのです。

そうは言ってもまだ子供です。 笑ってしまったのはフィリピンに対する認識です。 おばあちゃんや廻りの人に「フィリピンに行くの」…と言うと ほとんどの人が「なんでフィリピンの高校に行くの?」と不信そうに聞かれるのです。 それがヒロコには不思議でならなかったようです。 ヒロコが通っていたインターナショナル中学にも何人かのフィリピン人の友達がいました。 その家族は皆んなとてもリッチな生活をしています… ヒロコはフィリピンはとても豊かな先進国だと思っていたようなのです。

高校はマニラから300Kほど北に行ったバギオという高原都市にあります。 入学の時は三点セットもしばらくはお預けという事で家族3人で行くことになりました。 私はまずヒロコにフィリピンがどんな国なのか、初めにしっかり認識して欲しいと思い マニラのホテルについてから街中を歩きまわりました。

裸足で物売りにくる子供、裸電球がぶら下った露天で貧しい食事をする人達 大き交差点に信号がな雑踏の中クラクションをうるさく鳴らし通りぬける車。 そして翌日マニラからバギオに向かう車から延々と見た景色も… ヒロコにとっては生まれて初めて見る景色ばかりでショックだったようです。

2004年4月4日011号 生保のロコハウス?

なんといっても欲がないのです。 これは性格で、いま現在もとんでもない貧乏で生活苦に喘いでいるのですが… でも人は私を見てこういうのです…「いつも悩みがなさそうで幸せそうですね」と。

そんな私ですがだんだん『生保のロコハウス』として注目されるようになっていきました。 いや大した事はないのです、損保の契約が少なかったので、ちょと生保が目立っただけなのです。

東京海上あんしん生命の商品や販売方法が私にあっていたことはたしかです。 それまで損害保険の傷害保険やゴルファー保険でも細かく分析して、お客様本位の 保険設定していたのですが採算ベースに合わずYUKIや同僚からも道楽に思われて いたようです。

なんだかんだといっても新聞配達よりは稼げるようになったことは確かです。 今では損害保険と生命保険はロコハウスの大きな二本柱になっているのです。

さてそんな事で、どうにかこうにかヒロコを途中退学させずにインターナショナル中学を 無事?卒業さすことだけは出来たののですが、 次は高校進学の問題が控えています。

ヒロコと仲の良い友達の多くは欧米の高校に留学、留学しない友人も国内のインターナショナル の高校に進学です。 しかし、中学を卒業さすだけでもヨレヨレになっている我が家に、そんな余裕はありません。 でもヒロコは日本の高校にもまともには行けないのです。 インター校は我が国では学校として認められていないのです(通学の学割も受けられません) したがって中学の卒業資格のないヒロコが日本の高校に行くとしたら【帰国子女】として 引き受けてくれる私立高校しかなく、そこに内定はしていたのですが…。

「フィリピンに行く!」…とヒロコが突然言い出したのです。 せっかく覚えて英語で授業を受けたいという強い思いがヒロコにあったようです。 そして、「ここなら安く行けるから…」と具体的な学校を自分で探し出してきたのです。

2004年3月22日009号 新聞配達

「KENが約束通りに収入を上げてくださらないのが、すべての原因です!」 YUKIは私を激しく攻め立てます、ヒロコは目にいっぱい涙をためています。 「もうこのままではヒロコをインターナショナル校に通わす事が出来ません…」 と突然YUKIが言いだし、また家族会議になったのです。 入学から半年たって、ヒロコが楽しそうに語る学園生活を聞くのが楽しみになってきた矢先です。 ヒロコはもとより私も大変なショックでした。 私はのんきなもので、この時になって初めて学校にとんでもないお金がかかる事がわかったのです。 そうと知っていれば我が家の現状では、初めからムリだったのです。 なんせバブルのピークに買ったマンションの高金利が家計に大きくのしかかり、 キャリアウーマンだったYUKIはバブルがはじけ、ただのオバサンになっているのです。 でもYUKIは私が稼ぎさえすれば問題はない!…と思っているのです、マーたしかにソーですが… 何てたって不景気の先取りだけは、しっかりやっていた代理店です。 お得意様の倒産もあり売上を維持するだけでも大変な状態だったのです。

