2005年10月03日089号 喫茶店 拾穂庵

「ところで弟のヒロシさんは今、何をされているのですか?」 「定年後、坂本で喫茶店をやってるワ…」

27日、いつものYUKIとのクルマでのツアーで伺った神戸(東灘区)のI様宅から、ほんの2キロほど… 古い古い、お付き合いのノリコさん宅が、あまりにも近いので突然、お邪魔をさせて頂いてのことです。

どのくらい古いお付き合いかというと…まず1枚の写真をご覧ください。 左側の一番小さな男の子が私で、乾杯のビールを持っているのがO先生、その後ろがO夫人。 そして、ノリコさん、ヒロシさん(O先生の隣中央)、タカシさんの3姉弟です。 因みに私の後ろが母、その隣が伯母、左端が祖母で、 伯父と父は写っていないので多分、写真の撮影と照明だったのでしょう。 五十数年前の正月に京都の角倉家で撮ったOファミリーとの写真です。

二枚目の写真は、その時に撮った角倉家全員の写真です。 私は広島の上下で誕生し、生後4ヶ月から幼稚園(栄観堂幼稚園)を卒業するまで 京都で伯父夫婦と祖母、それに私の家族(父母と私)の計6人が同居していた時期があったのです。 伯父夫婦には子供がなく、私もこの時は一人っ子(東京で妹二人が誕生)でしたから 大人ばかりの静かな環境の中で、私は物静かで寡黙で礼儀正しい凛々しい(りりしい)子として育ったのです。 (YUKIもヒロコもまったく信用しませんが)

ただし、このもの静かな家に時々、嵐がやってきます…それが賑やかなO先生ファミリーです。 開業医のO先生は病弱だった私(これもYUKIやヒロコは信用しないのですが)には、 すぐ注射をする、とっても怖い存在だったのです。 私の伯母とO夫人が女学校の親友同士という関係だったのです。

そんなわけで、私の幼少期の記憶としてのO先生ご夫妻は強烈なものでした。 十数年前の話ですが、ホノルルからほど遠いリゾート地のトイレで老夫婦とすれ違いました。 私はYUKIに「今のヒト、もう何十年もあっていないO夫妻のような気がするのがけど…」と言いました。 YUKIは「そんなこと私に言われてもわからないから、出るの待って直接聞けばいいじゃないですか」と あたりまえの事を言われ、その老夫婦がトイレから出てくるのを待ちました。 私はこわごわと「大変失礼ですが、ひょっとしてO先生ではないですか?」と確認したところ やっぱりご本人! ハワイで、それもあまり日本人が行かない郊外のリゾートの人気のないトイレで なんという奇遇とばかかり、感激したものでした。

そんな縁で、長女のノリコさん、長男のヒロシさん、医者を継いだ次男のタカシさんには 父が晩年の入院や療養では力になって頂きました。 ノリコさんのご主人のAさんにも大変お世話になっており、親戚同然のお付き合いをさせて頂いています。 こうして考えると”人の縁”とは不思議で大切なものと思わずにはいられません。

さてさて…いつものように前置きが長くなってしまいました(^_^) その長男のヒロシさんも私より4歳ほど年上ですから会社もリタイアされたのではと思い 姉のノリコさんに冒頭のような質問をしたのですが、「坂本で喫茶店」という意外な答えです。

坂本は京都のO家の実家からクルマで抜け道を通れば30分ぐらい、 紅葉の名所としても有名な、比叡山のケーブル駅もある由緒ある門前町です。 そこに、やはり京都で開業医をされていたO先生のお父さん(ノリコさんの祖父)が 別荘として購入され、そのまま残っているのです。

そこで喫茶店をとなると、昔はケーキ屋KENちゃんといわれた私は俄然興味がそそられます。 帰りは比叡山延暦寺を見て、その喫茶店によってみようという事になったのです。

まさに、そこは雑誌【サライ】【自遊人】【大人のOFF】…の世界です。

ヒロシさんとお逢いするのは何十年ぶりですが、昔の面影は充分に残っています。 そして、なによりも活き活きと楽しそうに喫茶店を営んでおられるのです。

定年後のヒロシさんに「坂本の家で喫茶店をしたらと…」とのアイデアを最初に出したのは 奥様とお嬢様だったようです。 O家の長男として坂本の家に愛着がありながらも、古い家と広い庭園の維持管理に頭を痛めていた ヒロシさんにとって『一石二鳥』いや健康を考えれば『三鳥』にもなる名案です。

そんなわけで、商売っけはほとんどありません。(^_^) ヒトを雇ったら、それだけで赤字ですから、お店はヒロシさんだけ。 したがって、お店の電話番号はヒロシさんのケータイ。 大きな看板や宣伝をしているわけではないので、普段の日はお客様がゼロの日も。 でも、庭の手入れや草むしり、そして近所のお付き合いも増えて、それなりにお忙しいようです。 一番困るのは、お客様が同時にたくさん来られることで、そんな時はお客様に手伝ってもらうそうです。

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