2009年02月16日265号 叔父の葬儀

『陽一郎にいちゃん』と呼んでいた私の叔父の陽一郎が11日に亡くなりました。 77歳の誕生日を迎えて4日後です。 誕生日まではとうてい持たないと言われていました。

ちょうど2ヶ月前の12月11日に那須塩原までお見舞いに行った時の模様は 週間KENで書きましたが、 実はこの時点で医師からは「生きているのが不思議」と言われていたのです。 それでも叔父は頑固なまでに入院を拒否して普通の生活を通そうとしました。 入院をしてからも意識は通常で医師や家族に退院をもとめ続けました。

もちろん叔父は病気の現況は判っていました。 叔父は頑強な人でしたが交通事故での輸血が元で肝炎になって 定期的な治療を続けていましたが、 肝臓癌になっていることを医師が気付いた時は手の施しようが無かったようです。 でも、そんなそぶりは最期まで見せまいと覚悟をしていたようです。

葬儀は親族のみというのも叔父の意思だったようです。 出席したのは喪主の佳子叔母と長女と次女のファミリー4名づつの9名、 それに陽一郎の妹(私の叔母)2名、 その叔母たちと一緒に叔父の見舞いに何度か行っている私の妹の由美子が 私の母(陽一郎の姉)の名代として…。 ま~叔父からみて完全な親族というのなら、甥の私は圏外になるわけですが(^_^;) 甥・姪の代表として私が辛うじて選ばれたようです。 したがって私はYUKIをおいてひとりで那須塩原の葬儀場に向かいました。 ① ②

どこでも遠慮なく写真を撮る私ですが、 「おにいちゃんの顔は撮らないでね、あまりにも変わり果ててるから…」 棺に花を添えるとき、小さな声で京子叔母から言われました。

実は亡くなる10日ほど前、 YUKIと一緒に那須の病院までお見舞いに行っているのです。 由美子からは意識はハッキリしていて見舞いにいったら喜ぶと言われていたのですが その時は、点滴をしたまま痩せ細った凄い形相で眠っていて、声もかけられず 写真も撮れず(点滴の写真を撮るのが精一杯)とても落ち込んで帰りました。 でも後で聞いたのですが、 そんな状態でも声をかければ目をさまし普通?に対応していたというのです。

棺の中の叔父の顔は、その時よりさらに痩せ細りミイラのようでしたが 病院で見た表情より、ずっと美しく私には見えました。

火葬場の待合室で ① ② 喪主の佳子叔母から会食(精進落とし)の前の”献杯”の音頭を頼まれました。

火葬場からに戻って会食は、とうぜん総勢13名の、ひっそりとしたものでした。 ① ② こんなところまで窮屈な式場の司会者はいらないのでと思いました(^_^;) ムードメイカーの私としては、ここは明るく”献杯”の音頭を取らせてもらおと思っていたのですが、 司会者が「皆様、テーブルにある杯を持って起立して、遺影に向かって下さい!」 私も含め13名が遺影に近づき、遺影に杯をむける体制になりました。 司会者はそこで…私がまず最初に声をかけ、後に続くよう言いました。 ようするに私は「献杯!」とヒトコト言ってオシマイになりました(^_^;)

叔父の棺に花を添えた時には誰もが涙しましたが ① ② 火葬場で遺骨を拾う時は不思議な事に誰も涙しませんでした。 ① そこに叔父の気配を感じなかったからではないでしょうか? 棺の中の叔父の表情が私には美しく思えたのは… 肉体に宿る命の炎を完全燃焼させたように見えたからです。 叔父は肉体という大きな重石から解き放され 自由に羽ばたき、大切な大切な家族を見守っているように思えました。

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