坂本さんの今月のセミナーのゲスト・スピーカーが私である事は83号でお伝えしました。 9月15日、そのセミナーも無事?終了し、何時もの餃子屋さんでの二次会はアルコールも入って 近くに席に座った者同士がそれぞれの会話で盛り上がったいます。
私の隣に座ってるYUKIの、そのまた隣に座っている坂本さんが、YUKIにそっと聞いています。 「今日のKENさんのトークどうでした?」 私は聞こえないふりをしながら、少し耳をそばだてると、やっぱり 「正直つまんなかったですね」とYUKIは答えているのです。(^_^;) もちろん、私は先月の新越さんのようにYUKIにその理由を追求するような恐ろしい事は決していたしません。 私は多分そう答えるであろうことは充分予想していたからです。
でもこの日、私はとても嬉しかった事があります。 私が敬愛する元祖FPとして名高い、小野瑛子さんに来て頂いたことです。 大病をされて大変心配していたのですが、この日の三次会のためにと 山形からわざわざ取り寄せた”鳥海ちゃ豆”を茹で、それに手作りの”煮付”まで持参して下さったのです。
私が【小野瑛子】の名前を初めて知ったのは今から20年ほど前の事で その頃の生命保険といえば、全部といってよいほど『定期付終身保険』の時代でした。 東京海上が生保を始めるのは96年からで、それまで私もF生命を扱っていましたが、 全社横並びでの『定期付終身保険』という商品に私は大変な疑問を持っていました。
私が不思議でならなかったのは誰ひとりとして、 この『定期付終身保険』に異議を唱えるマスコミや専門家がいないことでした。 私はF生命でも一本の『定期付終身保険』も販売せず変人扱いをされてたものです。
そんな中で『定期付終身保険』に噛み付いている女性の名前を発見したのです。 それが小野瑛子さんだったのです。 でも、しばらくして彼女の名前がバッタリとマスコミから消えてしまいました。
なぜ彼女がマスコミの世界から姿を消したか、それは… 漢字生保しかない時代に『定期付終身保険』を批判する事は保険業界そのものを敵にまわす事だったのです。 マスコミの大きな広告主である生保業界から睨まれてしまったら、保険評論家としての発言の場が 無くなってしまうという事だったのです。 しかし、外資系生保や損保系損保も保険業界参入し、漢字生保破綻などで、『定期付終身保険』の 問題点がやっと表面化し、小野瑛子の名前を再び見るようになったのです。
そんな彼女の復活に感動した私は、生命保険の熱い想いも込めたファンレターを お送りしたのがお付き合いの始まりでした。 6年ほどまえ小野さんはホームページを開設され、その掲示板や保険関連のフォーラムには 私も数多くのカキコミをさせて頂いていましたが、2年ほど前にHPを閉鎖されました。 その数年間は保険以外にも9.11や平和についてなど、数多くの議論に参加させて頂きました。 そして常に契約者や弱者の立場にたって権力に決しておもねる事のない凛とした姿勢に共感し また、その反面?とてもミーハーで、そそっかしい性格にも、たくさん触れることができて ますます、eikoファンになったしだいです。
広島でお生まれになった小野さんは6歳の時に原爆に被爆され、お父様とお姉様を亡くされ、 ハワイの二世だったお母様と小野さんは奇跡的に助かったそうです。 そのお母様の英文の手記を元に書いた『炎のメモワール』が小野さんのジャーナリストとしての出発点であり、 それが彼女のバックボーンにもしっかり根付いているようです。 その被爆経験が60年を経過して突然、牙を剥いたようです。 病名は被爆者が発症しやすいという甲状腺障害による「バセドウ病眼疾」 白血球が増殖して手術は危険だいう医師に、「私には命よりも視力が大切」と訴え 口の中を切開し目の奥の骨を削る、片目づづそれぞれが2,3時間かかる大手術されたのです。 いまもステロイドによる治療を続けておられ「おかげで、こんなに筋肉が付いちゃった!」と笑いながら 私に腕を触らせてくれるのです。
今、小野さんは、そのような病気と戦いながらも北朝鮮脱北者の支援を私財を投げ打ってまでされています。 その事が7月に週間誌の女性自身に小野さんの写真入りで掲載されました。 私は、それを拝見して、小野さんの凄さにまたもや感動しました。 小野瑛子は美人の誉れが高いヒトです(^_^) 私が居候していた彼女のホームページの表紙には、「いつ撮った写真じゃい?」と冷やかしたくなるような いつまでも美しいソフト・フォーカスの写真がありました。 そんな小野さんが、週刊誌に「バセドウ病眼疾」と大手術後の写真を堂々と?数枚も掲載されているのです。 でも、ほんとうに凄いのは、そんな事もオクビにもださず、以前とまったく変わらないという事です。
[…]