でも、めったに泣いた事のないヒロコが涙をこらえて、ただただ両親の話を聞くしかない 姿を見ていると、私の方が泣けてくるのです。 「よし!やるぞ!」私は決心したのです。

それから私は毎日午前3時に起きて朝刊の新聞配達です。 本業で稼げ…と言われても保険の仕事は朝から晩まで気合を入れて働いたからといって 必ず収入が増えるというものではありません。 第一そのような営業は私の保険代理店の経営理念と違ってきます。 確実に稼げて本業に支障をきたさないのは早朝の新聞配達しかない…と思ったのです。

新聞配達は1994年の11月から1996年10月まで約2年間続けました。 何でもエンジョイする性格の私は、毎日の朝食も旨く!結構楽しく!こなしました。 でも、どう慣れてもどうこなしても月10万円、年間120万円が限界です。 YUKIが私の向ける気配も、だんだん厳しいものになってきました(ホントーに怖いんですヨ) だからといって、夕刊も配って…牛乳配達して…ついでにヤクルトも…てなわけにはいきません。 毎朝3時の起床は夜の踏ん張りは利かないし、本業にも影響しだしました。

そんな矢先に、新聞に活字だけの一面広告が掲載されました。 10月からスタートする東京海上あんしん生命の広告です。 【おかしいな、人間が生命保険にあわせてる。】というタイトルをかこんで、なぜ東京海上 が生命保険をはじめるのか、その理由が書かれていました。 勿論、私は東京海上が生保を始めるのは知っていましたが、生保には消極的な考えでした。 なぜなら、あまりにも保険会社本位の我が国の生保事情に絶望していたからです。 しかし、この広告には私が普段思っていた理想的な生保販売のかたちが載っていたのです。 話半分にしても、これなら真剣にやってみる価値があると思ったのです。

新聞配達などやっているどころではありません。 「よし!やるぞ!」と私は再び決心したのです。

2004年3月15日008号 インターナショナル・スクール

先週は緊急レポート『吉野家のカレー』で話が中断してしまいました。 今ローマにいるヒロコにチャットでこの事を話すと「ヒロコより吉野家をとったんだ…」なんて 嫌味を言われてしまいました。 吉野家はあれからすぐ250円の『とん丼』を出して、巻き返しを図っているようです。 さて、話はインターナショナル・スクールです。 私だってインターナショナル・スクールの存在ぐらいは知っています。 しかし目の前にいる二人は、私をさしおいて、すっかりその気になっているのが気に入りません。 「で、入学試験は何時で、入学金はいくらかかるの?」私はYUKIに聞きました。 「え!なにも無い!…」私は後の”無い”に心が大きくなびきました(ヒロコは先の”無い”に…多分) 考えてみれば、外国の子女も親の都合で出入りする事もあるでしょうから、入試や入学金が 馴染まないのもたしかです。 「第一志望がソコなら、入試をどーのこーのという前にまずソコをあたるのが先決」 との私の意見で、早速お目当てのインターナショナル・スクールを訪ねることになりました。

1993年11月、小学校6年のヒロコとYUKIと3人で杉並にあるジャパン・インターナショナル・スクール(JIS) にむかいました、教務担当のMr.Parrとアポイントがとってあります。 その日は土曜日で生徒の姿はありませんでしたが、予備校のような小さな校舎ですが日本の学校とは 違う洒落た雰囲気が漂っています。 出迎えたMr.Parrはいかにも外国人?という大柄で頭の禿げ上がった人で私たちを明る出迎えてくれました。 もちろん英語で。

