先週の10(火)11日(水)とディズニーランドに行ってきました(^_^;)
もちろん浦安にある東京ディズニーランドです。 我が家からクルマで50キロほどで一泊する必要はないのですが どうせ行くのなら充分に楽しもうということで、舞浜のホテル・オークラに1泊する事になりました。 …と言ってもソノ費用は私の母が持つそうです。 …と言っても母は要介護5の認知症でディズニーランドどころではありません。 母の面倒を見ている私の妹(長女)のユミコが母の年金から費用を捻出して楽しもうという企画です。 参加したのは他に茨城在住の妹(次女)のジュンコ、そしてもちろんYUKIとヒロコの総勢5名です。 スポンサーの母はその間、介護施設でゆっくり静養いただきます(^_^;)
そもそも、この企画は歴史があって母が元気な頃から母と妹2人で何度か楽しんでいたようで 私も1度だけ参加したことがあります。 ようするに”角倉家”は根っからのディズニーファンだったのです。
ソノ先頭には私が立っていたのかもしれません。 幼いの頃に見たバンビやピノキオや白雪姫の感激は今でも鮮明に残っています。 小学生の頃、ミッキーやドナルドの短編アニメの美しさと動きに目を輝かしたものです。 私が12歳の頃から10年間(1958年~1986年)日本テレビでプロレス中継と交互に放映していた 【ディズニーランド】は家族で楽しみに見たものです。 番組冒頭にウォルト・ディズニー本人が登場し 1955年オープンしたばかりの【冒険の国】【おとぎの国】【未来の国】から成り立つディズニーランドを紹介し、 ティンカーベルが舞い降り妖精の粉が降り掛け 「今回は○○の国からお送りします!」…というのに胸躍らされたものです。
7歳年下と10歳年下の二人の妹へのクリスマス・プレゼントはディズニーの絵本や 今でいうディズニー・グッズ。 ディズニーの映画に連れていった事も何度もあります。 そして「新婚旅行はディズニー・ランドに行く」と10代から決めていて(^_^;) 1981年YUKIとの新婚旅行はもちろんカリフォルニアのディズニー・ランドでした。 ① ② ③ 1984年、ヒロコが2歳の時にロス・オリンピック観戦とでディズニーランドへ。 ① ② 1988年大晦日はディズニー・ランドでカウント・ダウン1989年元旦を迎え… ① ② 帰国したら昭和から平成になっていました(^_^;)
もちろんヒロコにもディズニーの絵本全集を買い揃え、 その中からヒロコが選んだ絵本を就寝前に読み聞かせるのが私の日課でした。
1983年には東京ディズニーランドが誕生していたのですが ”アメリカにあるからディズニーランド”というコダワリがあったのですが… それも時間の問題でした(^_^;)
てなわけで… ヒロコはもちろん、かなりのオバサンである私の妹二人がディズニーファンであるのも、 責任の一画は私にある奇妙な5人の団体が成立しているのです(^_^;)
とは言っても私とYUKIがディズニーランドに行くのは十数年ぶりです。 どうせ行くなら、まだ行ったことがないディズニー・シーと思ったのですが、 ヒロコは友だちと、妹も二人で…昨年はそれぞれ1泊旅行で楽しんでいるのです。 昔は私がリードしていた”ディズニーの世界”も時代が変り、すっかりオノボリサン状態です(^_^;)
それにしても… どんどんパワーアップし拡大していくディズニーランドいやディズニーリゾートには圧倒されます。 全国の遊園地やテーマパークが衰退していく中でココだけが”ひとり勝ち”というのが良く判ります。
もう駐車場に入った瞬間から駐車場のお兄ちゃんの動作も顔もディズニーの世界です(^_^;) クルマから降りるファミリーの子どもはシンデレラの衣装、親はミッキーやグフィーの耳をつけて 足早にゲートに向かいます。 もちろん園内に入ればキャラクター(ぬいぐるみ)は勿論、アトラクションの案内役・店員・清掃係などなど すべてのスタッフが笑顔をたやさずお客をサポートするのはディズニーランドの特徴だと昔から思っていましたが… それが不自然でなく皆同じようなのが怖い気もします(^_^;)
しかし、これによって客も完全にディズニーの世界に没頭し催眠商法のようにディズニーグッヅが飛ぶように売れ それが子どもにも引き継がれ、りピートが繰り返されていくのです。
今は飯山(長野県)の里山での稲作に安らぎと憧れを感じるようになってしまった(^_^;)私には… 広大な敷地すべてが人工的に作られ完璧なまでにシステム化・マニュアル化された空間に 違和感を感じてはしまう年齢になってしまったのかもしれません。
[…]