彼のまくしたてる英語を私はただただ微笑みながら聞くしかありません。 まー言ってる事の半分くらいはわかるのですが…。 中学で3年・高校で3年・大学で4年、計10年も一応英語を勉強したことにはなっているのですが…この程度です。 まして公立の小学校に普通に通い、普通の日本の家庭(チョット違いますが…)で 普通の日本人の両親(アッ、片方は宇宙人でした…)で育った娘が、いきなり英語だけの世界に ついていけるかが問題です。 しかし、とうのヒロコを見るとMr.Parの英語に動じることなく楽しそうに振る舞っているのです。

なんのことはない、それでMr.Parが「春からどうぞいらっしゃい!」といって私たちを送り出したのです。 学校をあとにするなりヒロコは小躍りして「受かった!受かった!」と大喜びです。 予備校に通い、暗い受験を覚悟していたヒロコにしてみれば【大不戦勝】といったところでしょう。 ヒロコははしゃぎながら友達に電話しています「わたしインターナショナルに受かっちゃった!」 何が受かっちゃただ…と思いながらも、まー私としても一安心というところでした。

そしてYUKIは珍しく私にやさしく、ささやきました… 「KEN…これから学校にお金もかかるのですから、今以上に頑張って稼いでくださいネ」 とうぜん私も明るくこたえます「うん、頑張るヨ」 この一言が…その10ヶ月後に大変な事になるのです。

2004年3月1日006号  ヒロコ

「ロコハウスのホームページなのだから、くだらないことばかり書かないで…」 どうもYUKIが不機嫌になってきたようです。 でも「保険ばかりで、こんなホームページ誰も読まない!」というYUKIの”ご意見”を取り入れて この『週刊KEN』を スタートしたのです…でもたしかにこのままですと『週刊YUKI』になりそうですネ。 では我が家の唯一の肉親、宇宙人とのハーフである一人娘のヒロコについて触れておきましょう。

第3号で”よくしゃべる家族”から逃げ出してローマに行っちゃったと書きました。 (それでも毎晩(ローマでは昼)パソコンで家族3人チャットで1時間ほどの会話をしているのです) で、なんでローマか?というと…現在ヒロコはテンプル大学という米国フィラデルフィアの州立大学の 東京校(港区)に在籍しており、そのローマ校に1学期だけ授業を受けにいったのです。

で、なんでテンプル大学か?というと…高校の3年間をフィリピンのインターナショナル校に行って しまい、日本の大学の受験資格がなかったのです。 で、なんで本校(米国)でなく東京校か?というと…経済的問題 、それだけです。

で、なんでフィリピンの高校か?というと…中学の3年間を東京のインタナショナル校に行って しまい、日本の高校の受験資格がなっかたのです。 で、なんでフィリピンか?というと…これも経済的問題で、どうしても高校もインターナショナル校に行きたい というヒロコ自身の強い意志から自分で探し選んだのです。

で、なんで中学がインターナショナル校か?というと…これはYUKIの陰謀?!だったのです。

ヒロコは1982年1月1日、YUKIの実家宮崎市で元旦の早朝に生まれました。 共働きだったので生後6ヶ月で保育園に、小学校は3年生まで学童保育通いです。 私も積極的に行事に参加しいろいろな役員も引き受けました。 私が飲食店経営に失敗し40歳で保険代理店の道を選んだのも、ヒロコの為の自由な時間が欲しかったからです。 代理店名もヒロコのロコからとったのです。

小学校の高学年になると塾通いです、私は塾にも興味がなく中学も公立でいいと思っていたのですが YUKIは絶対に私立に入れたいと思っていたのです。 それでも塾の父母会にも、ほとんど私が出席していました。 6年生の秋、塾の父母会で先生から「どこを受験するかお決まりですか?」と聞かれたのですが 私は具体的な返事が出来ず、その夜緊急家族会議を開いたのです。 そしてYUKIが言いました「インターナショナルに行かそうと思っているの」 ヒロコも横でうなづいているのです。 「なんだ?そのインターナショナルってのは?」